スキップしてメイン コンテンツに移動

謙遜と和解(2022年4月3日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 十字架のもとに 300番(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「謙遜と和解」

マルコによる福音書10章35~45節

関口 康

「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

今日の箇所のイエスさまは、弟子たちと一緒にエルサレムへと向かわれる途中です。マルコによる福音書では11章から16章に、イエスさまがエルサレムに到着されてから十字架の死と復活までの出来事が描かれていますが、今日は10章です。まだエルサレムに到着しておられません。

旅の途中、直前の段落の中で、イエスさまが弟子たちに御自分に起ころうとしていることを、たとえを用いずはっきりと語られました。「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33~34節)。

なぜイエスさまは、まだ事実が起こる前にこのようなことをご存じだったのかと、詮索してはいけないと私は思いませんが、満足できる答えが与えられることはないでしょう。しかし、このことを私たち自身に引き寄せて考えてみれば、意外なほど、私たちは自分の身に将来起こること予測しながら生きていることに気づくでしょう。

しかもその際、多くのケースで「人生経験」が物を言います。石川先生と私を比較するような言い方をするのはおこがましいですが、共通点は、東京神学大学を卒業した24歳から今日まで、牧師ひと筋で生きてきたことです。石川先生は71年、私は32年です。

なぜ石川先生と私の「人生経験」の話をするのかといえば、理由は2つです。ひとつは、私はともかく、石川先生ほどの人生経験があれば、イエスさまと全く同じではないとしても、かなり「これから自分に起こること」を予測できるようになると申し上げるためです。前向きな話です。

しかし、もうひとつの理由は、石川先生ではなく、私のお詫びです。牧師ひと筋で生きてきた者たちにとって、人生経験を積んできた場はもっぱら「教会」です。失敗経験を積んできた場も「教会」です。だから話しにくい面がありますし、ほとんどお詫びの気持ちしかありません。

牧師の失敗は、教会の中でのトラブルです。牧師自身がトラブルの原因になることもあれば、教会内のトラブルを解決できないのも牧師の失敗です。人生経験で予測がつくとは、そういうことです。「こういうことがあるときに、こうすれば、こうなる」の流れが分かる、ということです。

牧師たちの現実と、イエスさまの身に起こったことを結びつけないほうがよいかもしれません。しかし、イエスさまがはっきり名指しされた死刑宣告者は「祭司長たちや律法学者たち」です。当時の文脈ではユダヤ教の指導者を指しますが、ユダヤ教を悪者にして済む問題ではありません。

今のわたしたちの状況に置き換えて言えば「教会」です。プロテスタントの職名で「教会役員、牧師、神学教師」です。「私はそのような人たちから死刑宣告を受けることになる」とイエスさまが予測され、名指しされているとしたら、どうでしょうか。私などはつらくて耐えられません。

今日の箇所の内容に入っていませんが、関係あることをお話ししているつもりです。ヤコブとヨハネがイエスさまに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と申し出ました。

この申し出の意味は「我々も一緒に死にますので、天国で我々を特別扱いしてください」です。そこでイエスさまは彼らを「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)と厳しくお叱りになります。

そのうえで「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われますが、彼らは「できます」(39節)と答えます。するとイエスさまは「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と認めてくださいます。 

彼らは出まかせを言っていません。事実、彼らはイエスさまと同じ杯を飲み、同じ洗礼を受けました。たしかに弟子たちは、イエスさまと共に十字架にかかるどころか、ひとり残らず逃げました。しかし、イエス・キリストの復活と昇天、そして聖霊降臨によって生まれた教会の中で、信仰を貫き、最後は殉教しました。この点を無視してはいけません。

しかし、このイエスさまとヤコブとヨハネとのやりとりを横で聞いていた他の10人の弟子たちが怒り出したというのです。すぐ分かる原因はヤコブとヨハネがイエスさまに取り入ろうとして出し抜いたからですが、ただの勢力争いというよりも、もう少し深い意味があります。

先ほど「殉教」と申しました。直接的には信仰を貫いて殺されること、死ぬことを意味します。しかし、大切なのは、死の瞬間だけではなく、そこに至る途中のすべての過程が大切です。天国に入れてもらえるかどうかという観点だけでいえば、イエスさまを信じる信仰を守るために人生のほとんどすべての時間と労力を注いできた人も、死の間際の最期の瞬間に信仰を告白した人も、信仰を告白する機会を得られなかった人も、天国そのものにおいての大差はありません。

これこそがイエス・キリストの福音に基づく教会の教えの核心部分です。わたしたちが救われ、天国に迎え入れられるのは、努力や行いや功績によらず、ひたすら一方的な神の恵みによります。教会の歴史をご存じの方から「それはプロテスタント的な解釈だ」と言われるかもしれませんが、わたしたちはプロテスタントです。

しかし、こういう一種の平等主義的な教えは、多くの人々の不満や反発を必ず引き起こします。がんばった人も、がんばらなかった人も、何もしなかった人も、みな同じなら、がんばった人は損するではないか。「みな同じだと初めから分かっていれば、こんなにがんばらなかったのに」と、がんばった人たちが「失った時間と労力を返してほしい」と言い出すことに必ずなります。

いま申し上げたことから、ヤコブとヨハネの申し出の意味を考え直すことができます。彼らが他の弟子たちとは異なる扱いをしてほしいとイエスさまに申し出たのは、我々は他の怠けている弟子たちとは全く違い、がんばっているので、ふさわしい評価をしてほしいと言っています。

他の弟子たちが腹を立てた理由も同じです。彼らはイエスさまの働きをだれがいちばん助けているか、だれがいちばんがんばっているかを競争し、他の人を蹴落とすことに必死です。教会の中に競争社会の価値観がそのまま持ち込まれているのと同じです。

イエスさまのお答えは「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(44節)でした。天国の順位や、弟子の中の順位や、教会の中の順位が気になる人は、いちばん下に立って(天国と教会の)全責任を負いなさい、ということです。

ここから先は私の想像です。イエスさまはため息交じりに笑っておられたと思えてなりません。あなたがたは謙遜を学ぶために私の弟子になったのではないのか。私のもとでまだ争い続けるのか。もっと仲良くしようではないか。互いに励まし合って人生を喜び楽しもうではないか。そのように、イエスさまが弟子たちに諭しておられるお姿を、私は想像します。

(2022年4月3日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で