スキップしてメイン コンテンツに移動

我は聖なる公同の教会を信ず(2023年9月3日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 403番 聞けよ、愛と真理の


「我は聖なる公同の教会を信ず」

コリントの信徒への手紙一12章12~27節

秋場治憲伝道師

「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」
(コリントの信徒への手紙一12章27節)

「また、御子はその体である教会の頭です」
(コロサイの信徒への手紙1章18節)

 

 私たちは「さあ、使徒信条を学ぼう」といって、使徒信条を学び始めた訳ではありません。ヨハネ福音書の後半部分を読みながら、その都度、事柄が関連する時に言及してきたところです。私たちはこの使徒信条を毎週、自分自身の信仰として告白しています。多くの方が「主の祈り」同様に、既に暗唱しておられることと思います。今まで学んできたことは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず(現在形)、我はその独り子我らの主イエス・キリストを信ず(現在形)、主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり(完了形)、全能の父なる神の右に座したまえり(現在形)、かしこよりきたりて、生けるものと死ねるものとを裁きたまわん(未来形)、と、ここまでだったと思います。ただ聖霊については、度々言及してきたところです。神は完了形で表された事柄により、私たちをご自身と和解させられました。そして御子イエス・キリストは神の右に座すものとされ、再び来たりたもう日に向けて日夜我らの罪を執り成してくださっているということでした。ここが今現在、私たちが置かれている所。神が私たちに対して既に成し遂げて下さったこと、そして将来に向けての約束のもとに、今現在の私たちを支えておられるというのです。

 

ここからは神が私たちに対して成し遂げて下さったことを受けて、それに対する私たちの信仰告白です。「我は聖霊を信ず」で始まります。よみがえられた主イエスが、狼狽する弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われる。罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、父なる神の怒りに打ち勝った主イエスの霊を受けよと言うのです。この霊の導きのもとに私達は、「我は聖霊を信ず(現在形)、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず(現在形) アーメンと告白します。どういうことかと申しますと、今のこの時というのは、神が私たちのために成し遂げて下さったことに、私たちが感謝し、讃美の歌を歌いながら御もとに来ることを望んでおられる時であるというのです。たとえそれが貧しき讃美であったとしても、神はそれを喜ばれる。なぜなら、そのためにこそ御子の十字架はゴルゴタの丘の上に立てられたからです。

エデンの園には善悪を知る木の他に、もう一本「生命の木」がありました。アダムとエバを楽園から送り出した後、神が最初に行ったことは「命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。[1]」これは人間が罪あるままで永遠に生きる者となることがないようにと為された処置でした。ただこの命の木がゴルゴタの丘の上に立てられたのです。主イエスの血潮によってその罪が贖われた者たちが、「永遠の命[2]」を得るためでした。私たちの主は、「主よ、信じます。不信仰な私をお助け下さい。[3]」と叫ぶ者を受け入れてくださる方です。受け入れて私たちの不信仰を払しょくされる。御子によって成し遂げられた神と人間との和解という出来事に、感謝と讃美が捧げられることを望んでおられるからです。

 

それでは今日のテーマである「我は聖なる公同の教会を信ず」とは、どういうことなのだろうか。

今日の「聖なる公同の教会を信ず」というところを原文ラテン語で読みますと、Credo in Spiritum Sanctumsanctam Ecclesiam catholicam, となっています。最後の頁に参考までに原文で全文を掲載しておきます。

 

 Ecclesia という言葉は、私たちも度々耳にする言葉です。これはギリシャ語の εκ-κλησια (エクレーシア)という言葉がラテン語に置き換えられたものです。エクレーシアとは、εκκαλεω(エカレオ― 

呼び出す、召し出す)という動詞の名詞化された言葉です。従って、「神によって呼び出された者たち、召された者たちの群れ(集まり・集会)」という意味になります。

 

 このエクレーシアという言葉をsanctam(聖なる)という言葉とcatholicam(公同の)という言葉が前後から挟む形で、説明しています。そしてこの言葉の直前にCredo in Spiritum Sanctum(私は聖霊を信じます)という言葉があり、その後にこの「聖なる公同の教会」を信じます、という言葉が続いています。主イエスの姿はすでにこの地上にはなく、全能の父なる神の右に座し、私たちにご自身の霊である聖霊を送り、私たちを導いておられる。今はこの「聖霊の時代」ということも出来ると思います。

