日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 地よ、声たかく 326番(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん
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「復活のイエス」秋場治憲伝道師
ヨハネによる福音書20章19~31節
「シオンの娘よ、喜び歌え。私が来て、あなたの中に住むからである」ゼカリヤ書2章10節(口語訳、新共同訳では2章14節)
今日の聖書のテキストは、先週に続くヨハネ福音書20章19節から31節までですが、私はこのトマスの出来事とマグダラのマリアの出来事がセットで考えられるべきと思われて仕方がない。それは甦った主イエスの二人に対する対応が、極めて対照的だからです。しかもそれら二つの出来事が同じ章にあるということは、ヨハネはこれら二つの出来事はセットで考えられるべきであると言っているように思わされてならないのです。それで今日のトマスの出来事をマリアの出来事と比較するという視点から見てみたいと思います。
ここには主イエスが復活したということが記されています。私たちは面食らいます。自然科学と科学技術を学んできた私たちの心に去来することは、「そんなことはあり得ない」ということではないでしょうか。そもそも「復活」とは何なのでしょうか。聖書が言うこの出来事は、歴史的出来事なのでしょうか。
私たちが主と仰ぐイエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)と二度までも叫び、十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたのです。ヨハネ福音書によれば、ローマの兵士が「槍でイエスのわき腹を刺した[1]」と記されています。11人(ユダは既に死亡している)の弟子たちは皆逃げ去り、誰も残ってはいませんでした。主イエスの遺体を十字架から取り降ろすのをピラトに願い出たのは、何と「イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」(ヨハネ福音書19:38)アリマタヤのヨセフ[2]であったと伝えています。そこに律法学者ニコデモが没薬と沈香を混ぜた物を百リトラほど持ってやって来た。この二人によってイエスの遺体は、香料を添えて亜麻布で包まれ、まだ誰も葬られたことのない墓に葬られた。二人は共にユダヤの最高法院の議員でした。神の言葉はいつ、どこに飛び火するか分からない。だから私たちは時が良くても悪くても[3]、み言葉を宣べ伝えなければならないのです。このユダヤの最高法院のトップは、イエスを十字架につけるようピラトに訴えた大祭司カイアファです。この人の館の中庭で、ペテロは「そんな男のことなど俺は知らん」と三回も否定したのでした。この最高法院の議員だった二人が、イエスの最後の埋葬をしたというのですからキリスト教はダイナミックです。
ルカ福音書によると「ガリラヤからイエスに従ってきた婦人たちがアリマタヤのヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。」間もなく日没になり、安息日が始まろうとしていたからです。そして主イエスはすでにこの世にはおられないのです。
ペテロともう一人の弟子は、マグダラのマリアから「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません。」という報告を受け、走って墓へ駆けつけた。そこで空になった墓を確認した。歴史が認めるのはここまでです。歴史というものが、この世の出来事を記録するものであるなら、主イエスのよみがえりの出来事というのは、主イエスが亡くなった後、「歴史の外」で起こった出来事であり、この世の出来事を記す歴史的出来事ではないということになります。
主イエスはポンテオ・ピラトがローマのユダヤ総督の時(A.D.26~36)に、十字架につけられ、死にて葬られたところまでは、歴史も認めるのです。しかし「甦えり」は、この世で起こった事ではなく、死にて葬られた後、歴史の外において起こったことなのです。高校の教科書にも十字架までは記載されますが、復活の出来事は記載されません。それは歴史の外で起こったことであり、信仰によって受けとめられるべきことだからです。それでは復活は全く歴史と関わるところはないのでしょうか。聖書は神の大能によって甦らされたイエスが、40日にわたって弟子たちやその他の人々に現れたと伝えています。
