日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 358番 小羊をばほめたたえよ
「わたしについてきなさい」
ヨハネによる福音書15章1~17節
秋場治憲
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
私たちは5月28日にペンテコステ、聖霊降臨節を記念する礼拝を持ちました。これからしばらく聖霊降臨節が続きます。いつまで続きますか、と質問してきた方がおられます。教会暦ではアドベントまで続きますが、実際は主イエスが再び来たりたもう日まで、つまり「かしこより来たりて 生けるものと死ねる者とをさばきたもう」再臨の時まで続きます。再臨というのは、読んで字のごとく「再び臨む」ということです。よみがえった主イエス・キリストは、40日にわたり弟子たちに現れ、天に上げられ、父なる神の右に今座し、聖霊を通して、今現在私たちを導いておられる。「かしこより」と訳されている言葉は、indeというラテン語で「そこから」という副詞です。その直前にあるのは「全能の父なる神の右に座したまえり」という言葉です。「神の右」というのは、神の支配を意味します。「そこからきたりて(未来形)、生けるものと、死ねるものとを裁きたまわん、我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、・・・と続きます。主が再び来たりたもう日まで、我は聖霊(復活した主イエスの霊)の導きを信じ、聖なる公同の教会を信じ[1]、聖徒の交わりを信じ、罪の赦しを信じ、体のよみがえりを信じ、永遠の命を信じて生きて参りますという信仰告白です。それぞれの詳細については今日の本題ではありませんので、別の機会に致します。キリスト教信仰における、現在という時の位置づけを理解していただければと思います。
主イエスが再び来たりたもう日まで、聖霊の時代が続きます。天にのぼり全能の父なる神の右に今現在座していたもう主イエス・キリストの支配のもとに私たちは日々歩んでいます。そのことを私たちに証しているのが聖霊です。だから聖霊について学ぶということは、とても大切なことなのです。
ペンテコステ礼拝において私たちは「神は愛である」という視点から聖霊の働きについて学びました。もうお忘れかもしれませんが、簡単に振り返りますと、唯一の神(父なる神、子なる神、聖霊なる神)のそれぞれがそれぞれの仕方で、人間を愛すること「神は愛である」ということを本質としているということを学びました。父なる神は人間を愛するが、それは罰すべき者を罰しないではおかない方であり、子なる神はその罰せられるべき者を赦して受け入れる方でした。それに対して聖霊なる神は、罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝った「復活者イエスの霊」「勝利者イエスの霊」であるということを学んだと思います。この方が私たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言っておられるのですから、私たちは何度でも罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝ってよみがえるのです。よみがえらされるのです。
エペソの信徒への手紙4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなた方は、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。[2]」(口語訳)という言葉があります。聖霊とは「復活者イエスの霊」であり、「勝利者イエスの霊」であることを学びましたが、北森嘉蔵先生はこの復活者、勝利者に最も似つかわしくないのが、「悲しみ」であるとその聖書百話の中で語っておられます。この聖霊によってあなた方は、キリストの死を代価とする罪よりのあがないの日のために、あなた方は封印(証印)されたのであるから、つまり「悲しみ」は克服された者なのだから、それに相応しく生きなさいというのです。封印(証印)というのは、その約束の日が来たなら、その約束されたことが必ず実現するという保証です。その日まで、この勝利者イエスの霊に導かれて生きる者は、その日の到来を待ち望みつつ、救いが必ず実現されるという望みによって歩む者とされているということです。しかしその日はまだ来てはおりません。その日というのは、「かしこより来たりて、生ける者と、死ねる者とを裁き」たもうその日のことです。それまでの間私たちは罪の中にありながら、この身のあがなわれることを待ち望みつつ日々の歩みを続けていくのです。私たちはこの希望によって、信仰と言い換えてもいいと思いますが、この希望によって義とされている、救われているのです。ルターが「信仰のみ」と言ったのは、私たちの救いは、この希望が真実で確実なものであると信じる信仰(希望)の中にのみある、ということを言ったのです。