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悔い改めの使信(2021年6月6日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 奏楽・長井志保乃さん


「悔い改めの使信」

使徒言行録17章22~34節

関口 康

「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」

今日の聖書の箇所に登場するのは使徒パウロです。パウロは生涯で3回の伝道旅行を行ったことが知られています。今日の箇所に描かれているギリシアの首都アテネでパウロが伝道したのは、第2回伝道旅行のときです。

ギリシアにとってアテネは古代から現代に至るまで最大都市であり、文化や芸術や学問の中心地であり続けてきました。そのアテネにパウロが行きました。

パウロがアテネに人生の中で何度行ったことがあるかは分かりません。しかし、少なくとも彼がユダヤ教徒からキリスト教徒へと改宗した後にアテネを訪ねたのは、このときが初めてだったのではないかと思えてなりません。

なぜそう思うのか。今日の箇所にはっきり書かれているとおり、アテネの至るところに偶像があるのを見て「憤慨した」(16節)と証言されているからです。

パウロに限らず、ある人が過去に一度も体験したことがないことを新しく始めるとか、いまだかつて行ったことがない場所に初めて行ったときに、その人が「憤慨する」としたら、明らかに違和感の表明でしょうし、もっと強く言えば「居たたまれない」「苦痛でたまらない」というような感情を抱いたことを意味するでしょう。

しかもここで、アテネでパウロが抱いた「憤慨」の理由が「この町の至るところに偶像がある」のを見たからであるとはっきり書かれていることから分かるのは、それは決して大げさな意味ではなく、一方の「ヘレニズム」と歴史家たちが名付けてきた古代ギリシア文明において培われてきた宗教性と、他方のかつてはユダヤ教徒だったけれどもキリスト教徒へと改宗したパウロが、いずれにせよ「広義のヘブライズム」と総称できる、彼自身の宗教的な自覚とが激突したことで発生した否定的な感情であろう、ということです。

つまり、別の言い方をすれば、と言いましても、なるべくすべきでない言い方であり、パウロに失礼な言い方ではあるのですが、それをあえてお許しいただくとすれば、もしパウロがかつてユダヤ教徒だったこともなければその後キリスト教徒にもならなかったとしたら、そこで「憤慨」という感情を抱かなかった可能性が高いと言えるかもしれない、ということです。

しかし、それはとても失礼な言い方です。パウロが自分で言うならともかく他人から言われるようなことではないでしょう。わたしたちが「もしあなたがクリスチャンでなかったら」というような仮定の話をされても困るのと同じです。

それはともかく、パウロはアテネの「偶像」を見て「憤慨」しました。そして、その「憤慨」の感情を抱いたまま、彼はアテネ伝道を開始しました。その調子は明らかにけんか腰です。アテネの人々を言い負かしてやろう、説き伏せてやろう、という姿勢です。17節に「それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」と記されているとおりです。

私の気になるのは、アテネのユダヤ人ともパウロが論じ合ったことが記されていることです。その論争が「偶像」の問題と直接関係しているかどうかは分かりません。もし関係あるとしたら、パウロはアテネのユダヤ人たちに「なぜ偶像が至る所にあるのに黙っているのか」とけしかけたのではないかと考えてみました。パウロにとって黙っていられない、我慢ならない空気がアテネに蔓延していると感じたゆえの「憤慨」だったのでしょうから。

そのようなパウロの伝道姿勢に対するアテネ市民の反応が、18節あたりに記されています。「『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた」(18節)。そして、その人々がパウロを、おそらくからかい半分の調子で、アレオパゴスへと連れて行きました。

アレオパゴスは、パウロの時代よりずっと前に最高裁判所があった場所です。そこで「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19~20節)と人々が言いました。それでパウロが語り始めたのが、22節以下の「アレオパゴス説教」です。内容は単純明快です。

この街の至るところに偶像があります。その中に「知られざる神に」と刻まれている祭壇まであるのを見かけました。知らない神さままで拝んでしまわれるあなたがたは、なんと信仰のあつい人たちでしょう。しかし、あなたがたが知らずに拝んでいる神さまのことを私が教えてあげましょう。それは天地万物を創造された真の神さまです。

その神さまは、人間の手で造った神殿だとか偶像だとかの中にはお住まいになりません。そもそも、人の手で造ったもので神さまの足りないところを補ってあげましょうなどと考える必要がない満ち足りた方です。

ですから、この街の至るところにある偶像も神殿も、有害無益の無用の長物ですよね、というような調子です。

私がパウロをからかっているわけではありません。しかし、このときのパウロの伝道姿勢に、わたしたちが考えなければならないことがあると思います。

私なりの問いは、今のわたしたちがパウロと同じような伝道姿勢を持つべきだろうか、ということです。「腹立ちまぎれのけんか腰伝道」です。それを恭(うやうや)しい言葉のオブラートに包んで一方的に言い放っているだけです。

それを語る人の胸の中はすっきりするかもしれません。しかし、聞く側の人たちは、ある意味での恐怖や戸惑いを感じて逃げ出すか、売られたけんかを買う式に反発したり攻撃したりするか、あるいはひたすら冗談めかしてからかう姿勢をとるかしか無くなる可能性があるでしょう。

いま申し上げているのは、私の空想でもなんでもなく、現実に体験してきたことばかりです。みなさんも大なり小なり同様の体験をしてこられたはずです。

もちろん人によると思います。しかし、私がみなさんに問いたいのは、今日の箇所のパウロのような宣教のあり方によってわたしたちの中の何人の人が救われたでしょうか、ということです。

「あなたの生き方は間違っている。この国の宗教も文化も間違っている。見ているだけで不愉快でたまらない」と言いたそうな教会と牧師の言葉で心を入れ替えた人が、何人いるでしょうか。

このことを問う私は、偶像や宗教の異なる人々に対して曖昧な態度をとるべきだと言いたいのではありません。しかし、今日の箇所のパウロの説教はわたしたちが必ず模範にしなくてはならないという意味で残されていると考える必要はありません。わたしたちならばどのように語るのかを考えるための材料にすることが許されています。

日本伝道が進展しない原因は、教会にあるかもしれません。悔い改めなければならないのは、わたしたち自身かもしれません。

おそらく人は、愛されなければ、悔い改めることはありません。愛されて、受け入れられて、かわいがられて、安心して、初めて人は自分の心を開くでしょう。

(2021年6月6日 主日礼拝)


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