私たちは甦ったイエスが鍵のかけられた部屋に入ってきたり[4]、弟子たちと一緒に焼き魚を食べたり[5]、傷ついた手とわき腹を見せたり[6]したことを不思議に思います。そしてこんなことはあり得ないと言って、キリスト教は信じるに値しないと言い、時にはキリスト教から離れていく方もおられます。しかしそれはマリアと同じように、イエスが人となり、肉をまとっていた時と同じ人間であるかのように思っているからではないでしょうか。甦ったイエスは時空を超えて、「神は愛である[7]」ことを明らかにするために、目の前にいる人間の必要に応じてその姿を変え、その人に寄り添うのです。愛とは愛する者が愛する相手と同じ立場にまでなることです。相手と連帯化することです。「神は愛である」ということは、神が私たちと同じ立場にまでなり、私たちの問題を、私たちと共に担われるということです。復活の出来事はこのことを、私たちに伝えています。
ヨハネ福音書20章は、とても興味深い言葉で始まっています。そこでは「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。[8]」週の初めの日、墓に向かう一人の婦人がいた。この人は墓は人生の終点であり、すべてを呑み込む場所であることを知っていた。未だかつて、墓の向こうまで生きた人はいないからです。日本的に言うならばマリアはイエスの菩提を弔って、残りの人生を主イエスの墓守として過ごそうとしていたのだと思います。しかしマリアは、その墓で、死にて葬られた後に甦ったイエスに出会った。眠っていた者が目覚めたのではなく、確実に死して葬られた者が甦ったことを知らされた。神が働かれる所では、墓は私達が行きつく最後の場所ではないというのです。ルターは「死こそ神の仕事場である」と述べています。
神が働かれる所では、死ではなく生命が、審きではなく救いが、私たちに与えられる最後の現実であるというのです。これは驚くべき世界であり、福音のメッセージです。
マグダラのマリア[9]は、ガリラヤ湖西岸のマグダラという場所の出身者ですが、ルカ福音書によると「七つの悪霊を持った人」でした。問題多き人だったようです。主イエスによってこれらの悪霊から解放されたマリアは、イエスに従ってエルサレムまで来ていたのです。復活したイエスはこの人に語りかけられるのですが、マリアは最初甦ったイエスを、園の園丁[10]と間違っています。このマリアにイエスの方から声をかけられる。「マリアよ」、彼女は即座に「ラボニ」と答える。生前のイエスをマリアは「ラボニ」と呼んでいたことが偲ばれます。彼女はイエスが死人の中から甦って、もとの人間に戻った人物のように考えたのです。恐らくマリアはイエスが甦らせたべタニア村のラザロのことを一瞬、頭に思い浮かべたかもしれない。
マリアは親しみを込めて「ラボニ」と呼んだ。マリアはイエスが人となり、肉をまとっていた時と同じ人間であるかのように思ったのです。しかしイエスはラザロのように、また、会堂司の娘ヤイロ[11]のように甦ったのではありませんでした。復活というのは時間的なこと、肉をまとう人間に逆戻りすることではありません。永遠の生命に入ることなのです。だからその時、イエスは私にすがりついてはいけない、と言われたのです。イエスは今や、自らが全く新しい、今までとは違った場所におられることを伝えようとしておられるのです。マリアは歴史的時間の世界にいるけれども、イエスは歴史的時間の外におられるのです。ここに神と人間、時間と永遠の隔たりがある。
私たちは復活したキリストを、園丁と間違えてはいないでしょうか。そして名を呼ばれた時、「ラボニ」と言って、私たちの仕方でイエスを捉えようとしてはいないでしょうか。私たちは自らの義で、神の義をつかまえ、神の義にまで自分の橋を架けようとして、拒絶されている。それでも神は私たちを「兄弟よ」と呼ばれるのです。キリストが甦えり給うたということは、私たちが、弟子たちが主イエスの兄弟としては何にも値していないにもかかわらず、それでも「兄弟よ!」と呼びかけ給う恩寵の神を知らしめられることです。この方が我らと共に道行きたもうというのです。信仰というのは<それなるが故に>というのではなく、我らの弱さ、罪深さ、不信仰<にもかかわらず>という点に立つことです。
