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イエスの祈り(2021年5月9日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 211番 あさかぜしずかにふきて 奏楽・長井志保乃さん


「イエスの祈り」

マタイによる福音書6章1~15節

関口 康

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

4月25日から始まった東京等の緊急事態宣言が今週終わるはずでした。しかし5月31日まで延長されました。感染症の拡大が収束しないことも残念ですが、政治が有効な手立てをとりえていないようにしか思えないことこそ残念です。わたしたちにできるのは祈ることです。しかし、大切なのは、何を、そしてどのように祈るかです。

今日の聖書箇所も日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。緊急事態宣言に合わせて選んだわけではありません。しかし、この箇所でイエス・キリストが弟子たちに「だから、こう祈りなさい」(9節)という言葉に続けてわたしたちがよく知っている「主の祈り」をお教えになったことを、いまわたしたちが置かれているこの状況の中で改めて確認する機会を与えられるのは、神の導きであると感じるばかりです。

わたしたちは祈ります。祈らなければなりません。しかし、今日の朗読箇所の1節から8節までにイエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、人は祈るときにも偽善的でありうるので気を付けなさいということです。とても耳の痛い、厳しいことをイエスさまがおっしゃっています。

文脈からいえば、この箇所でイエスさまは「人に施しをすること」(2節以下)と「祈ること」(5節以下)を共に「善行」(1節)の具体的な内容として挙げておられます。言い方を逆にして言い直せば、「善行」とは「人に施しをすること」や「神に祈ること」を指すと考えておられます。しかし、その「善行」も、人の手にかかると偽善的になされる場合があるので気を付けなさい、とおっしゃっています。

この場合の「偽善」の意味で最も近いのは仮面をかぶって演技することです。心にもないことを行い、語ることです。いまわたしたちは外出するときには必ずマスクをしていますので、「仮面をかぶることが偽善である」と言われると、ぞっとするものがあります。マスクは外すべきではありませんし、そういう意味ではありません。

むしろイエスさまがおっしゃっているとおりです。「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(2節)。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(5節)。

共通しているのは、人からほめられたい、人に見てもらいたい、つまり人から評価されたいということが動機でありかつ目的であるような善行を、人目につくところで行うことです。それをイエスさまは「偽善」と呼んでおられます。

「それのどこが悪いのか。たとえそれが偽善であるとしても、善いことをしているのだから、結構なことではないか。偽善を恐れて何もしないよりもましである」という反論がありえます。そのような意見にしばしば接します。私自身もどちらがよいか判断に苦しむことがよくあります。しかしイエスさまは、そのような善行のあり方をお嫌いになりました。

祈りについても同じであるというわけです。しかし、これも難しい問題を含んでいます。私の話になって申し訳ありませんが、生まれた時から今日まで55年も教会に通い、30年以上牧師の仕事を続けてきたのに、人前で祈るのが苦手です。だいたいいつも、しどろもどろになります。

もし礼拝を「人前でない」と考えることができるならまだしも、そういうわけに行かないので、事前に祈りの原稿を書いて臨む姿勢のほうが良いと思うところがあります。ふだんの礼拝を軽んじる意味はありませんが、結婚式や葬儀のような場面でしどろもどろの祈りではまずいでしょう。

しかし、原稿や式文を朗読するような祈りをすること自体も私は苦手です。なぜ苦手なのか、その原因を探っていくと、どうやらいつも今日の箇所のイエスさまの言葉が引っかかっていることに気づきます。苦手は克服すべきでしょう。しかし、一筋縄では行かないものを感じます。

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(6節)とイエスさまがおっしゃっています。お祈りが苦手な牧師の話を続けるわけに行きませんが、奥まった自分の部屋で祈るだけで牧師は務まらないでしょう。

しかし、このようなことを縷々おっしゃったうえで、イエスさまがいわばひとつの結論として弟子たちにお教えになったのが「主の祈り」であることの関係を考えることは、問題解決の糸口になると思います。特にイエスさまが「異邦人の祈り」を批判する言葉の中でおっしゃっている「くどくどと述べてはならない」とか「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」という厳しい言葉は、その意味をよく考える必要があります。

逆の言い方をすれば、イエスさまは簡潔で、端的で、時間的にも短い言葉で祈ることを求めておられるということでしょう。原稿を書くなり式文を読むなりすること自体が間違っているわけではなく、演技の台詞のような言葉を長々と述べたからといって、その祈りの効果が上がるわけではないというような意味になるかもしれません。

そしてイエスさまは「主の祈り」をお教えになりました。つまり「主の祈り」は、偽善者の祈りのようでない、簡潔で、端的で、時間的にも短い祈りの言葉である、という意味になるでしょう。本当にそうなっているかどうかは考えどころです。わたしたちにとっては「主の祈り」も、意味も分からず唱えているだけなら、演技の台詞と大差ありません。

わたしたちが用いている文語訳の「主の祈り」は1880年訳です。なんと141年前です。古い言葉のほうが、威厳があるからでしょうか。そうかもしれませんが、意味が分からない人にとっては台詞になるだけでしょう。

最後に言います。私が「主の祈り」の解説をするたびに強調して申し上げるのは、この祈りは徹底的に「地上的な」意味を持っている、ということです。特にそのことがはっきり分かるのは「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」です。

神の御心が「天」で実現しているだけなら、何の意味もありません。絵に描いた餅です。「地」においてこそ、わたしたちの現実の世界と社会においてこそ、御心が実現しなくてはなりません。「神の国」がこちらに「来る」のでなくてはなりません。そのことを祈るのが「主の祈り」です。

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りながら貧困で苦しむ人を無視するわけに行きません。それは世界の中の貧しい国の人々だけの話ではありません。わたしたちの今の現実です。

富裕層の人たちばかりの教会を作りたいですか。生活に窮する人々を見下げるエリートばかりの教会を作りたいですか。わたしたちは断じてそのように考えません。「主の祈り」の心をもって生きる教会をこれからも目指していこうではありませんか。

(2021年5月9日 主日礼拝)

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