スキップしてメイン コンテンツに移動

弱さへのいたわり(2023年10月8日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 197番 ああ、主のひとみ


「弱さへのいたわり」

フィレモンへの手紙 8~22節

関口 康

「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる人としても、愛する兄弟であるはずです。」

今日はフィレモンへの手紙を開きました。使徒パウロの手紙です。しかし、他の手紙とは性質が違います。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙といった、教会に宛てて書かれ、多くの人が目にすることを前提して書かれたものではありません。きわめて個人的な性格を持ち、厳格に言えばこの手紙が公開されるのは守秘義務違反ではないかと言いたいほど「デリケートな」内容を含んでいます。しかし、2千年前の「事件」は時効です。そして、この手紙こそ、パウロの「人となり」と「熱い思い」がよく表れているものです。

フィレモンはコロサイにいたと考えられます。コロサイは現在のトルコの町です。「アフィア」(2節)はコロサイから出土した墓碑に名が刻まれているそうですが、フィレモンの妻の名前としてよいだろうと言われています(P. シュトゥールマッハー)。

フィレモンは裕福な人で、広い家を持ち、その家が教会(家の教会)となり、その教会の牧師だったと考えられます。そのフィレモンの家に「オネシモ」という名の奴隷がいました。この点は2千年前の話として我慢して読まざるをえません。奴隷制度をパウロは否定もしていません。

しかし、そのオネシモがフィレモンの家で働いているうちに、そこは「家の教会」でもあったのでイエス・キリストの福音に接するようになり、その影響で、自分はもっと自由であるべきだと考え始めたようです。しかも、当時多くのキリスト者から尊敬されていたパウロがコロサイにいるという情報をオネシモが手に入れ、パウロのもとに行きたいという願いを持ちました。

それでオネシモは、主人のフィレモンに黙って家から逃亡したようです。しかし、奴隷である以上、奴隷を購入した主人から逃げること自体が主人の損失ですし、それだけでなく、オネシモはフィレモンの家から逃亡する際に金品の持ち逃げのようなことをしたようです。盗みを働いた、ということです。

いま私は「ようです」とか「考えられます」という言葉を繰り返していますが、私の想像ではなく、この手紙の研究者が書いていることをまとめています。ただし、想像の域は越えません。

この手紙は「デリケート」な問題を扱っていると、先ほど申し上げました。パウロは牧師です。フィレモンも牧師です。つまり、この手紙は牧師同士のやりとりです。教会の中で口にできないトップシークレットの手紙です。しかし、この手紙を読むと分かることは、たとえ極秘の手紙の中であっても、パウロはオネシモがしたことについての描写においてかなり言葉を選んでいるということです。わたしたちとしては言葉の端々に基づいて当時の状況を想像するしかありません。

しかし、それこそパウロの「人となり」だったと言えます。オネシモ本人がいないところでは犯行内容を克明に暴露し、口汚く罵るような使い分けをしていません。ただし、ひとつの可能性として、この手紙をオネシモは読んだかもしれません。そう言える理由を後で言います。

話を戻します。オネシモがフィレモンの家から逃げてパウロのところに来たことで、パウロが喜んだかというと、必ずしもそうでなかったというのがオネシモの誤算でした。2点あります。

ひとつは、オネシモとしては自分が奴隷であることを憎み、自由を求めてフィレモンの家から逃亡してパウロのもとに行ったつもりだったのに、そのパウロ自身が捕らわれの身であることが分かったという点です。当時の囚人は、今ほど世間から隔絶された閉鎖状態に置かれていませんでしたが、パウロがオネシモにできることは、ほとんど何もありませんでした。

もうひとつが、パウロとしては、オネシモがフィレモンの家の奴隷であることを続けるほうがオネシモにとって善いことなので、元いたところに帰るべきだと考えたようです。パウロがなぜそのように考えたのかははっきりとは記されていませんが、奴隷であることには嫌な面やつらい面があるとしても、フィレモンの家は「教会」なので、教会の中でのキリスト者としての奉仕において、神の前での自由と平等を味わうことができる、と言いたかったのではないでしょうか。

「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(16節)とパウロがフィレモンに迫っています。

別の言い方をすれば、オネシモとパウロの出会いは、全く無駄だったわけではなかったということです。無駄どころか素晴らしい出会いとなりました。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(10節)とあるのは、信仰上の親子関係の意味であって、血縁関係ではありません。オネシモはパウロのもとでイエス・キリストへの信仰を告白してキリスト者になりました。それがオネシモとしても、パウロとしても、2人の出会いの最大の収穫でした。

それで、パウロはこの手紙をフィレモンに書き送った次第です。この手紙の主旨は、あなたの家から逃げたオネシモを赦してもう一度受け入れてほしいと説得することです。ひとつの可能性は、この手紙はオネシモがフィレモンの家に到着したときに添えられていたもので、フィレモンとオネシモがいる前で読まれたものではないかということです。「あとで申します」と言った点はこれです。この手紙にオネシモの犯行内容が詳細に暴露されていないのは、オネシモ自身が読む可能性があったからかもしれません。パウロはオネシモを傷つけたくないのです。

興味深い解説を読みましたのでご紹介いたします。「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」(11節)で「役に立たない(無用な)」(アクレストス)と「役立つ(有用な)」(エウクレストス)が語呂合わせで、要するにダジャレであるというのです。しかも、オネシモという名前が「役立つ者」という意味だそうで、そのオネシモ(役立つ者)が「役立たない者」だったのに「役立つ者」になったというのはパウロが場を和ませるためのジョークを言っている、というのです。

そしてパウロは、オネシモがフィレモンの家から逃げたことで発生した損害ばかりか、盗みを働いた分まで、すべてわたしが肩代わりして弁償しますと言い出します(18~19節)。パウロは「年老いて」いる(老人である)(9節)と自分で書いています。若い人や困っている人を信仰的に励ますだけでなく、物質的・金銭的に支援することは年長者の役目であると考えているようでもあります。今日の宣教題「弱さへのいたわり」に直接つながるのは、この部分です。

しかもパウロは、フィレモンが若い人だったようで、少しばかり威嚇する言い方を混ぜているのも興味深い点です。「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」(19節)の意味は、わたしこそあなたをキリスト教信仰へと導いた恩師なのだから、言うことを聞きなさい、ということです。これもユーモアです。信頼関係があるからこそ言えることです。

しかめ面ではなく、笑顔と安心を保てることが教会の良さだとしたら、ユーモアは大事です。

(2023年10月8日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現代の牧師たちにとって、説教と牧会は「職業ではない

天に栄光、地に平和(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 261番 もろびとこぞりて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「天に栄光、地に平和」 ルカによる福音書2章8~20節 関口 康 「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」 クリスマスおめでとうございます! 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。 天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。 なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。 もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトに

すべての時は、御手のうちに(2023年12月31日)

クリスマスイヴ音楽礼拝(2023年12月24日 宣教 秋場治憲先生) 讃美歌 410番 鳴れかし鐘の音 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「すべての時は、御手のうちに」 コヘレトの言葉3章1~15節 秋場治憲 「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」 (2023年12月31日 歳末礼拝)