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新しき生(2023年11月12日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 532番 やすかれ、わが心よ 

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「新しき生」

ローマの信徒への手紙8章1~17節

関口 康

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。」

今日の箇所は先週の続きです。先週の箇所はローマの信徒への手紙7章7節から25節まででした。しかし、教会創立71周年記念礼拝でしたので、その主旨に基づいてお話しする部分が必要でしたので、聖書の内容について詳しくお話しすることができませんでした。

かろうじてお話しできたのは、ローマの信徒への手紙の7章から8章までをわたしたちが読むときの大前提が違っている場合がある、ということでした。2点挙げました。

ひとつは、7章だけで45回出てくる「わたし」とはだれのことか。もしパウロだけを指しているとしたら、この箇所をパウロの自叙伝として読まなければならないことになるが、それでよいか。

ふたつめは、ここに描かれている「わたし」の葛藤は、キリスト教改宗前の人が味わっていた過去の葛藤であって、キリスト教への改宗後はもはや生じることがありえないものなのか。

どちらも「違う」と私は申しました。しかもそれは聖書解釈の問題として考えるだけでなく、わたしたち自身の現実から考えるほうが理解しやすいとも申しました。わたしたちのうち誰が、教会に通いはじめ、やがて洗礼を受けてキリスト者になったので自分の罪についての悩みも苦しみもなくなったと言えるでしょうか。「そんな人はいない」と言いたいわけですが、反論があるかもしれません。「罪についての葛藤は私にはありません」と。

しかし、もしそういう人が現われたら、多くの人が困ります。「私はキリスト者だと自覚してきたつもりだが、罪の葛藤が無くなったことはない。そうでない人がいるというなら、私の信仰が足りないという意味なのか」と苦しむ人が続出するでしょう。この箇所はキリスト教改宗前のユダヤ教徒だった頃のパウロの葛藤を描いたものではないとはっきり言うことによって、多くのキリスト者が救われると私は申し上げたいのです。

キリスト者でない人がキリスト者になることだけを「救い」と呼ぶのは狭すぎますし、事実でもありません。「教会」が天国の楽園のような場所で、涙はことごとくぬぐい取られ、悲しみも嘆きも労苦も無いと言えるなら別ですが、そうでないことはパウロ自身もよく知っています。

葛藤があるからと言って、信仰が足りないわけではありません。キリスト者になったからといって絶望することが完全に無くなるわけではありません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と悲痛な絶望の叫びを挙げる人は、イエス・キリストを信じる前の過去のわたしではなく、信仰をもって生きているこのわたしが今まさに抱えている問題を前にして絶望している叫び声でもあると言えることのほうが、むしろわたしたちは救われるでしょう。たとえば、キリスト者の自死は、その人の不信仰の結果でしょうか。そのように言われ、責められることのほうが、よほど残酷ではないでしょうか。

しかし、以上は先週申し上げたことです。今日の箇所の最初にパウロが「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(1節)と記しています。

「罪に定められることがない」と訳されているカタクリマというギリシア語は、人間の決定でなく、神の決定を指します。カタクリマは「非難」という意味だけでなく「処刑」という意味を含んでいる点が重要です。人はあなたのことをなんとでも言うでしょう。しかし、神はあなたを非難しません。処刑もしません。あなたにもし不幸が起こっても、神の罰(天罰)ではありません。そうだろうか、そうかもしれない、神がわたしを罰しているのだ、だからわたしは不幸なのだと疑って、神の愛を否定しないでください。神はあなたを愛しておられます。このようにパウロが訴えていると読むことができます。

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(2~3節)は、神の御子イエス・キリストがわたしたち罪人の身代わりに十字架にかかって死んでくださったこと、そしてそのイエス・キリストを通して示された神の愛が聖霊を通してわたしたち人間へと注ぎ込まれるとき、わたしたちは罪と死の法則から解放されることを指しています。

実はこれは新たな「葛藤」のはじまりを意味します。わたしたちの心の中に、神の愛を明確に伝え、ひとを善へとうながし、喜びと希望をもって生きていくようにと励ます「聖霊」が与えられるとき、その「聖霊」と、もともと人間の心の中に住んでいた「罪と死との法則」が取っ組み合いを始めるのです。その新たな葛藤を抱えて生きることこそが「霊による命」(新共同訳の小見出し)であり「新しき生」(本日の宣教題)です。決してそれは否定的な意味ではなく、悩みや苦しみ、葛藤や隘路、挫折や絶望も、すべて神に受け入れられていると信じることができることにおいて、喜びであり希望です。

しかも、ここで大事なことは、イエス・キリストの十字架を通して示された神の愛は、「罪深い肉と同じ姿」(3節)という性質を持っているという点です。キリスト者になっても自分の罪への悩みから解放されず、いつまでも葛藤し続けているこのわたしと同じ姿でイエスさまが生まれ、現実の世界を共に生きてくださり、しかも、地上のどんな律法も法律に照らしても死刑に値する罪を犯さなかったイエスさまが、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげられるほど苦しまれ、わたしたち罪人の身代わりに死んでくださったことで、あらゆる葛藤も絶望さえも、それは不信仰であるなどと神から責められ、処罰される理由にはならないことを明確に示されたことを意味する、ということです。

3節の註解(著者レカーカーカー(A. F. N. Lekkerkerker))に引用されていた言葉に私はぎょっとして立ちすくみ、考えさせられました。ベツェル(H. Bezzel)という人の言葉です。カール・バルトの『教会教義学』(原著Ⅰ/2, S. 169. 日本語版『神の言葉』Ⅱ/1、304頁)からの孫引きです。

「イエスが人間となるということだけではわれわれを決して救い出すことはできなかったであろう。ただイエスが肉となるということがわれわれを救い出してくれたのである。…人間となるということであれば、そのことはわれわれの苦痛を増大させたことであろう。それは、『なぜ汝は彼〔=イエス〕のような人間であることはできなかったのか』とわれわれを責めたて、ただ、われわれが罪におち入らなかったならばそのようなものとなり得たはずだという証拠をつきつけることになったであろう。人間となるということであれば、そのことは私の不幸に対する嘲りのようであったであろう。その辺の事情はちょうど、健康と力ではちきれるばかりの人が、病人の寝床に近づく時、そのことはつねに病人にとってたしかにひとつの悲哀としてうけとられるのと同様である」(吉永正義訳)。

イエスさまが「人間」として来られたとしたら、わたしたち人間はイエスさまのようになれないことに苦痛を感じるだけである。それは、元気な人がお見舞いに来ると病気の人は「私はなぜあなたのように元気でなく病気なのか」と悲しくなるだけなのと同じだというのです。続きは来週お話しします。

(2023年11月12日 聖日礼拝)

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