それではすべて将来のことなのか、という疑問が湧いてきます。そうではありません。私たちはすでに使徒信条の「全能の父なる神の右に座し給えり」という言葉が直説法現在で書かれていることを学びました。クリスマスのメッセージ「インマヌエル(神、我らと共にいます)」というのは、クリスマスだけに聞く言葉ではありません。今現在の私たちの日々の生活の中にあって、よみがえった主イエスの霊が私たちを導き、病の床にあって私たちを慰め、励まし、そして死の床にあって我らをよみがえらせ、父なる神の御前に至るまで「我らと共におられる」という意味です。となると私たちは自ずと自らの生活を律するものとならざるを得ないのではないでしょうか。「あがないの日」には、この聖霊が私たちの傍らにあって父なる神に執り成しをするために常に備えておられるというのです。
前置きが長くなりましたが、この希望によって救われている今も、私たちは現実には罪の中にあります。様々な困難や誘惑、試練に遭遇します。その私たちのことを心配して、「私は去っていくが、また、あなたがたのところへ戻って来る。」「私はあなたがたに平和を残していく」「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教えて下さる。」「事が起こったときに、あなた方が信じるようにと、今、そのことの起こる前に話しておく。」というのです。
このことをふまえて今日のテキストに入りたいと思います。主イエスの言葉は、その都度少しずつ視点を変え、繰り返し、繰り返し、「私につながっていなさい」ということを弟子たちに言い聞かせています。そこには主イエス亡き後の弟子たちが遭遇するであろう試練に対して、その備えをしておこうという主イエスの心遣いが伝わってきます。これは二千年前の弟子たちに対する心遣いであるだけでなく、同時に今を生きる私たちに対する心遣いでもあります。その冒頭の言葉は、驚くような言葉で始まっています。
「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」
私たちは10章の「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」という言葉は誰もが知っています。ここでは羊飼いと羊は、別の存在ですが、今日の譬えは更に親密度を増し、ぶどうの木と枝という一体を現わす譬えとなっています。ただ驚いたのは、実を結ばない枝は農夫である父が切り取られるというのです。そして実を結ぶ枝は農夫である父が、手入れをして益々多くの実を結ぶようになさるというのです。
これは今まで私たちが聞いてきたこととは違っているのではないか。私たちの救いは、条件付き救いになってしまったのだろうか。そもそも主イエスは、この最後の最後に来て、どうして弟子たちを不安に陥れるようなことを語られたのかという疑問を持たれた方もおられるかもしれません。
すでにキリスト・イエスに結ばれている者として、安心していたのに「私につながっていなさい」という命令が語られます。この言葉はつながっていないということ、また枝から離れていく可能性があるということが前提になっています。
ここで「真のぶどうの木」ということについて、考えてみたいと思います。古来イスラエルは「ぶどうの木」とたとえられてきました。詩篇80:9には、「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。」(新共同訳)という言葉があります。イスラエルの民がぶどうの木にたとえられています。またエレミヤ2:21には、「私はあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして私に背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか。」(新共同訳)という言葉があります。ぶどうの栽培は、実に骨の折れる仕事です。かつて私も自分の家の庭にぶどうの木を植えたことがあります。実に外観は立派に実りました。しかし食べてみると美味しくないのです。恐らく土地がよくなかったのだと思います。数年たい肥を施したり、剪定したりしたのですが、結局美味しいぶどうはなりませんでした。最後はその木を抜き、ごみに出さざるをえませんでした。そのように手間暇をかけて主は、イスラエルというぶどうの木を育てようとされたのですが、育ったのは酸っぱいぶどうしか実らなかったというのです。預言者たちはそれでも、彼らこそが「真のぶどうの木」であるのだから、それに相応しい実を結ぶように、主に立ち返ることを求めたのですが、彼らは立ち返りませんでした。主イエスは弟子たちとの別れに際して、「真のぶどうの木は、(他でもない)この私なのだ」と言い切ります。主イエスはここで「真のぶどうの木」は、このように酸っぱいぶどうしか実らせないイスラエルではなく、私こそが「真のぶどうの木」である。他にはないと断言なさるのです。だから「私につながっていなさい」と言われるのです。ここには緊張感が走ります。イスラエルの民は自分こそ神のぶどうの木であると、選民としての肩書の上に安穏としてあぐらをかき、神の意志を求めようとはしませんでした。父なる神は彼らを切り落とさざるをえなかったのです。