 

 

この聖霊の導きと支配の下に、私たちは罪人でありながら、同時に、新たに義とされた者として、自由にされた者として覚醒せしめられるのです。私は前回「罪人にして、同時に義人」ということについてお話ししましたが、聖霊はこの罪人の中に、罪人に過ぎない者の中に、新たな人間を創造する神であるのです。私たちがいつもペンテコステに読む使徒言行録2章には、ユダヤ人を恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていたペテロや弟子たちが、この聖なる霊を受けて、そのユダヤ人達を前にして主イエスの甦りの証人となったということを毎年ペンテコステに確認している所です。

 

パウロは第1コリント15:45以下に「『最初の人アダムは命のある生き物となった[4]』と書いてありますが、最後のアダム(キリスト)は、命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人(キリスト)は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。私たちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」

 

御子イエス・キリストの聖なる霊によってこのことがすでに、成し遂げられたと信じることが許された者たちには、その人の内にこの聖なる霊の神殿が建てられ、常に新鮮な命の霊が吹き込まれるのです。この新鮮な命の霊が与えられる時、この聖なるイエス・キリストの霊が、自分自身においては何ら聖なるものでなく、特別なものでもない私が、そして教会が、主の「聖」にあずかるのです。このことについては、主イエスご自身の言葉が残されています。

 

「また彼らが真理によって聖別されるように(ために)、彼らのため私自身を聖別いたします。」(ヨハネ福音書17:19 口語訳)

「彼らのために、私は自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」(同上 新共同訳)

 

 「聖別する」という言葉には「(供え物として)捧げる」という意味もあります。「聖別する」というのは、同時に「神にご自身を供え物としてささげる」という意味です。教会は自分自身としては聖なるものではなく、また、何ら特別な存在でもありませんが、この方の「聖」にあずかるのです。

 

 更に言うなら、へブル人への手紙9:13以下に「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって御自身をきずのないものとして神に献(ささ)げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業(わざ)から清めて、生ける神を礼拝するようにしないでしょうか。」

 

 「主よ、信じます。不信仰な私をお助け下さい。」と言って、御前にぬかずく時、主は私たちを受け入れ、私たちの不信仰を払しょくし、聖なる者の一人に加えてくださるのです。

 

教会に関しては聖書には実に多くの個所があります。その中から教会を考える時に真っ先に浮かんでくる言葉は、第1コリント12:12の「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」という言葉です。私たちの体には多くの部分(肢体)があるように、教会のかしらであるキリストも多くの部分(肢体)から成っている、というのです。私たちはここの部分を注意深く読まなければなりません。ここでパウロが力説していることは、私たちの体同様にキリストも多くの部分から成り立っているというのです。そしてその部分とは私たち一人一人である(27節)というのです。

これは驚くべき言葉です。私たちがキリストの体の一部を成しているというのです。

 

この部分が、「ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」というのです。とりたてて説明する必要がないくらい、明確に解き明かされています。

 

この事実があってはじめて次の聖句が現実となります。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくる時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』すると正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。[5](マタイ福音書25:31~40 50頁)この最も小さい者は、キリストの体の一部であるという事実がなければ、この言葉は成り立たないのです。

 

また使徒言行録9章以下にはサウロ(パウロ)の回心について記されています。そこでサウロが「なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか。」というと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。・・・」この出来事[6]も、主イエス・キリストを信じる者たちが、その体の一部分であるという事実があってはじめて、言えることなのです。(使徒言行録9:1~19 229頁)

 

 ここで「はてな?」と思う方もおられるかもしれない。私たちは御子イエスは全能の父なる神の右に座しておられるのではなかったか、と。確かに御子は全能の父なる神の右に座していながら、この地上に自らの体なる教会を形成しようとしておられるのです。かれは<かしこ>にもいますが、<ここ>にもおられるのです。教会の頭としては、神の右に座しつつ、その体なる教会をこの地上に造り上げようとしておられるのです。

 

「あなた方は、自分が神の神殿(口語訳)であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです。」(コリント人への手紙第一3:16~17)

 

「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていてもすべての部分

が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結

ばれて(キリストという)一つの体を形づくっており、各自は互いに(キリスト

の体の一)部分なのです。(ローマ12:3~5)

