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忍耐して実を結ぶ(2023年2月5日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 412番 昔主イエスの

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「忍耐して実を結ぶ」

ルカによる福音書8章4~15節

関口 康

「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」

今日の聖書の箇所に記されているのは「種を蒔く人のたとえ」です。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)のすべてに記されています。たとえ話はクイズの一種です。質問と正解がペアになっています。テストであるとも言えますが、成績はつきません。点数の問題ではなく、よく考えることが大切です。イエスさまは、どのたとえ話においても、趣旨や意図を考えてほしいと願っておられます。

ただしその場合、すでに入門しているかまだ入門していないか、弟子であるかそうでないかは区別されます。その区別自体が、イエスさまがたとえを用いて語られた理由です。このように言うと困惑する方がおられるかもしれません。しかし、イエスさまは意地悪な方ではありません。ご自分の弟子でない人たちをからかったり非難したりする方ではありません。

もしそうでないとしたら、区別の意図は何でしょうか。まだ弟子でない人々には「神の国の秘密」(10節)がたとえで伝えられます。秘密の答えが分かる弟子とそうでない人に明確な違いがあります。その違いは「知識」の差です。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」(10節)と言われます。

それなら話は簡単です。勉強すればいいだけです。知らないことがあるから我々は学び続けるわけでしょう。イエスさまは、知識が無い人をからかったり非難したりしておられるのではなく、真理を知るために光の中に入ってきてほしい、同信の仲間に加わってほしいと強く呼びかけておられます。

ある人が種蒔きに出て行きました。道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまいました。石地に落ちた種は、芽は出ましたが、水気が無いので枯れてしまいました。他の種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまいました。「茨」はパレスチナの畑を悩ませたとげのある雑草の総称です。その茨が若芽のときに、良い種と一緒に落ちたと理解する必要があります。一緒に成長したとき、茨が「押しかぶさった」とは、良い種が「窒息」したことを意味しています。しかし、他の種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結びました。

イエスさまはこのように言われて、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。「大声で言われた」のギリシア語の原意は「大声で泣く」です。イエスさまが泣かれたという意味かどうかは分かりません。泣くほどの勢いで感情をこめて強く激しく訴えられたと考えることができます。

このたとえ話は、畑にとうもろこしを蒔くパレスチナの農夫のイメージが用いられています。このたとえの趣旨は、多くの実を結ばなければならないという成果主義の教えなのかどうかが必ず問題になると思います。そうではないと私は申し上げたいですが、そのように言うための根拠が必要です。

11節以下に記されているのがイエスさま御自身によるこのたとえの説明です。道端のもの(12節)、石地のもの(13節)、茨の中に落ちたもの(14節)、良い土地に落ちたもの(15節)と四者の存在が描かれていることは明白ですし、四者が比較されていると考えることは可能です。

それぞれの特徴も描かれています。道端のものとは、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たち(12節)。石地のものとは、試練に遭うと身を引いてしまう人たち(13節)。茨の中に落ちたのは、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟すまで至らない人たち(14節)。そして、良い土地に落ちたのは、忍耐して実を結ぶ人たち(15節)。

四者は確かに比較されています。しかし、強調されているのは、神の言葉を聞く人の側の責任ではなく、神の言葉それ自体の行方です。聞き方が悪いとか、根がないことが悪いとか、悪魔による妨害や、試練や、人生の思い煩いや富や快楽の支配下にいるのが悪いと人間の態度や状況を責めているのではありません。

そうではなく、このたとえの趣旨は、神の言葉の宣教には、失敗する場合も成功する場合もあるということです。「はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」と石川啄木が詠んだあの詩と同じ言葉をつぶやきながら宣教する教会と説教者を慰めることにあります。

だいぶ古い英語の註解書に危険な解釈を見つけました。それによると、このたとえはキリスト者の中に4つの「階級」があることを教えています。たとえば、イスカリオテのユダは第3の「階級」に属しています。しかし、我々自身や他の人々がどの「階級」に属するかは人間の目で見分けることはできないので、自分のことかもしれないと、常に自分の胸に手を当てて考えなければなりません。

これは危険な解釈です。なぜ危険かといえば、わたしたちは、そのように言われても、自分の胸に手を当てて考えたりはしないからです。他の人に当てはめて責める道具にしはじめるからです。あの人は道端の人、この人は石地の人、その人は茨の人であると、他人の言動の分析に明け暮れ、差別と排除の論理に用いはじめるからです。

いや、そうではない。私は自分の胸に手を当ててばかりであると、反発を感じる方がおられるかもしれません。まさに自分のことだと、自分を取り巻き、がんじがらめにしている環境を恨む。夫婦、親子、兄弟、親戚、地域社会、国、経済、政治、時代、運命。そういうものに苛まれて、私は信仰を失った。私のせいではない。私が悪いなどとだれにも言わせない。私は十分すぎる意味で石地の上や茨の中にいるし、鳥だろうと怪獣だろうと絶え間なく容赦なく襲いかかって来るので、信仰など持つ余裕も理由もありません、と言いたい方がたくさんおられるかもしれません(いえ「おられます」)。

しかし、今申し上げた線の上に立っておられる方々にとっては、この種蒔きのたとえは、解釈さえ間違えなければ慰めになるはずです。特に思うのは、第3の「思い煩いや富や快楽」という茨の問題です。この茨と無関係でいられる人がどこにいるでしょうか。お金の心配も欲望も関係ないほど裕福な「階級」の人だけが真のキリスト者でしょうか。非常に愚昧な結論です。

しかも、「道端のもの」や「石地のもの」と「茨のもの」との違いは時間の差です。踏みつけられたり食べられたりするのは一瞬です。しかし、茨が覆いかぶさるまでには時間がかかります。この点は大事です。そして、その時間の問題と、第4の「良い土地に落ちたもの」が「忍耐して実を結ぶ」と言われていることが関係しています。「忍耐」は時間的な概念だからです。一瞬の忍耐には意味がありません。ずっと長く、とにかく耐えることが「忍耐」です。

「忍耐して実を結ぶ」という言葉は、同じたとえ話が出て来る他の福音書(マタイ、マルコ)には記されていません。記しているのはルカだけです。どういう意味だろうと調べてみましたが、「忍耐」という言葉の意味が説明されているだけで、なぜこの文脈で「忍耐」なのかは分かりませんでした。ですから、これから申し上げるのは、あくまで私の解釈です。

「種は神の言葉である」(11節)と言われているのですから、「忍耐して実を結ぶ」のはわたしたちの功績ではなく、「神の言葉」それ自体の力です。わたしたちの努力や辛抱強さではなく、神御自身が圧倒的な恵みの力で、わたしたちの中に多くの実を結んでくださいます。そのことを信じようではないかという呼びかけです。わたしたちが絶望しているときも、神はわたしたちをあきらめません。イエス・キリストはわたしたちをあきらめません。そのことを教えるたとえ話です。

(2023年2月5日 聖日礼拝)

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