スキップしてメイン コンテンツに移動

生涯のささげもの(2021年6月20日 主日礼拝) 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 515番 きみのたまものと 奏楽・長井志保乃さん

【付録】湘南の浜辺から江ノ島を望む(2021年6月18日)

「生涯のささげもの」

コリントの信徒への手紙二8章1~15節

関口 康

「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」

今日の朗読箇所は、使徒パウロのコリントの信徒への手紙二8章1節から15節までです。この箇所の趣旨は「献金のすすめ」です。

ただし、そのことがはっきり分かるようには書かれていません。回りくどい書き方だと言うのは言い過ぎです。しかし、パウロが言いにくいことを言いにくそうに書いている様子が伺えます。それはたとえば、この箇所のどこにも「お金」という言葉が用いられていないことから感じます。その代わりに用いられているのは「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」(4節)です。

ここで「聖なる者たち」の意味は、キリスト者であり、教会です。「慈善の業と奉仕」と聞くと今のわたしたちは、教会バザーのようなことをすぐ連想するでしょう。しかし、ここで言われているのは、パザーのようなことに限りません。

要するにここでパウロが求めているのは、わたしたちが自分の働きで得た収入のすべてを自分のために用いるのでなく、その一部を教会の働きのために献げることです。そのことを総称して「慈善の業と奉仕」と書いていますが、「お金」という言葉を用いるのを避けたがっているようにも見えます。

今日の箇所の内容は、大別すると以下の3つの部分に分けることができます。

(1)マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて(1~7節)
(2)慈善の業と奉仕は、命令ではなく、自発的に行う(8~12節)
(3)慈善の業と奉仕は、全体の釣り合いをとるために行う(13~15節)

第1の部分である「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて」の趣旨は例示です。「諸教会」と書かれているのは、単独の教会でなく複数の教会を指しています。今のわたしたちなら「教区」や「支区・分区」などの教会的な行政区を表現する名称を付けるであろう区域内の複数の教会を指していると言えます。

しかし、この当時に「マケドニア教区」というような名称が用いられるなどして明確な組織化がなされていたとは思えません。もう少し緩やかな仕方で、しかし実際に行われた「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」を例として挙げています。

そして印象深い言葉が2節に記されています。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(2節)。

「極度の貧しさがあふれ出る」というのがどのような状態を指すかは、献金をしてきたわたしたちは分かります。「豊かさ」ならば「あふれ出る」が当てはまりそうだが、どうすれば「貧しさ」があふれ出るのか教えてほしいと抗議口調で言いたい気持ちが起こらないわけではありませんが、実際に「貧しさ」は「あふれ出る」ものです。ただしこれは理屈では説明できないことです。実際に体験してみるしかありません、としか申し上げようがありません。不思議な、不思議な話です。

しかし、ひとつだけ説明できそうなことがあります。それは、ここで言われている「貧しさ」と、その対義語として「豊かさ」と言われていることは、保有しているお金の分量だけを指していないということです。それがはっきり分かるのが7節の言葉です。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(7節)。

これが、パウロが考える「豊かさ」の定義です。信仰、言葉、知識、熱心、そして愛されることにおいて豊かであることが真の「豊かさ」であるというのです。この中に「お金」がありません。そして「この慈善の業」は、具体的には教会の活動を支える献金を指しています。

つまりそれは、お金という点では自分の収入ではなく支出のほうなので、「慈善の業において豊かな者になる」は「豊かに献げる者になる」と言っているのと同じです。それが「極度の貧しさがあふれ出る」状態を示していると言えるでしょう。

このあたりで、現在の私自身の話をすると、まるで自慢話をしているように響いてしまうかもしれません。多方面に差しさわりが出るので、私の過去の経歴について詳しいことを明かすわけには行きません。

しかし皆さんはご存じのとおり、まだわずか3年前の2018年4月に昭島教会にたどりついたときの私は、パウロがコリントにたどりついたときの心境として「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(コリントの信徒への手紙一2章4節)と書いているのと同じ状態でした。その前年の2017年度の1年間、私は日本キリスト教団の無任所教師でした。

私が高校からストレートで東京神学大学に入学し、卒業と同時に日本キリスト教団の補教師になったのが1990年4月です。それ以来26年間、教会の牧師として働きましたが、27年目に無職を体験しました。牧師28年目に昭島教会に副牧師としてお招きいただき、アマゾンの八王子倉庫で週30時間アルバイトをしながら、石川献之助先生をお助けすることを始めました。

その1年後(2年前)に明治学院中学校東村山高等学校(東京都東村山市)で聖書科非常勤講師の職を得て、アマゾンをやめました。さらに翌年(昨年)、アレセイア湘南中学校高等学校(神奈川県茅ヶ崎市)でも非常勤講師になり、今年から上記2校に加えて平和学園小学校(同上所)でも教えています。

つまり今の私は、昭島教会の牧師と、2つの中高一貫校と1つの小学校で聖書科の非常勤講師であるという状態です。「極度の貧しさがあふれ出る」とはこういうことを言うのかもしれません。教会の皆さんを傷つける意図などは全くありませんが、今の私が金銭的に豊かかどうかは皆さんがご存じです。

また、信仰、言葉、知識については、豊かでないと務まらないはずの職責にありながら、覚束ないところが多すぎて、皆さんを不安にするばかりで申し訳なく思っています。

しかし、ひとつだけは自信があります。パウロの言葉を借りれば「わたしたちから受ける愛」(7節)において私は豊かです。「愛される豊かさ」を、今の私は教会においても学校においても味わわせていただいています。「豊かさ」はお金だけの問題ではないということを実感しています。

覚束ない働きで良いとは思いません。「教会も学校も」とか「複数の学校で」と分散すると意識も働きも散漫になります。私個人の願いは、いずれ教会の働きに集中できるようになることです。

パウロの言葉を借りて、皆さんに献金のお願いをしているように響いてしまっているとすれば申し訳ないことです。牧師である者にとって「献金のお願い」は「言いにくいこと」に属します。だから、自分で言わず役員さんに言ってもらう牧師が多いです。献金の中に牧師自身が受け取るものが含まれているからです。

しかし、すべては神と教会のためであるということを、忘れずにいたいと願う者です。そして、これから新たに牧師になる人が起こされることを祈る者です。

(2021年6月20日 主日礼拝)

このブログの人気の投稿

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で