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起きて歩きなさい(2023年2月12日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 390番 主は教会の基となり

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「起きて歩きなさい」

ルカによる福音書5章12~26節

関口 康

「そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた」

今日の朗読箇所に描かれている出来事は大きく分けてふたつあります。欲張らないでどちらかを選ぶことも考えましたが、両方読むことにしました。共通するテーマがあります。どちらも、イエスさまが「病気の人をいやされた」出来事です。

ルカによる福音書の著者ルカは「医者」だった可能性があります。ひとつの根拠は、コロサイの信徒への手紙4章14節に見つかる「医者ルカ」という言葉です。もうひとつの根拠は、まさに今日の箇所などに、医者である人しか用いない医学の専門用語が出て来ることです。

そのひとつが「全身重い皮膚病にかかった人」(12節)です。「重い皮膚病」と訳されています。ギリシア語で「レプラ」と言いますが、初期の新共同訳聖書では「らい病」と訳されていました。

「らい病」と訳された聖書をお持ちの方は「重い皮膚病」と訂正していただきたく願います。大きな問題になった点です。ギリシア語の「レプラ」が「らい病」または「ハンセン氏病」と同じかどうかは不明であるというのが、今日通用している見解です。不明なのにそうだと決めつけてしまいますと、聖書の言葉がその病気で苦しむ方々に対する差別や偏見の原因になりかねません。

しかし、今申し上げた点を踏まえたうえで、この福音書の著者がこの重い皮膚病は「全身」に広がるものであることを描いているのは医学的症状への知識がある人だと考えることができます。また、今日の箇所に出て来るもうひとつの医学用語が「中風を患っている人」(18節)です。体の一部に麻痺している箇所がある人を指します。

最初に登場する重い皮膚病にかかった人のことから申します。どの皮膚病かは特定できません。しかし、今日の箇所に記されているのは、その皮膚病にかかった人のその病気が治ったときは、祭司のところに行って自分の体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をする必要がありました(14節)。「祭司」は宗教家です。

なぜそのようなことをしなければならなかったのかといえば、あくまで古代社会の話ですが、この皮膚病にかかった人は、過去になんらかの罪を本人か親か先祖が犯したと考えられました。そしてその罪の結果としての神の罰がその病気であると考えられました。「応報思想」と言います。善いことをした人には神から善い報いをいただける。しかし、悪いことをした人には神から悪い報いを受ける、「天罰が下る」と信じられていました。つまり、病気の問題は宗教の問題でした。

17節以下の「中風の人」についても同じことが言えます。この話はルカだけでなくマタイにもマルコにも記されています。比較すると違いがあります。しかし、共通しているのは、この病気の人をなんとかしてイエスさまのところに連れて行こうとした人たちがいた、という点です。

「医者ルカ」と記されているとおり、紀元後1世紀のユダヤ社会に病気治療の専門家としての「医者」はいました。しかし、イエスさまは医者ではありません。福音を宣べ伝える宣教者です。宗教的な存在です。その方のところに人々が病気の人を連れて行こうとしたのも、病気の問題は宗教の問題だったからです。その人がかかった病気は「天罰」だと考えられていたからです。

イエスさまは、「重い皮膚病」にかかった人の皮膚病も、また「中風」にかかった人も、お癒しになったことが今日の箇所に記されています。これも宗教の観点からとらえる必要があります。今日の医学の観点から考えても正しい答えは出ません。次元が違うとしか言いようがありません。

しかし、だからといって私は、今日の箇所の2人の人の病気をイエスさまがいやされたことを疑っているわけでも否定しているわけでもありません。病気とは何を意味するか、病気が治るとは何を意味するかと、根本問題を考えています。

病気を甘く考える意図はありません。ひどい苦しみに疲れ果てて身動きがとれなくなっている状態からほんの少しでも解放されて動けるようになれば、それはそれで「治った」と言えるのではないでしょうか。「病気」の問題についてはいろいろ微妙で、複雑で深刻なお立場におられる方が多いと思いますので、これ以上のことは申しません。医学を否定する意図は全くありません。

もうひとつ大事な点があります。今日においてはもはや病気の問題は、いかなる意味でも宗教の問題ではないのでしょうか。決してそうではないと私は考えます。今日の箇所の2人にイエスさまがなさったことが、まさに当てはまります。

重い皮膚病にかかった人がイエスさまのもとに来て、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることができます」(12節)と願ったとき、イエスさまはその人の体に直接手でさわられ、「よろしい。清くなれ」(13節)とおっしゃいました。皮膚病の患部に直接さわられました。それは「あなたは宗教的な意味で忌み嫌われなくてはならない存在では断じてない」という強い意思表示です。

また、その人が遠慮がちに言った「御心ならば」という言葉に対するイエスさまの返事としての「よろしい」は、「あなたがだれからも遠ざけられたり偏見で見られたりしないようになることこそが神の御心である」というその人の存在への全面的な肯定です。

さらにイエスさまは、中風の人に対して「あなたの罪は赦された」(20節)とおっしゃったことに疑問を抱いた律法学者やファリサイ派の人々に「『あなたの罪は赦された』というのと、起きて歩けと言うのと、どちらが易しいか」(23節)と尋ねられました。

どちらが易しいかの模範解答は、昨年もお話ししました。簡単なのは「あなたの罪は赦されたと言うこと」のほうです。なぜか理由はお分かりでしょうか。どれも古いですが今回3冊の註解書(Plummer (ICC):1896, Marshall (NIGC):1978, Nielsen (PNT):1979)を丁寧に読みました。どれも同じ理由でした。罪が赦されたかどうかは「確認できない」ので言うだけなら簡単だが、起きて歩けるようになったかどうかは「具体的な証拠が必要」なので難しい、ということです。

だからこそ、イエスさまはその人の罪が本当に赦されたことの具体的な証拠を見せるために、その人に「起きて歩きなさい」と言われ、その人は本当に起きて歩くことができました。「あなたの罪は赦された」とイエスさまがおっしゃったのは、その人の犯した罪が原因で病気にかかっていたことを意味しません。そうではなく、あなたの病気とあなたの罪は関係ないという切り離しです。応報思想に対する全面的な抵抗です。「あなたの病気は天罰ではない」という宣言です。

それを立証するのは、わたしたちには不可能です。イエスさまは奇跡を起こすことがおできになりました。立証できないわたしたちは「言葉」が必要です。言うだけなら簡単ならば、言えばいいではありませんか。「あなたの罪は赦された」と。「あなたは神に愛されている」と。「あなたの人生は肯定されている」と。そのように遠慮なくどんどん言えばいいではありませんか。

教会の役割が今日まだ残っています。それは、神がわたしたちを全面的に肯定してくださっていることを語り続けることです。イエスさまがしてくださったことを受け継ぐことです。

(2023年2月12日 聖日礼拝)

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