同じように主イエスは、あなたがたは確かにぶどうの木の一部ではあるけれども、そこに安穏としてあぐらをかき、惰眠をむさぼっていることはできないと言っておられるのです。だから「私につながっていなさい」という命令が続くのです。ぶどうの枝は一時一時、ぶどうの木につながらなくては、ぶどうの枝でいることはできないのです。このことは今の私たちに対する警告でもあります。私たちは教会に来ているから、キリスト者ではないのです。ルターの言葉の中に、こういう言葉があります。以前にもお話したことがあると思いますが、Der Christ steht nicht im sein sondern im werden. キリスト者というのは(肩書の上に安穏としてあぐらをかいている)状態にあるのではなく、キリスト者になろうとする者である。stehtというのは「立っている」、「在る」という意味です。英語にするとnot in being but in becoming となります。キリスト者というのは、ただ眉間にしわよせて考え込む瞑想的静観にあるのではなく、もっとダイナミックに活動させるもの。タラントンの譬えにある2タラントン、5タラントンを受け取った僕は、「すぐに」「即座に」出て行って、主人の期待に応えようとしたことを思い起こしてください。ここには主人に対する信頼が秘められています。喜びをもって主人から託された使命を果たさんとする姿が描き出されています。しかし1タラントン受け取った僕は、他の僕と比較したり、商売に失敗して失くしてしまったら、自らの尊厳に傷がつくことを恐れて、地中にその1タラントンを隠し、一歩を踏み出そうとはしませんでした。結局この僕の1タラントンは、5タラントンを更に稼いで10タラントンを持つものに渡されてしまった。この主人は失敗した者を受け止めてくれないような心の狭い方ではないのです。何度でもやりなおせるのです。小林稔訳のヨハネ福音書を読みますと、「私のうちにある枝で、実を結ぼうとしないものはすべて、父が刈り取る。」と訳しています。これは私たちが実を結ぼうとする意志があるかどうかという点に焦点を当てた訳になっています。私たちが実を結ぼうとする意志があるかどうかが問われています。私たちがぶどうの木につながっているというのは、自明のこと、既成事実ではないのです。旧讃美歌の中に、「くるあさごとに あさひとともに かみのひかりを 心に受けて 愛のみむねをあらたにさとる」という讃美歌[3]は、このことを歌った讃美歌だと思います。讃美歌21にもありますが、歌いなれたせいか旧讃美歌の詩が私にはしっくりきます。
この実を結ぶというのは、何も目立った業績をあげるということではないことは、私たちよく承知していることだと思います。私たちの為せる奉仕のすべてにおいてです。信仰をもって為すわざは、たとえそれがわらくず1本拾うわざであっても神は喜ばれると言ったのもルターです。
「あなたがたは私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」
長い信仰生活を続けてきた方には、これらの言葉は、決して驚くようなことではないと思います。主イエスから目をそらしたペテロが、ガリラヤ湖でおぼれそうになって主イエスに助けを求めた姿は、大なり小なり経験してこられたことと思います。次に続く言葉もうなずくことはあっても、驚くような言葉ではないと思います。「私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」そんなことにならないように、ぶどうの枝がぶどうの木を離れていくことがないように、弟子たちを残して去って行かざるをえない主イエスが、恵みの言葉を語りながら、同時に命令の言葉を語ります。繰り返し、繰り返し、私につながっているようにと言い含めるのです。主イエスの弟子たちへの熱き思いが伝わってきます。
「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛してきた。私の愛にとどまりなさい。私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた方も、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」
