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イエスの復活(2021年4月4日 イースター礼拝)

石川献之助牧師

讃美歌21 325番 キリスト・イエスは 奏楽・長井志保乃さん
讃美歌21 300番 十字架のもとに 奏楽・長井志保乃さん



「イエスの復活」

ヨハネによる福音書20章 1~18節

牧師 石川献之助

今年も主イエスの御復活の喜びを、互いに交わしあいたいと思います。私共の信ずる福音には、主イエスの復活の信仰があります。その信仰をより確かなものとするために、今日の復活節礼拝に心から熱き想いをもって臨み、信仰を新たにされたいと思います。 

本日は、ヨハネによる福音書20章1~18節までの御言葉が与えられています。通常復活節に 読まれることが多い聖書の箇所です。ここには、マグダラのマリヤが復活された主イエスと初めて出会う事実が記されています。ユダヤ地方にはマリヤという名前の女性はとても多いと言われています。しかしこの女性があのマグダラのマリヤであったことを特に意識するときに、この出会いは特別の意味をもつものであることを痛感するのであります。

弟子たちさえ逃げ去った主イエスの十字架の下には、マグダラのマリヤが大きな畏れを抱きながらも、聖母マリヤと共に従いました。そのマグダラのマリヤが主イエスから離れず、墓場にまで、それも朝早く主イエスのもとを訪ねたのです。聖書には「週の初めの 日 、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤは墓に行った。」(1節)と書かれています。 当時のパレスチナでは、死体が墓に納められてから三日後に愛する者の墓を訪問することが習慣だったそうです。土曜日が安息日であったので日曜日の朝早い時間に、マリヤは主イエスへの思いからじっとしていることができず、かけつけたことが想像されます。

マグダラのマリヤについて、 ルカによる福音書8章1節~3節において、「 七つの悪霊を追い出していただい たマグダラの女と呼ばれるマリヤ」と言う記述が登場します。主イエスによって、悪霊を追い出し病気をいやしていただいた何人かの女性の一人に、マグダラのマリヤがいました。これらの婦人たちと一緒に、主イエス の福音伝道 の旅を支え、一行に奉仕をしていたと書かれています。

主イエスと出会い 、病気が癒され、あるいは自分の罪の許しを経験した者は、自分の罪が許されるということばかりではなく、律法にもかなう新しく生きる道へと変えられていくのです。マグダラのマリヤら婦人たちは共に助けあい、主イエスと共に新しい人生を歩んだのでした。こうして、マグダラのマリヤは主イエスの十字架と埋葬に立ち会い、一番に墓を訪ね、復活なさった主イエスに最初に出会った人として重要な役割を担う人となったのです 。

マリヤはイエスの亡骸のために愛を込めて泣き悲しむこと、ただこの一事のために墓を訪れ たのでしょう。しかしその墓から石がとりのけてあるのを見て当惑し、ペトロとヨハネの所に伝えに走ります。彼らも墓にでかけ、ペトロに続き、ヨハネも墓の中に入りました。ヨハネは主イエスの御遺体を包んでいた亜麻布がきれいにもとの形をとどめ置かれていたのを見て、何が起こったのかを悟り信じたと書かれています。ヨハネが信じたのは、主イエスが甦られた この墓の光景を、 ヨハネ自身の目で見たからでありました。

その後11節からは、墓で悲しみ泣いているマリヤの墓で悲しみ泣いているマリヤのもとに主イエスが現れた箇所へと現れた箇所へと続きます。マリヤは泣きながら、墓の中を見ると、イエスの遺体のおいてあった所にマリヤは泣きながら、二人の白い衣を着た天使を見ました。

天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリヤは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」こう言いながら後ろをこう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかしそれがイエスだとは分からなかった。(13~14節)と聖書にはあります。マリヤは悲しみと涙の余り、その人がその人が復活された主イエスだと認識できなかったのです。

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(15節)マリヤはその人が園丁であると思い「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしが、あの方を引き取ります。」(15節)マリヤの心は主イエスのことで一杯であったので、空になった墓の方に向けられていました。

このようなマリヤの姿に、大切な人を失い悲しみにくれる私たちの姿をみいだすことができます。しかし、主イエスは「マリヤ」と声をかけて下さいました。主イエスの御声を聞き、マリヤはすぐに主イエスの御声を聞き「ラボ二」、先生と答えました。主イエスは自分の心の悲しみを越えて、自分の心の悲しみを越えて、兄弟たちにこの知らせを伝兄弟たちにこの知らせを伝えに行くように言われました。かつて主イエスが弟子たちに幾度も語って来られたことが、今や事実になろうとしていたのです。

マグダラのマリヤは弟子たちのところへ行って「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(18節)

主イエスが、人類の罪の許しのために十字架におかかりになったということを、深く心に留めていたのはマリヤでした。マリヤは主イエスの十字架の死を通して、人類への神の御心を本質的に理解したのです。罪許されて愛を知ったこの人は、贖いの主イエスを仰ぎ見て十字架の下にまで主イエスを仰ぎ見て主イエスに従ったのでした。思いもかけず与えられた唯一唯一の道を歩んだ、マグダラのマリヤの従順と信仰を、深く心に留めたいと思います。

復活節おめでとうございます。

神の愛に直結する主イエスの御心に深く感謝をおささげいたします。

主イエスの贖いの愛に支えられて、私たちも新しい年度を歩み始めたいと思います。

最後に讃美歌300番を味味わいつつ、おさげしたいと思います。。

1 十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う
  あらしふく時の いわおのかげ 荒れ野の中なる わが隠れ家

2 十字架の上に われはあおぐ わがため悩める 神のみ子を
  たえにも貴き 神の愛よ はかりも知られぬ 人の罪よ

3 十字架のかげに われは立ちて み顔のひかりを たえず求めん
  この世のものみな 消ゆるときも くすしく輝く そのひかりを

(2021年4月4日)

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