 

 使徒信条は個人の信仰告白ではあっても、これは自分だけの信仰という

ことではありません。自分だけがよければ、それでよいというものではあ

りません。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部

分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(第一コリント12:26)

してこれは単なる倫理的な教えというのではなく、現実にこのキリストの

体がこの教会を覆っているという事実なしには語りえない言葉なのです。

それは私たちがキリストの体の一部分であり、尊き主イエス・キリストの

十字架の血潮を代価として買い取られた者たちだからです。私たちが聖な

る神の神殿と言われるのは、それが私たちの功績に起因するもの

ではなく、聖なる方の「聖性」によって覆われた者たちだからです。

 

「また御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から

最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となら

れたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御

子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるも

のであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解

させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心

の中で神に敵対していました。しかし、今や、神は御子の肉の体において、

その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なる者、きずのない

者、とがめるところのない者としてくださいました。(コロサイ1:18~24)

 

 ここに私たちの「信仰の確かさ」があります。パウロは多くの問題を抱えていたコリントの教会に対して神の教会へと書き出し、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々召されて聖なる者とされた人々へと、自分の正しさ、自分の正当性に固執して争っている彼らに、彼らが拠って立つべき原点を思い起こさせようとしているのではないかと思われます。

 

 次に「公同の(catholicam)」ということについて考えてみたいと思います。この「公同の」という言葉は、聖書の中には出てこない言葉です。カトリック教会の聖典と言われるラテン語聖書ウルガータにも、この言葉は出てきません。ラテン語の辞書を調べますと、「普遍的な」という訳語がでています。この言葉は私たちに、カトリック教会を連想させます。まさにその通りで、英語の使徒信条を開いてみますと、I believe in the Holy Spirit, the Holy Catholic Church, (聖なるカトリック教会を信じます)となっています。英語の辞書には、カトリック教会のという形容詞の他に、普遍的な、一般的な、万人に共通の、という意味が載っています。従ってカトリックという言葉は、カトリック教会の専有物ではなく、広く普遍的なという意味を有した形容詞です。

 

 パウロという人は、三回にわたって大旅行をしています。それは異邦人の地に教会を建て、「キリストの十字架と復活による」福音を伝えるためであり、同時にそれらの教会が同じ信仰を持つためでした。直接訪れることが出来ない教会へは、度々手紙を書き、信仰による一致を求めています。それらの手紙が今の私たちの教会にとっても指針となっています。パウロのような巡回伝道者たちに代わってその役割を担ったのが、信条です。私たちが毎週告白している「使徒信条」もその一つです。この使徒信条は多少の文言の違いはあっても、全世界で広く受け入れられ告白されています。

 

 catholicamというこの言葉そのものは聖書の中には出てきませんが、その根拠を聖書の中に探してみると次のような言葉があります。「イエス・キリストは昨日も今日も変わることのない方です。[7](新共同訳 へブル書13:8)

 

「公同性」というのは「普遍性」であり、世界中の場所を超えて、民族、文化、習慣を超えて普遍的であり、また時代を超えて普遍的であるというのです。私たちの教会は、場所を超え、時代を超え、更にすでに召された方たちもその御手の内に置きながら、昨日も今日も変わることがない方の体であるというのです。聖なる教会ということについては、既にみてきました。私たちの教会は弱さ、愚かさをその内に抱えながら、「我は聖なる公同の教会を信ず」と告白しつつその歩みを進めています。このことを使徒信条は、<公(おおやけに)(いずこにあっても)同じ>という言葉で表現しています。それは言葉を変えるなら、主イエス・キリストをその頭とするあるべき教会の姿を信じるということにもなります。同時にこれはCREDO(我、信ず)という私の信仰告白となった時、この聖なる教会に相応しく地上にある教会は常に、改革されるべき教会となるのです。

 

今述べてきた聖なる普遍的な教会を実現するべく、私たちの教会は果たして、この「聖なる公同の教会」を尋ねながら、日々改革される教会であるだろうか、ということが問われているのです。

 

「聖なる公同の教会」は決して自明のものではないというのです。いつでも、誰の目にも確認されることではなく、ただ信仰の目によってのみ確認されることであり、それ故にこの教会は信ずることを求めているのです。いつでも、誰にでも、確認されることであるなら、使徒信条は信ずることを求めはしません。自分の目で見て確認すればいいのです。