しかしマリアは、復活のイエスを園の園丁と同じように見る、という錯覚、言葉を変えれば、イエスの復活を人間化し、時間の中に引き入れてとらえようとした。しかしそれは歴史の外にいる、永遠の時間の中にいるイエスによって拒まれています。生前のイエスは、自分のもとに来る者を決して拒みませんでした。しかし今や、イエスはマリアと距離を保とうとされている。その理由としてイエスは、自分は「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言っています。父のもとに上るというのは、マリアが、属しているこの地上の本質は、キリストの義と全く区別されるべきものであるというのです。キリストの義は決して私たちの正しさの延長線上にあるものではない、というのです。全く異なった義と救いがあるのに、もしマリアがイエスに触れるなら、その義があたかも同一の地平にあるかのように混同されてしまうというのです。これはイエスの側からの拒否に出会わなければなりません。私たちの思索や思惟の延長線上に、キリストの復活があるのではないのです。
しかし復活のイエスは、マリアと無関係になられたのではありません。そうではなくてマリアに、一つの使命を託される。あなたが今やるべきことは、墓に向かって泣くことではない。私はもうそこにはいない。墓とは反対の方向、死とは反対の方向、生命に向かって歩き出せ、と言われる。
イエスは墓から出たのだから、墓の前に立ってマリアに呼びかけた方が舞台効果はあると思われますが、主イエスはマリアの後ろから、全く予想だにしない方向から声をかけられた。私たちが悲しみの中にある時、私たちの視野は狭くなり、直面している悲しい出来事一点に焦点は絞られてしまう。しかしイエスの復活は、イエスの誕生にもまして力強く、私たちが鍵をかけて閉じこもっている殻を破って声をかけられる。「あなた方に平安があるように」と。そのイエスがマリアに託した使命は、弟子たちへの伝言でした。「私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところへ、私は上る』と。[12]」
「私の兄弟たち」とは誰のことでしょうか。言うまでもなく弟子たちのことです。もちろんマリアも含まれています。私たちはここに注目しなければなりません。なぜならここに福音があるからです。自分の義を天よりも高くし、マリアを拒まれたイエスは、同時に、その人に向かって「私の兄弟よ」と呼びかけ給うのです。一体あの弟子たちは、あのペテロは、イエスに対する背信と疑いの故に、みんなイエスを捨てて逃げ去り、何にも値していなかったのではありませんか。一体彼らは「兄弟よ!」と呼ばれるのに値する何をしたというのでしょうか。しかも兄弟というのは、<同じ地位と同じ権利を持っている者>です。ただイエスは一番はじめに生まれた長子であるという違いがあるだけです。このような兄弟として、私たちを呼び給うというのです。主イエスは弟子たちを処罰するために、来られたのではないのです。
その日の夕方、復活のイエスは弟子たちがユダヤ人たちを恐れ、扉に鍵をかけて閉じこもっているところへ現れ、手とわき腹とをお見せになり、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われた。この時イエスを捕らえたユダヤ人たちは、自分の師を捨てて逃げ去った弟子のことなど既に眼中になかったのかもしれない。しかしこの弟子たちを前にして、「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」と言われる。自己嫌悪と失意の真っただ中にいる弟子たちに、使命を託される。これほど頼りにならない者たちへの委託があるだろうか。もし人間の力に注目するなら、その通りでしょう。しかしイエスは言われる。「聖霊を受けなさい」と。主なる神が人間を創造された時、神の息吹が私たち人間の命の息吹となった。そして今、復活の命を得た主が、新しい命の息吹を弟子たちに吹きかけられる。ここに新しい命の炎が灯されるのです。この息吹が私たちに日々吹きかけられ、この息吹によって神は、古き私を剥ぎ取り新たな私を創造しようとされるのです。この息吹が私たちに吹きかけられ、この息吹によって神は、恐れと不安と臆病に支配され閉じこもっている私たちを新たな息吹に満たされた者として創り出そうとされるのです。
