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忍耐(2021年8月22日 各自自宅礼拝)

多摩川南側の遊歩道から多摩大橋へと向かう道で(撮影・中島克枝さん)
  
讃美歌21 493番 いつくしみ深い 奏楽・長井志保乃さん

「忍耐」

ローマの信徒への手紙8章18~25節

関口 康

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

私が昭島教会で今日の聖書箇所の宣教をするのは3回目だそうです。教会の様々なことを記録してくださっている林芳子さんが、昨日教えてくださいました。ありがとうございます。

「この箇所が好きだから」何度もお話しするという動機は、私にはありません。いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選ばせていただきました。

しかし、今は教会暦の「聖霊降臨節」です。日本キリスト教団の聖書日課は、教会暦に基づいて聖書箇所が選ばれています。その観点からいえば、「教団の聖書日課」に基づいて聖書の箇所を選ぶことによって「教団の教会暦」に従って聖書を読んでいる、という意味にはなります。

聖霊降臨節とは何なのかについては詳しい説明が必要でしょう。神の御子イエス・キリストが罪人の身代わりに十字架につけられて死に、3日目に復活されました。その40日後に、イエス・キリストが天の父なる神のみもとへとお戻りになり、御父の右に着座される「昇天」の出来事が起こりました。

そしてその後、ユダヤ教の「五旬祭」に当たる日に、御父と御子のもとから聖霊なる神が地上へと降り、その聖霊の力によって勇気づけられた人々の群れが立ち上がり、十字架につけられたイエスこそ真の救い主キリストであると力強く宣べ伝えることを開始する出来事が起こりました。

その出来事を「聖霊降臨」と言い、またそれを「ペンテコステ」という、それだけ耳で聞いてもすぐに意味が分からない方がきっと多いであろうカタカナ言葉で呼びます。そしてその聖霊降臨、すなわちペンテコステの出来事を覚えて過ごす季節が「聖霊降臨節」である、と説明できます。

しかし、このようなことをいくら説明しても「よく意味が分からない」というお返事が戻ってくるだけで会話が終わってしまうことはしばしばあります。「イエス・キリストが父なる神のもとへとお戻りになった」(?)とか「父なる神と御子イエス・キリストのもとから聖霊なる神が来てくださった」(?)とか、まるで現実からかけ離れた、不思議の国の物語を聞かされているような気分になる方が少なくないだろうということも当然理解しています。

しかし、聖書には確かに、いまご説明したようなことが縷々書かれています。しかも、それらのことが、手で触りうるし、肉眼で見うる現象が起こったように記されています。

しかし、こういうことを理解できないとお感じになる方はきっとおられるに違いありませんが、心配する必要はありません。イエス・キリストの十字架と復活と昇天の出来事、そして聖霊降臨の出来事のすべては「キリスト教会の誕生秘話」であり、キリスト教会の「存在理由」(フランス語の哲学用語の「レゾンデートル(raison d'être)」)についての教会自身の自己理解だからです。

それは「教会はなぜ存在するのか。何をする団体なのか」という問いの答えです。別の言い方をすれば、これらの出来事は洗礼を受けて教会の仲間に加わり、教会生活を続けていくうちに、だんだん理解できるようになるような性質のことです。すぐ分からなくても気に病むことは全くありません。教会の中の奥深くへと入って行かないと理解できないことばかりだからです。

ですから、私の心からの願いは「よくわかりません」とおっしゃる方こそ教会の仲間になっていただきたいということです。とことん理解し、納得できるまで共に学ぼうではありませんか。学ぶべき内容は、尽きることがありません。

さて今日の箇所です。私が昭島教会で取り上げるのが3回目だそうですが、ローマの信徒への手紙の8章の18節から25節までで止めて、26節以下に記されている内容と切り離したうえで「忍耐」というタイトルを付けたのは、教団の聖書日課に従った形です。

しかし、私が過去にお話ししたのは、25節までで止めないで、26節以下も含めた記述の流れの中に「3者のうめき」がある、ということではなかったかと、おぼろげに記憶しています。

「3者のうめき」とは「被造物のうめき」(22節)、「わたしたち人間のうめき」(23節)、そして「聖霊なる神のうめき」(26節)の3者です。

人間の罪によって世界が壊れてしまいました。しかし、その世界をなんとかして壊れていない状態へと修復しようと、努力し、うめいている存在があります。その存在が「被造物」であり、「わたしたち人間」であり、「聖霊」と呼ばれる「神ご自身」です。そのことをこの箇所にパウロが、難解な言葉の連続ではありますが、確かに記しています。

そのパウロは一方で「被造物は虚無に服していますが」(20節)とまで書いています。「虚無」はナッシング(nothing)です。何も無い、むなしい、です。「存在するもの」が「無い」と言っています。仏教表現の「色即是空」とほとんど変わらないことを言っています。

目の前に家族や友人がいるところで「すべてはむなしい」と言えば、きっと腹を立てられるか、呆れられるでしょう。目の前にいるわたしたちのことを、まるで存在しないかのように言い放つ、あなたは何様なのかと、叱られるでしょう。しかし、パウロはそれとほとんど変わらないことを言っています。

「被造物は虚無に服している」。存在するものは存在しない。ビーイング・イズ・ナッシング。そう言っているのと同じです。他人を「透明人間」呼ばわりするのと変わりません。

しかし、「そんなわけに行くか」と、もがいているのです。もがいて苦しんで、激しいうめき声をあげているのです、被造物自身と、わたしたち(人間)と、神さまが。神さまは、世界と人類を「甚だ善きもの」(旧約聖書 創世記1章31節)として、ヴェリーグッド(very good)なものとして創造してくださいました。それほど価値あるものを「むなしい」だとか言わせない!

すべての人類が感謝と喜びの人生を安心して送ることができる場として、世界を本来の「甚だ善きもの」へと回復させるために、神と人と被造物が協力するのだと、パウロは信じています。その究極目標にまだ到達していないので「目に見えない」段階ではある。しかしそれは希望の光にあふれる目標である、だから「忍耐して待ち望む」ことができるのだとパウロは信じています。

このパウロの信仰に、わたしたちも今こそ学びたいです。感染症、異常気象、自然災害、人のあざけり、差別。わたしたちの生きる意欲を根こそぎ刈り取っていくような出来事を次々と経験しています。しかし、苦しいのはあなただけではありません。みんな苦しいし、もがいています。

世界を虚無から救い出し、感謝と喜びにあふれる世界を取り戻すために、みんなで協力しようではありませんか。そのことのために、聖霊なる神さまも、そして被造物も、激しいうめき声をあげながら、協力してくれるのだと、パウロが教えてくれています。

だから、わたしたちは孤独ではありません。あなたは孤独ではありません。

(2021年8月22日 各自自宅礼拝)

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