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家族(2021年8月15日 各自自宅礼拝)

教会から見えた夜明けの虹(2021年8月10日(火)午前5時)
讃美歌21 459番 飼い主わが主よ 奏楽・長井志保乃さん


「家族」

コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節

関口 康

「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」

今日も「各自自宅礼拝」です。新型コロナウィルスは幾多にも変異し、その感染は抑制されるどころか、日増しに拡大しています。

そうであるということを教会自身が検証するすべを持ちうるわけではありません。関係機関の発表内容を信頼するしかありません。「恐れることはない。ただの風邪である」と高を括る人たちもいます。しかし、私はそうは思いません。今は礼拝堂に集まって礼拝や集会を行うことは危険です。ご理解いただきたく、伏してお願いいたします。

今日の聖書の箇所も、ずっとそうしているように、日本キリスト教団の聖書日課どおりです。今の私にとっては必ずしも率先して選びたい箇所ではありません。なぜなら今日の箇所のテーマが「家族について」だからです。

ご承知のとおり私は、2018年3月に昭島市に転入したときから単身赴任です。ちょうど3年半になります。妻子3人は東京都内で元気にしています。している「と思います」。おかしな言い方をするのは毎日顔を合わせる関係にないからです。ほとんどのことは、私の想像の範囲内です。

結婚したのが1991年4月ですので30年前です。そのときから数えて27年分の家族と過ごした日々を思い出さない日はありません。しかし、言い方を換えれば、どれもこれも遠い昔の思い出になってしまっている、ということでもあります。

この夏も一度も会っていません。私の家族は、夜勤も多い福祉関係や出勤時刻が早い食品関係の仕事をしています。多忙をきわめ、家には寝るために帰ってきているだけです。加えてコロナです。会いに行っても、マスクすら外すことができず、かえって迷惑になるだけです。

こんな話をするのは、今の私にとって「家族について」語ることは非常に重い気持ちになるということを、明け透けに申し上げておきたいからです。私は自分の家族は(まだ)壊れていないと信じています。それはつまり「信じるかどうか」の問題であると自覚しています。私は妻と2人の子どもを信じています。それ以上ではないし、それ以下でもありません。

こんなことを言うことすら家族にとっては失礼かもしれないし、迷惑かもしれません。しかし、いま申し上げていることのすべては、単身赴任の生活を始めることによって、やっと認識できたことです。「気づくのが遅すぎる」と叱られても仕方がありません。

教会の皆さんの中に、この文章を読んでくださっている皆さんの中に、「家族」の問題で悩んでいるという方がおられるなら、その方々の心に届く言葉を、今の私は語ることができるかもしれません。しかし単身赴任を始める前の私には、それを語る力がありませんでした。

一方で「今日の箇所は必ずしも率先して選びたいと思えない」と言いながら、「今の私なら家族について語る資格があるかもしれない」と言うのは矛盾しているかもしれません。しかし、今日の箇所を開いてみてほしいです。実際に読んでいただけば、いま私が何を言おうとしているのかを理解していただける気がします。

最初に記されているのが、「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(18~19節)です。

この言葉を笑いもせず怒りもしないで真顔で読める人が、今どれくらいいるでしょうか。自分に都合の良いほうの文章は「そうだ、そうだ」と同意しながら読めるかもしれません。しかし、そうでないほうの言葉はそうでない。互いに自己主張するために聖書の言葉を利用し合うだけ。どちらの言葉も成り立たないと思えば、聖書の言葉そのものを放棄するだけ。

次の言葉にも同じことが言えるでしょう。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです」(20節)。「主に喜ばれる」うんぬんとあるので、キリスト教の信仰を受け入れている親子関係に該当すると考えるのは可能でしょう。しかし、だからといって信仰と関係なく生きている人々には無関係であるとまで言い切るのは、行き過ぎです。子どもが親に従うことが大切であるという教えは、普遍性を持つでしょう。

しかし、問題はそこから先です。今に始まったことではありえません。しかし広く報道されるようになったのはさほど昔でもないのは、親である人が子どもを虐待する事象です。「どんなことについても」子どもは親に従うべきであると聖書が教えていると、この言葉だけを切り取って、親から虐待を受けている子どもたちに伝えると、その子たちの絶望の根拠になりかねません。

しかし、すぐ後に「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(21節)と記されているので、ちょっとほっとします。とはいえ、なぜ「父親たち」だけなのか、母親は無関係なのかと、即座に反発を感じる方がおられるに違いありません。

この箇所に「母親たち」と書かれていないので、母親は子どもを苛立たせてもよいと読む方がおられるなら、それはもちろん完全なる誤読です。しかし、この箇所の原文に「父親たち」(πατερες パテレス)と記されている事実を変更することはできないでしょう。ただそれだけのことです。

親子関係のことについては、今週の週報に「以下、短くお勧めします」と最初に記した短文を掲載しましたので、ぜひお読みいただきたいです。特にコロナ禍で、ステイホームやテレワークが社会的に奨励されている中で、親が自宅で仕事をすることが家庭内不和の原因になっていることが広く知られています。それを「虐待」だと言われると困る親の立場も痛いほど分かります。しかし、子どもたちの居たたまれない立場も分かります。

週報に載せた短い文章の最後に「いつも共に生活している人たちに対してこそ、敬意を持ち、かけがえのない存在であると信じようではありませんか」と書かせていただきました。

そんなのはきれいごとだ、などと思わないでください。「仕事中に苛立つのは当たり前であり、その苛立つ仕事を自宅でしなければならないのは、自分のせいではなく、コロナのせいであり、会社の命令であり、社会の要請なので、親である自分が子どもの前で苛立ち、つらく当たるのは避けがたいことなので、子どもたちに我慢してもらうしかない」などと合理化しないでください。

わたしたちもかつては子どもでした。そのことを忘れないでいましょう。「自分も親からつらく当たられた。だから、私も自分の子どもにつらく当たる」と考えるのをやめましょう。

自慢ではありませんが、牧師たちはステイホームとテレワークの先駆者です。いま至るところで起こっていると言われる家庭内不和の原因そのものだった過去が、私にもあります。家族には申し訳ない気持ちでいっぱいです。私は皆さんの「反面教師」です。単身赴任は反省期間です。だからこそ、皆さんにお話しできる立場にあると思います。

(2021年8月15日 各自自宅礼拝)

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