 

 神は私たちが御子によって成し遂げられたことが、広く告げ知らされ、

感謝と讃美の歌を歌いつつ御もとに従い来ることを望んでおられる。私た

ちはこの神のわざの遂行に参加しているのです。今のこの時は御子イエス

によって示された人間への愛に対して、私たちの応答が求められている時

であり、我らがその貧しき讃美をもってこの御わざに参加することを、神

は喜ばれるのです。

 

Credo in Deum, Patrem omnipotentem, Creatorem caeli et terrae,
et in Iesum Christum, Filium Eius unicum, Dominum nostrum, qui conceptus est de Spiritu Sancto, natus ex Maria Virgine, passus sub Pontio Pilato, crucifixus, mortuus, et sepultus, descendit ad inferos, tertia die resurrexit a mortuis, ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Patris omnipotentis, inde venturus est iudicare vivos et mortuos.
Credo in Spiritum Sanctum, sanctam Ecclesiam catholicam, sanctorum communionem, remissionem peccatorum, carnis resurrectionem, vitam aeternam.
Amen.
        — "Symbolum Apostolicum".



[1] 創世記3:24

[2] ヨハネ福音書3:16

[3] マルコ福音書9:24

[4] 創世記2:7 これは父なる神が人間を創造された時の言葉です。

[5] はっきり言っておく」というのは、「アーメン レゴー ヒューミン」というギリシャ語で、「誠に汝らに伝えておく」という意味で、これから大事なことを伝える時の前置きの言葉です。またこの「最も小さい者の一人に」という言葉は、ミクロスというギリシャ語の最上級が使われています。最も小さい者、取るに足らない者、という意味が含まれています。また私たちがクリスマスによく聞く「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して最も小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。」という言葉の中にも用いられています。

[6] カール・バルト「和解論」の教会論「地上を旅する神の民」井上良雄訳 P.28

[7] イエス・キリストこそ、昨日も、そして今日も、そして永遠にまさにその(同じ)方なのである」というニュアンスをもった言葉です。

(2023年9月3日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

十字架のキリスト(2023年4月2日 棕櫚の主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 300番 十字架のもとに 週報ダウンロード 宣教ダウンロード 「十字架のキリスト」 ルカによる福音書23章32~49節 関口 康 「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」 今日の聖書箇所についての説教は、 昨年11月20日の主日礼拝 でしたばかりです。4か月しか経っていません。「また同じ箇所か」と思われる方がおられるかもしれません。 私はそのことを忘れて、今日この箇所を選んだわけではありません。受難節と復活節が毎年巡って来ることは分かっていますので、そのとき改めて取り上げようと考え、 昨年11月20日の礼拝 では、深く立ち入らないで残した箇所があります。 それはゴルゴタの丘にイエスさまと2人の犯罪人がはりつけにされた「3本の十字架」が立てられたことについてです。そのことをすべての福音書が記しています。「犯罪人たち」(κακούργοι)と記しているのは、ルカ(23章32節、33節、39節)だけです。マタイ(27章38節)とマルコ(15章27節)は「強盗たち」(λησταί, ληστάς)。ヨハネ(19章18節)は「二人」(δύο)と記しているだけです。 そして、ルカによる福音書には3人とも十字架にはりつけにされた状態のままの、イエスさまと2人の犯罪人の対話が記されていますが、他の福音書にはそのようなことは何も記されていません。その対話の内容を知ることができるのは、今日開いている箇所だけです。 対話の内容はわたしたちが繰り返し学んできたとおりです。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』」(39節)。 「自分を救え」は英語でセーブ・ユアセルフです。今日の箇所に3回繰り返されます。最初はユダヤ最高法院の議員たち(35節)。2度目はローマ軍の兵士たち(37節)。3度目がこの犯罪人です(39節)。 「世界を救え」はセーブ・ザ・ワールド、「子どもたちを救え」をセーブ・ザ・チルドレン。それと同じ言い方ですが、イエスさまに向けられた言葉は罵倒と嘲笑です。 あなたは自称メシアだろう。それなのに惨めだね。あなたは世界を救えない。ユダヤ人も救えない。異邦人も救えない。せめて自分ぐらい救

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で