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生きてはたらく信仰(2022年9月25日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 475番 あめなるよろこび (1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん


「生きてはたらく信仰」

マタイによる福音書25章14~30節

秋場治憲

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちはすでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである」ヨハネの手紙一3章1節(口語訳)

 今日のテキストもとても有名なお話です。今司会者に読んでいただきましたが、「タラントンのたとえ」として、多くの人たちによく知られているお話です。マタイ福音書では主イエスの十字架への道行の最後の部分に位置付けられており、次の章ではユダの裏切り、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、逮捕へと続きます。マタイ福音書においては主イエスのまとまった教えは、この「タラントンのたとえ」が最後になります。そういう意味では、非常に緊張感に満ちた中で語られたお話です。また前回直前にある「十人の乙女のたとえ」をお話した時には、信仰ということに重きを置き、主の再臨については言及致しませんでしたが、今日の「タラントンのたとえ」は、「十人の乙女のたとえ」の最後の言葉(13節)「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからである。」を受けて、「なぜなら天の国はまた次のようにたとえられる。(からである。[1]」と始まり、なぜ目を覚ましていなければならないのかという理由として述べられているからです。聖書にはこの「なぜならγαρ(ガル)~からである」が訳出されていませんので、タラントンのたとえが独立した記事のような印象を受けますが、実際は「十人の乙女」の最後の言葉を受けてその理由を述べたお話として位置付けられています。あなたがたはその日、その時を知らないのだから、主が再び来られる日に向けて備えをしなさい、なぜなら、その日には審きが行われるからである、というのです。使徒信条によれば「かしこよりきたりて生けるものと死ねるものとを審きたまわん」という段階です。「かしこより」というのは、「その場所から」という副詞です。今現在おられる所からという意味です。今現在おられる所とは、「神の右に座し」日夜父なる神に対して我らの日々の罪の執り成しをして下さっているその場所から来られるということです。もう少しこの譬えの前後に注意してみると、マタイは24章、25章全体でこのテーマ(主の再臨)について語り、そして私たちに勧告していることが分かります。言葉を変えれば、主イエスの遺言とも言うべきテキストです。その日に向けてそれぞれ備えをしなさい、目を覚ましていなさい、というのです。そういう大枠を念頭に置いて、読むべきお話です。

その概略は次のようになります。ある人が旅に出ることになったので、僕たちにその能力に応じて財産を預けた。一人は5タラントン、一人は2タラントン、一人は1タラントンを預けた。5タラントンを預けられた者は、商売をして他に5タラントンをもうけた。2タラントンを預けられた者も同じようにして、他に2タラントンをもうけた。しかし、1タラントンを預けられた者は、それを土の中に隠しておいた。かなりの時が経過し、主人が帰ってきて僕たちと清算を始めた。5タラントンを預けられた者は、主人の前に進み出て他に5タラントンをもうけたことを報告した。2タラントンを預けられた者も同じように主人の前に進み出て、他に2タラントンをもうけたことを報告した。これに対して主人は二人を同じ言葉で褒めています。「忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」

 ところが1タラントン預けられた者は、「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」と言った。これに対して主人は「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私のお金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来た時、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」という非常に厳しい言葉で結ばれています。

 タラントンというのは元来キログラム、トンのように重さの単位でした。それが通貨の単位として用いられるようになりました。新共同訳聖書の巻末に「度量衡および通貨」という頁があります。聖書を読む時に参考になると思います。それによると1タラントンは6000ドラクメで、ドラクメはデナリオンと等価とあります。1タラントンは6000デナリオンになります。1デナリオンは当時の労働者の1日の賃金と言われていますので、現代であれば1万円くらいでしょうか。そうすると1タラントンは6000万円という高額になります。これは何を意味しているのでしょうか。

 またこのタラントンという言葉は、その能力に応じて与えられたということから、「天賦の才能」という意味になり、才能ある人、テレビタレントなど広く用いられるようになりました。これらのことは信仰暦の長い方は今までに何度も学んできたことだと思いますが、初めての方もおられるかもしれませんので申し添えておきます。

