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信仰による生涯(2021年10月3日 主日礼拝)

台風16号通過後の青天(2021年10月2日)
字は関口牧師が書きました(2021年10月2日)
 
讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を 奏楽・長井志保乃さん


「信仰による生涯」

ヘブライ人への手紙11章13~16節

関口 康

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」

9月末をもって政府の緊急事態宣言が全面的に取り下げられ、すべて終わったかのような空気が蔓延している感があります。しかしそれこそ蔓延防止対策が必要ではないかとかえって警戒心を抱きながらの3日目を、私自身は迎えています。

もっとも私は、現時点においては、週に4日は電車やバスに長時間乗って学校で教える働きをさせていただいている関係上、首都圏の現状を肌感覚で知らずにはいないつもりです。

そのような中で、わたしたちの教会が、9月から礼拝堂での礼拝を再開し、みんなで集まることをしてきたのは良かったと私は考えています。礼拝出席者は以前と同じか、少し多くなってきているようにも感じます。

今教えている高校で一昨日したばかりの話ですが、「教会」はギリシア語で「エクレーシア」と言い、「集会」とか「集まり」という意味です。これは教科書の言葉です。さらに次のように書かれています。「個人の家や公共の建物、時には野外で、イエス・キリストの名のもとに集まり、祈りや礼拝がささげられ、継続的な集会を持っている共同体はすべて、礼拝堂があってもなくても教会と言います」(キリスト教学校教育同盟編『キリスト教入門』創元社、2015年、36ページ)。

この教科書の著者が強調しようとしている点は明白です。「教会」(エクレーシア)とは、人が集まることそれ自体であり、集会そのものであり、集まる人を指すのであって、建物を指すのではないということです。建物としての「礼拝堂」は英語でチャペル(chapel)と言うが、「教会」はチャーチ(church)と言う、という説明まであります。

わたしたち自身が判断して行ったことを否定するつもりはありません。しかし、「各自自宅礼拝」がエクレーシア(教会)かどうかは、よく考えるべき課題です。インターネットの「オンライン礼拝」はエクレーシア(教会)かどうかの問題も同様です。団体を維持できるかどうかの問題ではありません。わたしたちの心の問題、信仰の問題です。独りでいることの寂しさの中で、心の支えを失うことの恐怖のほうが、他のどの恐怖よりも人を苦しめる場合が実際にあります。

今日開いていただいた新約聖書のヘブライ人への手紙は、昨年(2020年)6月28日の礼拝でも取り上げてお話ししたことを、記録で確認しました。そのときも申し上げましたが、この手紙が書かれた年代は西暦1世紀の終わり頃、80年代から90年代だろうと聖書学者が判断しています。つまり、イエス・キリストの死と復活、そして聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を通して地上に「教会」(エクレーシア)が生み出された西暦30年代から50年ないし60年の年月が経過した頃にヘブライ人への手紙が書かれたと考えることができます。

「ヘブライ人」とはユダヤ人のことです。イスラエル人と言っても意味は同じです。西暦1世紀のユダヤ人の中からイエス・キリストを信じて生きる人々の集まりとしての「教会」がいわば分かれ出た関係にあることは、歴史的な説明としては正しいと言えます。しかし、ユダヤ人以外の人々の目から見れば、ユダヤ教とキリスト教のどこがどう違うのかをはっきり区別できるほどの差はまだ無かったかもしれません。そのような時代に書かれた書物です。

昨年6月にこの手紙についてお話ししたときは12章18節から29節までを取り上げましたが、今日は11章13節から16節までです。しかし、この手紙の11章から12章にかけて書かれている内容は一貫しています。わたしたちがそう呼ぶところの「旧約聖書」を要約しています。「わたしたちがそう呼ぶ」とお断りするのはユダヤ教にとっては「新約聖書」は聖書ではなく、キリスト教会が「旧約聖書」と呼ぶ書物こそ、ユダヤ教の「聖書」だからです。

その意味では、ヘブライ人にとっての「聖書」全体を見通して、その中に登場する人々のことを思い起こし、そのひとりひとりの信仰と生きざまを思い起こしなさいと呼びかけているのが、今日わたしたちが開いている箇所の趣旨であると言えます。

なぜこの箇所にそのようなことが書かれ、そのような呼びかけがなされているのかについては、歴史的な文脈があると考えることができます。それは、西暦60年代から70年代にかけて、当時のユダヤを支配していたローマ帝国との間に大きな戦争があったことです。エルサレム神殿は破壊され、さらにその後の西暦135年にも決定的な戦争があり、ユダヤ人が完全に国土を失う事態になったことです。この手紙が書かれたのは、その戦争の最中だったということです。

そのような状況や情景を想像しながら、今日の箇所の特に13節に記された言葉の意味を考えるのは意義深いことです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」の「この人たち」は、最初の人間として聖書に登場するアダムとエバの2人の子どものひとりであるアベルから始まります。アベル、エノク、ノア、そしてアブラハム、イサク、ヤコブです。この人たちは「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表しました」と記されています。

彼らのどこが「よそ者」であり「仮住まいの者」なのかといえば、特にアブラハムが象徴的な存在ですが、実際に彼らが「遊牧民」だったという事実を考えることができます。文字どおりの移動生活者です。多くの家畜を飼いながらチグリス・ユーフラテスの2つの大きな川に挟まれたメソポタミア地方から、今のパレスティナを経由してナイル川流域のエジプト地方までをつなぐ「肥沃な三日月地帯」を西へ東へ移動していた遊牧民が、彼ら自身の先祖の姿です。

ヘブライ人への手紙の著者が、いにしえの遊牧民たちの姿を思い起こすことを西暦1世紀末の教会に呼びかけているのは、戦争によって神殿を失い、国土すら失いつつあったユダヤ人たちに対する希望と励ましのメッセージだったと考えることができます。

実は私もそうなのですが、移動生活者にとっては、愛着を抱くことができる礼拝堂(チャペル)はありません。神殿もありません。しかし信仰があり、礼拝があり、集会(エクレーシア)がありました。だからこそ、希望があり、喜びがあり、苦難に堪えて生きる勇気の源泉があったのです。

わたしたちはどうでしょうか。幸いなことに、昭島教会には立派な礼拝堂があります。「教会といえば建物のことを指す」と言う人がいても、完全な間違いであるとは言えません。逆に、この建物に集まって行う礼拝以外は教会の正規の礼拝とは言えない、とも言えません。しかし、大事なことは、集まること自体です。エクレーシア(集会)としての教会であるかどうかです。独りで孤立していないかどうかです。信仰の仲間と共に生きているという実感があるかどうかです。

(2021年10月3日 主日礼拝)

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