スキップしてメイン コンテンツに移動

わたしは主を見ました(2022年4月17日 イースター)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 キリスト・イエスは 325番(1、3番)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「わたしは主を見ました」

ヨハネによる福音書20章1~18節

関口 康

「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」

イースターおめでとうございます。今日はイエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝です。

昨日のことです。礼拝看板を林芳子さんに書いていただいたとき、「イースターとカタカナで書いてください」とお願いしました。日本国内で、教会以外の場所で「イースター」が知られるようになっているからです。

突然の勢いだったことをよく覚えています。「イースター」が大きく取り上げられるようになったのは最近です。正確な時期を調べてみたらだいたい私の記憶通りでした。2010年に千葉県浦安市にある東京ディズニーランドが「ディズニー・イースター・ワンダーランド」というテレビコマーシャルを大々的に展開して以来です。当時私は千葉県松戸市に住んでいて同じ千葉県の東京ディズニーランドの動きに関心がありましたので、その衝撃を体で覚えています。

つまり、まだわずか12年前です。世界のキリスト教の歴史はもちろんですが、日本のキリスト教の歴史と比べてもごく最近のことです。教会の常識が社会の常識になるまでにどれほど時間がかかるかを思わされる一例です。

しかし、日本国内で急激に「イースター」という言葉が知られるようになってからも、しばらくは、それが何を意味するかの説明が不足していました。私ははっきり覚えていますが、インターネットで「イースター」を調べても、まるでキリスト教と無関係であるかのような記事をよく見かけました。

ところが、今は事情が一変しています。一般的な製菓会社や旅行会社が、イースターとキリスト教の関係を明確に書いてくれています。正しい理解が進むのはありがたいことです。

例を挙げておきます。ある製菓会社のホームページに次のように記されています。「日本では、まだあまり広まっていないイースターですが、キリスト教圏の国ではキリストの誕生日を祝うクリスマスよりも大事なイベント。そもそもイースターとは、十字架にかけられて亡くなったキリストが、その3日目に復活したことを祝う『復活祭』なんです。宗教的にもとても意味のある日で、イースターを祝って、学校が数週間休みになる国もあるそうですよ」(江崎グリコHPより引用)。

昔から「クリスマス」はよく知られています。教会のクリスマス礼拝のチラシでよく見かけたのは「本物のクリスマスを教会で」という言葉でした。しかし、これからは「本物のイースターを教会で」と言わなければならないかもしれません。それくらいの勢いだと申し上げておきます。

しかも、このたび調べてみて印象的だったのは、いま引用した文章もそうですが、一般的な会社こそがまっすぐ「キリストの復活を祝う日である」と書いてくださっていることです。「キリスト教圏の国では」と限定はありますが、教会が大事にしてきた「キリストは3日目に復活された」という信仰告白を尊重してくださっている書き方です。「ありがとうございます」とお礼を申し上げたい気持ちです。

そうです、わたしたちの救い主イエス・キリストは、十字架にかけられて息を引き取られた3日目に復活されました。そのことを教会は信じています。私ももちろん信じています。

しかし、問題はここから先です。イエス・キリストは「どのように」復活されたのかという問いかけに対しては、いろんな答え方があります。

教会の教えの中で特に重要なのは、使徒言行録1章3節に記されている言葉です。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」こと、そして「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(同1章9節)ことです。

これをキリストの昇天(しょうてん)と言います。なぜこれが教会の教えの中で重要なのかといえば、わたしたちも毎週の礼拝の中で告白している「使徒信条」において「(主は)十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白しているからです。

使徒信条の原型とされる紀元2世紀後半(100年代)の「ローマ信条」にもキリストの昇天の教えが含まれています。復活されたイエスさまは、その後、弟子たちの目から見えなくなられました。それが矛盾していることだと、聖書も教会もとらえたことがなく、両立する真理であると信じています。

今日の朗読箇所に記されているのは、イエスさまがまだ天にあげられる前のことです。マグダラのマリアが、イエスさまが納められたアリマタヤのヨセフが所有していた墓に行ったとき、墓から石が取りのけてあるのを見たことから始まっています。

そして、その墓が空だったこと、イエスさまを包んでいた亜麻布が残っていたこと、そこに来た2人の弟子が帰った後も墓の外で泣いていたマリアのもとに2人の天使が現れ、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねたこと。マリアが泣いている理由を天使に答えたとき、イエスさまが立っておられるのが見えたこと。マリアは最初イエスさまだと分からなかったが、イエスさまのほうから「マリアよ」と声をかけてくださったのでイエスさまだと分かったこと、そしてそのことをマリアは2人の弟子たちに「わたしは主を見ました」と告げたことが記されています。

現代人であるわたしたちは、どうしても、これが客観的な事実かどうか、マリアの主観的な心の中での出来事に過ぎないかどうかが気になります。しかしそれは重要なことでしょうか。そのことよりも、先ほど確認しました使徒言行録1章3節の「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し(た)」ことのほうが重要ではないかと私は思います。

人生を共に過ごされ、最期まで見守られ、大切な方を失って悲しみの中にある方々にわたしたちは何を語るべきでしょうか。わたしたちもまた大切な存在を失い、悲しみにくれた経験があります。そのとき、わたしたちはどのような言葉で慰められたでしょうか。イエスさまが語られた黄金律、「自分にしてもらいたいことを人にもせよ」(マタイによる福音書7章12節参照)を思い起こすべきです。

マリアは、イエスさまのほうから「マリアよ」と声をかけてくださったとき、それがイエスさまだと気づきました。マリアはイエスさまの残酷な十字架の死を最期まで見届け、墓に葬られたことも知り、しかも、その墓の中が空になっていることに衝撃を受け、深い悲しみの中にいました。

そのマリアにイエスさまが「マリアよ」と声をかけてくださって、御自分が生きていることの証拠をマリアに示してくださいました。あれほど苦しんだイエスさまが、御自分は生きているということを示してくださいました。そのことをマリアは弟子たちに「わたしは主を見ました」と告げました。

それがイエス・キリストの復活であり、わたしたちがイースターをお祝いする意味です。わたしたちが深い悲しみの中にあるときこそ、イエスさまは「御自分が生きている証拠」を示してくださいます。わたしたちが絶望にのみ込まれないように、御自身の存在をはっきりと示してくださいます。

(2022年4月17日 イースター礼拝)

このブログの人気の投稿

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現代の牧師たちにとって、説教と牧会は「職業ではない

天に栄光、地に平和(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 261番 もろびとこぞりて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「天に栄光、地に平和」 ルカによる福音書2章8~20節 関口 康 「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」 クリスマスおめでとうございます! 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。 天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。 なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。 もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトに

すべての時は、御手のうちに(2023年12月31日)

クリスマスイヴ音楽礼拝(2023年12月24日 宣教 秋場治憲先生) 讃美歌 410番 鳴れかし鐘の音 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「すべての時は、御手のうちに」 コヘレトの言葉3章1~15節 秋場治憲 「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」 (2023年12月31日 歳末礼拝)