 この譬えを細かく見ていきたいと思います。30節のこういう厳しい審きの言葉を聞きますと、私たちは戦慄を覚えます。自分は大丈夫なのだろうか。私たちは自分の中を見まわしてみる。だめだ、自らの思いにおいても、行いにおいても到底神の裁きに耐えられるものではない、と思って意気消沈するのではないでしょうか。確かにダメなのです。キリストを離れて自分だけに注目するなら、私たちはだれ一人立つことができなくなります。「義人はいない、一人もいない。[2]」のです。しかしだからこそ主イエスが手を差し伸べて下さったことを忘れてしまって、ダメだ、ダメだ、を繰り返してはいないでしょうか。罪を憎む者は、すでに罪の外にあり、選ばれた者に属しているのです。今日のたとえはそのことを主イエスが、弟子たちに、そして私たちに言い残して下さった最後の遺言として受け止めるべきお話です。

私はこのたとえで最も注目しなければならないのは、2タラントン、5タラントン与えられた僕は、「早速[3]」出て行って、それで商売をしたというこの「早速」という言葉ではないかと思うのです。この言葉がこのたとえを理解する上で重要なキーワードになっていると思います。口語訳は「すぐに行って[4]」と訳されています。この言葉は虫眼鏡で見て見ますと、15節の文章が終わった後に、「早速、」となっており、16節の言葉の冒頭に位置付けられていることが分かります。ギリシャ語聖書もそのように区切られています。面白い区切り方です。つまり聖書はこの「早速」「即座に」「すぐに」「ただちに」という意味の副詞を、とても強調しているのです。ここにはこれら二人の僕が、喜び、勇んで歩みだす姿が浮き彫りにされています。17節も「同様にして」という副詞が冒頭に置かれています。マタイはこの言葉によって、そしてその配置を通して二人の僕が自発的に、意欲的に主人の負託に応えようとしている姿を浮き彫りにしようとしています。

5タラントン預けられた者は、更に5タラントンもうけた。2タラントン預けられた者も更に2タラントンもうけた。この言葉にはそれぞれエンジン全開で、それぞれの能力に応じて全力で主人の負託に答えたということが伝わってきます。ここには父の家に足を踏み入れる資格さえない者が、雇人の一人としての資格さえない者が、本来合わせる顔のない者が、子として迎えられた放蕩息子(弟)の喜びがあり、感謝がある。この「早速」出て行ってという言葉には、主人に対して全面的に信頼している、自由で、生き生きとした姿が私たちに迫ってきます[5]

そして、この中には人々から裏切り者、罪人という烙印を押されていた徴税人ザアカイがいる。姦淫の現場で捕らえられ人々の前に引き出された女が、自分と一緒に石打の刑を覚悟された主イエスによって救われた女がいる。強盗どもに襲われ、身ぐるみ剥ぎ取られ、半死半生で放り出されて死を待つばかりの状態にあった旅人が、その傷口をぶどう酒で洗い、オリーブ油を塗り、包帯を巻き、サマリア人自身が座すべきロバの背に乗せられ、宿屋まで運ばれ、宿屋のベットに横たえられ、デナリ二枚を渡して宿屋の主人に介護を頼み、費用が余分にかかったら帰りがけに自分が支払うことを約束して旅立ったサマリヤ人に助けられた旅人がいる。最後の一時間しか働かなかったのに、一日分の賃金一デナリを支払ってもらったぶどう園の労働者がいる。そして私たちがいる。愛された者、救われた者、受け入れられた者、それぞれの喜びがあり、感謝がある。神様が何かを委託される時、神様が何かを与えられる時、それは静止しているものではなく、生きて働かないではいないのです。

 更に見ていくならば、この5タラントンもうけた者も2タラントンもうけた者も共に、「忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」というまったく同じ言葉で褒められています。ではこの「少しのものτα(タ) ολιγα(オリガ)[6]」とは何か。これは「主人の言葉(心)」と解することができます。私たち信仰者にとって「我信ず」と告白しながらも、絶えず「信仰なき我を助けたまえ」と祈らざるをえない状況にある者にとっては、主の言葉はいつも「わずかなもの」なのです。しかしこの二人は、この「わずかなもの」、主人の言葉(心)に信頼し、自分たちを不利に陥れる証書は、十字架に釘付けにして取り除かれたことへの感謝と喜びに満たされ、エンジン全開で応えたのです。私たちを不利に陥れる証書に書かれたことは、すべて真実です。その通りなのです。しかし、キリストはこの証書をゴルゴタの丘の上で、我らに代わって十字架に釘付けにして取り除いてくださったのです。ザアカイも姦淫の女も、放蕩息子(弟)も半死半生で打ち捨てられていた旅人もこの十字架から新たな命を受け取ったのです。