しかしその場にトマスはいなかった。このトマスはディディモと呼ばれていた。ディディモ[13]というのは「双子」という意味です。実際に双子で生まれたというのではなく、その性格、キャラクターを表現したニックネームだと思われます。この人は主イエスが危険をも顧みず、エルサレムへ上ろうとした時、「私たちも行って、一緒に死のうではないか[14]」とまで言った人です。信仰と懐疑の間を行ったり来たり、まさにディディモ、私たちも経験してきたことであり、今もその渦中にある。恐らく彼は自分だけの世界に閉じこもっていたのでしょう。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、自分は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、私は決して信じない。[15]」と言う人でした。「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあった」八日前にイエスが現れ、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたけれども、弟子たちは依然として鍵をかけて閉じこもっていた。私たちが古き私を脱ぎ捨てるということも、一筋縄ではいかないようです。
今回はトマスも一緒にいた。この人に対してイエスはどうされたか。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。」と言われた。マリアの場合とは対照的。マリアに対しては、「私に触ってはいけない」と言われた方が、ここでは全く逆です。これは驚きです。私たちはよく懐疑論者トマスなどと言う。しかしここを読んで私が感じ打たれるのは、トマスの態度よりもイエスの態度です。本当に復活のイエスの態度に、圧倒されるのです。今や死に打ち勝ち、栄光の座につきたもう者が、ただ一人の人を捉えるために、あなたの手を伸ばして私の傷口に差し入れなさいと言われる。
高きにいますイエスは、ここで無限にと言ってよいほど低くなり、仕える者となっておられる。トマスを獲得するために、今一度ご自身を差し出しておられる。信じないお前はダメな奴だと言って排除してはいないのです。信じられないなら信じられないままで、トマスを受け入れておられる。アブラハム、イサク、ヤコブを選び、預言者たちを選び給うた神は、今、疑い深い一人の人間を選び出すために、全力を尽くし、彼に仕えているのです。おおげさな言い方をすれば、ここに全聖書が集約されている、聖書の深さと頂点がある、と言っても過言ではないと思うのです。「神は愛である」ということのすさまじさを思い知らされる。一匹の羊がいなくなったら、見つけるまで探される、というのはこういうことなのだということを改めて悟らされる。この方の前で私たちの信仰は、いやが上にも燃え上がらないではいない、のではないでしょうか。このイエスの迫力の前にさすがのトマスも「わが主よ、わが神よ」と叫ばざるを得なかった。
ペテロともう一人の弟子は墓の中まで見ましたが、何も見つけられませんでした。歴史的事実はそこに事実としてありますが、それだけでしかありません。空になった墓は、何も語ってはくれないのです。マタイ福音書28章では、天使が「イエスは復活した[16]」と語っています。そして主イエスが説教しています。天使は相呼応したかのように、イエスの誕生と復活の場面に登場します。天使とはこの世に存在するものではありません。天使は超歴史的、超時間的な存在であり、神の意思を伝える者。その天使が「あの方は復活なさった」と告げています。この説教によって私たちは主イエスがよみがえられたこと、またそのよみがえりの意味が明らかにされるのです。一つの事実、出来事が、言葉によって、説教によって解明されています。そしてこの説教によって、弟子たちの信仰が呼び起こされ、信仰的な認識に到達しているのです。
イエスが甦ったとか墓が空であったという単なる出来事だけでは、その出来事は私たちの信仰の支えにはなりません。このことはイエスが生まれた時でもそうです。一人の男の子が生まれたというだけでは、これは大した意味を持ちません。しかし聖書の記者はイエスが馬小屋で生まれたという出来事に呼応して、天の使いたちがあの馬小屋で生まれた子供はイエスであると語り、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と説教しています。この説教を聞いて、私たちの信仰が呼び覚まされ、馬小屋で生まれたみどり子こそ私たちの救い主であることを知らされるのです。歴史的な出来事はそれが、御言によって解明されなければ、単なる出来事でしかありません。
イエスが生まれたことを信ずるというこの信ずるというのは、御言によって、説教によって照らし出されたことが、私たちの信仰の現実となるということです。御言がなければ、歴史は救いの歴史になりません。ここに歴史的な事実と御言の結びつきがあります。ここに私たちが聖書を読み、説教を聞かなければならない理由があります。