「私につながっていなさい」ということは、「私の愛の内にいなさい」ということ。父なる神が御子イエス・キリストを愛されたように、我らの主イエス・キリストも私たちを愛された。これはその通りなのですが、父なる神は罰すべき者を罰しないではおかない方でした。父なる神が御子イエス・キリストを愛したのは、彼が父なる神の負託に全面的に従ったからです。父なる神の戒めを守り、父なる神の意志に全面的に、十字架の死に至るまで服従されたから父なる神はその御子を愛されたのです。父なる神にとって主イエスは愛すべき者であり、み心に適う者でした。しかし、私たちは主イエス・キリストの戒めを守る者ではありません。日々罪を犯す者、犯さざるを得ない者です。毎週礼拝の冒頭で「私たちはあなたのみ言葉を全き心をもって信ぜず、あなたの戒めを守らなかったのみでなく、み心に背いて罪と過ちとを重ねてきたことをざんげいたします。しかしそれらのすべてを心から悔いて、あなたの恵みをひたすら求め奉ります。どうか今私たちをあわれみ、み子イエス・キリストのあがないのゆえに、私たちの罪と過ちとをすべておゆるしください。そして私たちが深く悔い改めあなたの命に満たされるよう、ゆたかな恵みをお与えください。救い主イエス・キリストによって、お願いいたします。アーメン。」と「懺悔の祈り」を祈ります。
この罪と過ちとを繰り返す私たちに対して、「私の愛にとどまりなさい。」と言われるのです。私たちに「とどまりなさい」ということは、そこに十字架が立てられるということです。本来私たちはぶどうの木につながっているものではありません。「ぶどうの木につながっていない者」です。「外に投げ捨てられて、枯れ、火に投げ入れられて焼かれてしまう者以外ではありません。愛するに値しない者、それを一本一本拾い集め、十字架の血潮によって清め、自分に連なるぶどうの木の枝とされたのです。あなた方はすでに私の愛の内に入れられているのだから、だから「私の愛の内にとどまっていなさい。」「私の荷は軽く負いやすいからである。」といわれるのです。すでに触れてきたように、主イエスの愛の内にいるということは、安穏としてあぐらをかき、惰眠をむさぼっていられる状況ではないのです。教会に通いながらも、聖書も開かないような生活をしているなら、聖霊は主イエスが語られた言葉を思い起こさせることも、その意味を悟らせることもできないのです。父なる神がその枝を取り除かれるでしょう。しかし私たちは父なる神が切り落とす前に、私たち自身が連なっている枝を切り落としていることに気づくべきです。イスカリオッテのユダも同じです。主イエスが弟子たちの足を洗った時、ユダもまだその中にいたのです。最初は彼もイスラエルをローマの支配から解放してくれるのはこの人だと、他の弟子たちと同じように望みをかけていたのでしょう。しかし、頭脳明晰で先見の明のあったユダは、事態が緊迫の度を増すにしたがって、この船から降りる決意を固めたのでしょう。或いはこの船の危うさを敏感に感じ取り、二股をかけて成り行きを見守ろうとしたのでしょうか。主イエスが引導を渡す前に、すでに彼が自分のために差し出されていた枝を切り落としていたのです。
最後にまた驚くような言葉が主イエスから発せられます。「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。」(ヨハネ福音書12~15)
厳しい言葉が語られています。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」友のために自分の命を捨てることが、果たしてこの罪深き自分にできるのだろうかという思いが湧いてきます。私たちは自分の中に決して捨てることのできない核のようなものを持っています。自己愛と言い換えることが出来るかもしれません。神を愛することさえ、神のためにしないで、自分のためにする。神をさえ利用して自己と自己のものを求めるという核を私たちは有しています。更に言い換えるなら、原罪と言い換えることができるかもしれません。しかし、主イエスはこのような核を有する私たちを「友」と呼ばれるのです。そしてこの「友」の罪の贖いとして、ご自身を捧げられ、ご自身の義をもって我らを包まれたのです。この核から私たちが完全に解放されるのは、死において実現されること。しかし同時に「死こそ神の仕事場である」と言ったのもルターです。私たちが互いに愛し合う愛は、極めて不完全なもの、不十分なもの、欠けるところの多きものでしかありません。しかしこの不完全で、不十分な愛も、信仰をもってなされる時、私たちのために十字架の死を忍ばれた方の愛を指し示すことはできるのです。それは私たちが主の友として、主が何をしているかを教えられた者として、十字架の愛を指し示すことはできるのです。私たちはこの地上にある限り、「罪人にして、同時に義人である」ということに甘んじなければならない。しかし、この罪深き者が同時に義人とされていることに感謝しながら、「あがないの日」を待ち望みつつ生かされていることに感謝をしたいと思います。
私たちはこの原罪ともいうべき核を自分の内に有しながらも、十字架の贖いに励まされながら、今週の歩みを進めて参りたいと思います。
[3][3] 旧讃美歌23番 讃美歌21 210番
(2023年6月25日 聖日礼拝)