この主人の喜びの中では2タラントンも5タラントンも区別されていないのです。主人は業の大きさにも、稼いだ額にも興味はないのです。主人が評価したのは、5タラントンの業にも、2タラントンの業にも共通してある「従順」「喜び勇んで従う心」「信仰」に目をとめられたのです。「わずかなもの」に目をとめられたのです。二人ともそれぞれの能力に応じて、エンジン全開で、主人の意向に沿って走ったのです。だからこそ、この主人はコップ一杯の水を差しだす業を、最高の業として受け入れられるのです。レプタ2枚[7]を喜ばれるのです。だから主イエスは、「私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。[8]」と言われたのです。この水一杯差し出す行為には、主イエスに対する感謝と賛美があるからです。この小さき者一人が助けられる時、放蕩息子を無事に迎えた時の父の喜びがそこにあるからです。それくらい私たち一人一人は、神の目には価高しということなのです。父なる神はその小さき者の一人を救わんが為に、神の子をこの世に遣わされたからです。私たち一人一人は神の目には、神の子の命を代償として支払ってでも買い取ることに値した、ということなのです。これが私たち自身の価値によることでないことは明らかです。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。[9]」「(他ならぬこの)わたし(こそ)が、命のパンである。[10]この命を与えられた者たちは、自由な、喜ばしい心で神への感謝の下に生きたのです。放蕩息子の弟も、ザアカイも、姦淫の場で捕らえられた女も、サマリア人に助けられた旅人も主イエスに出会い、この命を与えられたのです。そしてこの命に満たされた者が為す業は、どんなに小さい業であったとしても、神はそれを黄金の業として受け入れられるのです。そして私たちもそのように生きることが、許されているというのです。もうすぐクリスマスです。「神はこの卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。[11]」というマリア言葉を聞く日が近づいて来ています。「神は無きに等しき者をあえて選ばれた。[12]」のです。なぜなら、無きに等しき者は、心の底からそう思う者は、2タラントンでも、1タラントンでも1デナリであったとしても、それに同意し、そして主人の意向に沿って心を燃やし、最善を尽くす者となるからです。

 さて感謝と喜びに満たされた二人の僕の他に、このたとえにはもう一人1タラントンを与えられた僕がいました。この僕は主人から預かったお金を、土の中に隠しておいた、と言うのです。彼は主人から預かったお金をギャンブルで使い果たしたというのではありません。また全部呑んでしまったというのでもありません。全額無傷で父に返したのです。あたかも私はあなたに対して、罪は犯していませんと言っているかのようです。しかし、主人はこの僕に対して、「怠け者の悪い僕だ。」と言って厳しく叱っています。この僕の言い分は、「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です。」と言って主人にそのお金を返しています。

 この僕は自分がすでに真実な者、義なる者、罪なき者であるかのように、神の好意を求めず、神に対抗し、神を審き、神を罪ある者、偽りをなす者に仕立て上げているのです。彼は神の下にいるのではなく、神と並んであること、全く神と等しい者、完全な者であろうとしているのです。その結果、彼は自分が不義なる者、愚かな者、罪ある者と思われたくないのです。1タラントンで商売をして、万が一にも損をすることは赦されないのです。それゆえに彼は臆病になり、尻込みし、主人から預かったお金を土の中にかくしておいたのです。ただ死蔵してしまったのです。主人から預かったお金を無傷で返したことを誇りさえしているのです。そして自分のその立場を弁護して次のように言う。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」と。律法のただ中にいるものにとっては、神は自分を審くもの、自分を弾劾して止まない存在であり、敵であり、暴君と見えているのです。彼は自分が不義なる者、愚かな者、罪ある者と思われたくないので、自分を弁護するのです。神を悪者にしてでも、自分を弁護するのです。これはアダムとエバが、神に抗弁した時と同じです。「神の言葉」は二人の前から、小さきものとなり、遂には消えてしまったのです。善悪の知恵の木から生まれたところの「肉の思い」が、依然として生きているのです。「肉の思い」はただ自分のものを求め、神の不名誉よりも自分の惨めさを恐れ、それ故に神のみ心よりも自分の思いを重んじるのです。