もう一か所パウロがキリストの復活を証言している言葉があります。
コリント人への手紙第1において「死者(人間一般)の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。[17]」とあります。あれあれ、変だなあ、と思いませんか。キリストの復活がなければ、死者(人間一般)の復活もない、となるべきではないのか?と私たちは考えてしまいます。
しかし聖書は、死人の復活がないなら、キリストも復活しなかったというのです。ここでパウロが言おうとしていることは、死者(人間一般)の復活がないなら、キリストが甦ったことも無意味になると言っているのです。つまり、キリストが甦ったということは、人間が死から救い出されて復活するためだったのだから、キリストが復活したということは、同時に人間の死者の内からの復活を保証しているというのです。「イースターおめでとう」という言葉は、一人キリストが甦られたことを祝うことではなく、同時に私たちの復活が確かなものとされたことを祝う言葉でもあるのです。
そしてこの私たちの甦りは、私たちの死後において起こることなのですが、甦って歴史の中に現われたイエスは、弟子たちに「恐れるな」と繰り返し語っています。甦えりというのは英語では、resurrection と言います。
この言葉の語源はラテン語で、surgere(起き上がる、立ち上がる)という言葉にre (再び)という接頭語がついたものです。再び立ち上がる、何度でも起き上がるという意味です。だからパウロは、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。[18]」と高らかに歌い上げているのです。トマスの不信仰、マリアの深い悲しみ、弟子たちの恐れに対して、繰り返し「恐れるな」「私は世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。[19]」と語っています。マタイはクリスマスのインマヌエル(神、我らと共にいます)の予言がこういう形で実現したことを伝えて、その福音書を締めくくっています。
この甦った主イエスは、天に上り、全能の父なる神の右に座し、日夜私たちの罪を執り成しておられる。今は、聖霊がこの主イエスを私たちに証して、私たちの信仰を更に更に激励し、勝たしめる保証を私たちに与え、私たちの弱き現実にもかかわらず、「兄弟よ!」と呼びかけ、再び立ち上がらせた給うのです。この方が私たちの下に来て、私たちの中に住み給うということを知らしめられる日が復活節です。
「イースターおめでとうございます。」何と深い意味を湛(たた)えた言葉ではないでしょうか。
[1] ヨハネ福音書19:34
[2] マタイ福音書27:57「金持ちでイエスの弟子」、マルコ福音書15:43「身分の高い議員」、ルカ福音書23:50~51「神の国を待ち望んでいた」「善良で正しい人」
[3] 第2テモテ4:2
[4] ヨハネ福音書20章19、26
[5] ルカ福音書24:42
[6] ヨハネ福音書20:20
[7] ヨハネ第一の手紙4:16
[8] ヨハネ福音書20:1
[9] マグダラのマリア:熱情的性格の婦人。ガリラヤ湖畔のマグダラの出身で「七つの悪霊」を追い出してもらってから、イエスに従うようになったといわれる。(ルカ8:2)その財産をもってイエスに仕えた婦人たちの一人である(ルカ8:3)。十字架のイエスを<遠くの方から見ていた>(マタイ27:56)ばかりでなく、その埋葬に立ち会って<納められた場所を見とどけた>(マルコ15:47)。その後3日目、週の初めの日にイエスの死体に塗る香料を携えて墓に行き、そこで復活の主を拝した(マルコ16:1、ヨハネ20:11~18)(聖書辞典から)
[10] 園丁:公園や庭園の世話・手入れをする人。植木職人。庭師。(国語辞典から)
[11] マルコ福音書5:21~43
[12] ヨハネ福音書20:17
[13] ヨハネ福音書11:16、20:24、21:2
[14] ヨハネ福音書11:16
[15] ヨハネ福音書20:25
[16] マタイ福音書28:5
[17] コリント人への第1の手紙15:13
[18] コリントの信徒への手紙1 15:55 15章全体をじっくりと時間をかけて読んでみてください。
[19] マタイ福音書28:20
(2022年4月24日 聖日礼拝)