 この僕は恐れの真只中にいる。彼は余りに用心深く、自己保身的であり、自分自身が崩れ落ちることへの不安に覆われています。彼は石橋を叩いて、渡らないのです。彼は確かに賢明で、用心深かったかもしれない、しかし、働いて止まない福音の命に触れることはありませんでした。丁度、放蕩息子の兄のように。彼は律法を事細かく守りながらも、すべてを押し付けられた義務として守っていたのです。神殿に十分の一税を支払い、週二回の断食をし、安息日を守り、その他律法の多くの決まり事を事細かく守っていたが、何一つ喜んで捧げたものはなかったということです。放蕩息子の兄と共通するところがある。

 「神は従順を、大きい業の下にも小さい業の下にも等しく隠し、業の差異は顧みないでもっぱら従順の業を見たもう」とはルターのローマ人への手紙講解の中の一節です。しかし、この僕は業の大小にのみ注目する。目に見える分量に注目する。そして、臆病になる。主人の喜び、主人の栄光ではなく、自分の喜び、自分の栄光を求める。彼は与えられた1タラントンに感謝は無く、5タラントン、2タラントン与えられた者よりも多く稼ごうとする。そして、しり込みする。彼らよりも多く稼がなければ、自分の面目が立たないのです。彼は能力無き者、不義なる者と見られたくないのです。それなのに主人は自分には1タラントンしか与えてくれなかった。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」という言葉にはそういう意味も含まれているように思われます。彼は目に見えるところに従えば、負けが決まっている競争―彼の目にはそう見えるーに参加しないのです。あたかも私にも5タラントン与えてくれれば、私も更に5タラントン、或いはもっと多く稼ぐことができるが、たった1タラントンでは話にならないとすねるのです。その結果、彼は銀行に預けて利息を得ることさえせず、ただ土の中に死蔵してしまったのです。利息では他の二人に勝る額を稼ぐことは出来ないからです。業の見てくれを重視する彼は、自分の栄光を求める彼は、小さい業を軽蔑し、大きい業を賛美し、そしてユダヤ人と共につまずきの石(キリスト)につまずいたのです。彼は小さい業の下にも、大きい業の下にも等しく隠されている宝に気付かなかったのです。宝が(泥)畑の中に隠されていることに気が付かなかったのです[13]

 しかし、それでは主人はどうしてこんな僕に1タラントンもの財産を預けたのだろうか、という疑問が湧いてくる。こんな怠惰な僕に、何故、主人は、自分の財産を預けたのか。私はここで「ぶどう園の主人[14]」の言葉を思い出した。私はこの最後に来た者にも、同じように払ってやりたいのだ、という主人の言葉によって自分自身も救われたのではなかったか。あなたも私の家族の一員であるという言葉によって救われたのではなかったか。主人が預けた財産とは、あなたは私が、血を流してでも守りたい人、あなたは私にとって、掛け替えのない人であるというメッセージです。そしてこのメッセージは預けられたタラントンの額にかかわらず、託されたメッセージです。私はあなたに洗礼を施した。わが愛するキリストの故に、あなたをわが子として受け入れた。そのキリストにはあなたを救うことが血潮に値したのであるというメッセージです。ここにすべてが差し出されているのに、放蕩息子の兄同様に、その差し出された財産を何一つ受け取れていない僕がいる。準備はいらない。そのままで、あるがままで、私に従って来なさい。すべては備えられているというのにです。

 神の審きは、業の大きさ、数の多さによるのではなく、それらの業の下にある「信仰」によるのです。信仰というと我らはまたまた不安になるかも知れない。しかし、我らが義とされる信仰というのは、我らが能動的に信じる信仰ではなく、主イエス・キリストが我らに代わって成し遂げて下さったことを受け入れる信仰、受動的な信仰です。放蕩息子、ザアカイ、姦淫の女を振り返ってみてください。彼らは何もしていないのです。彼らは自分の真実によって救われたのではなく、神の真実によって真実なものとされたのです。神の真実によって私たちの不真実、不義、罪が覆われたのです。この結果、私たちの内にある自己追求は止み、逆に神のみが私たちの内で賛美されるのです。主イエス・キリストに結ばれている私たちにとっては、最後の審判は恐れるべきものではなく、かえって「主よ、来たりませ」と待ちわびる時となるのです。「主人の喜び入れ」と言われる日なのです。

もう何度か繰り返しましたが、このことは繰り返し、繰り返し教えられなければならないことですので、今一度伝えておきたいと思います。「神様は私たちを私たちの中にある義によってではなく、われらの外にある義と知恵によって救おうとしておられる。そしてこの義は、われらから出たり、生まれたりするものではなく、別のところから、われらの中に入り来るもの、この地上に生じるものではなく、天来のものなのである。したがって、まったく外的な、そして異なる義が教えられねばならない。[15]」ルターのローマ人への手紙1:1の講解で語られている言葉です。

私たちはみんなこの主人からその能力に応じて主人の財産が預けられています。この負託にエンジン全開で応えたいものです。主イエス・キリストが十字架の苦難を通して成し遂げ、私たちには無代価で届けて下さったことに思いを馳せ、自らのエンジンに新たな火を点したいものです。


それゆえ、不義なる者は審きに耐えない(詩篇1:5)[16]

 義なる者は、何よりもまず自己を弾劾するものである。それだから、義なる者は日に七たび倒れても、また起きあがるのだ(箴言24:16)。なぜなら、義なる者は罪あるゆえをもって自己を弁解することなく、むしろただちに罪を告白し、自分自身を弾劾するからである。これによって罪は、義なる者にとってただちに赦されており、彼は起きあがったのである。(これに反し)不義なる者は審きに耐えない。なぜなら、彼らはユダヤ人のように彼らの過ちを告白せず、みずからを弾劾しないからである。要するに、義なる者が何よりもまず自己を弾劾する者であるように、不義なる者は何よりもまず自己を弁護するものなのである。



[1] RSVはこの節の冒頭にFor(なぜならば)という接続詞を配しています。For it(the kingdom of heaven) will be as when a man going on a journey called his servants and entrusted to them his property ;

[2] ローマ人への手紙2:10~12

[3] この「即座に」という言葉は、「二人はすぐに網を捨てて従った。」マタイ4:20でも使われています。この二人とはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。

RSVは「Immediately they left the boat and their father , and followed him.」(参考)

[4] RSV,He who had received five talents went at once and traded with them ; and made five talents more. at once は「ただちに、すぐに」という意味です。「

[5] ローマ人への手紙8:14~15には「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。[5]」(口語訳)という言葉があります。この言葉は「恐れの霊」が取り去られ、子供が全面的な信頼をもって父親に呼びかける時の「パパ」というニュアンスをもった言葉です

[6] ペテロ第1 5:12 δι’ ολιγων 少しの言葉で 新共同訳「短く手紙を書き」

 エペソの信徒への手紙3:3 εν ολιγω 少しの言葉で 新共同訳「手短に書いたように」と言葉という文字はどこにもないのですが、当然のように予想されているようです。

[7] マルコによる福音書12:41~44

[8] マタイによる福音書10:42

[9] ヨハネによる福音書6:33

[10] 強調構文で書かれています。「(他ならぬこの)わたし(こそ)が、」と訳してみました。私以外に救いはないという位強い表現です。

[11] ルカによる福音書1:48(口語訳)

[12] コリント人への第1の手紙1:28(口語訳)

[13] マタイによる福音書13:44

  「この信仰の中では、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大

きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、

そうしたわざの間の区別はいっさいなくなってしまう。わざが神に喜ばれるのは、わざ

そのもののためではなく、信仰のためであり、そしてその信仰は、わざがどんなに数多

く、またどんなになに相異なっていようとも、すべてのわざの一つ一つの中に、唯一の

ものとして、差別なく存在し、生きてはたらくからである。」(「善きわざについて」第5

ルター著作集分冊3 P.14福山四郎訳 聖文舎

[14] マタイによる福音書20:1~16

[15] 「世界の名著 ルター」中央公論社 P.409

[16] 「世界の名著 ルター」P.386 詩篇1:5の講解より 笠利尚訳


(2022年9月25日 聖日礼拝)

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