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教会と政治(2021年10月10日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 443番 冠も天の座も 奏楽・長井志保乃さん

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「教会と政治」

ローマの信徒への手紙13章1~10節

関口 康

「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

今日の宣教題を「教会と政治」としたのは、今日の朗読箇所の最初に「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(1節)と記されている中の「上に立つ権威」は「国家」、あるいは一般社会的な意味での「政治的支配者」を指しているというのが、この箇所の伝統的な理解だからです。

続く箇所に「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう」(3節)とか、「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」(4節)とか「あなたがたが貢を納めているのもそのためです」(6節)とか、「貢を覚めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(7節)と記されています。

いま一気に言いました。これは武器で悪人を取り締まる警察の存在や、税金で社会を整備する国家や政治を指しているということが、少しあるいはかなり分かりにくい書き方ではありますが、たしかに記されているということを確認したいと願うからです。

分かりにくいと申し上げたひとつの理由は、「国家」や「政治」とはっきりとは記されていないからです。その代わりに「支配者」や「権威者」と記されています。しかし、分かりにくい理由はそれだけではありません。

もっと分かりにくいのは、この箇所で「支配者」ないし「権威者」と呼ばれている存在が「神に由来しない権威はない」とか「すべて神によって立てられたもの」(1節)であるとか「神の定め」(2節)であるとか、「権威者は神に仕える者」(4節、6節)であるとか記されているところです。

これはキリスト教国の話でしょうか。いや、いくらなんでもローマの信徒への手紙が書かれた頃にキリスト教国は存在しない。ユダヤのことか。いや待て。この時代のキリスト教会はユダヤ教徒から迫害されていた。まるで手放しに彼らに従うべきだと言い出すのは考えにくい。当時のユダヤを支配していたローマ帝国のことか。ローマ帝国は神が立てたものであるとパウロが本気で言うだろうか。もしそうならそれは一体何を意味するのだろうと考え込んでしまうことになるからです。

「そうではない。これは教会のことを指している。神に由来する権威とは教会だ。それ以外は考えられない」と言いたいかもしれません。しかし、教会が剣で悪人を取り締まるでしょうか。貢や税を要求するでしょうか。そのほうがよほどおかしなことを言っていることになるでしょう。

結論を言えば、これは教会ではありません。やはり、国家ないし一般社会的な意味での政治のことです。王国の場合は王とその家来たちです。民主的な国の場合は「国民が主権者である」ということになるかもしれませんが、選挙で選ぶにせよ、とにかく国家権力や警察権力を委託した相手のことです。教会が武器を持つことはないし、税金を集めることはありません。そういうことをするなら、それは教会ではありません。

私は自分がよく知らないことについては、言わないようにしているつもりです。しかし、気になるのはカトリック教会の存在です。総本山のバチカンは独立国家です。軍隊は無いそうです。警察は永世中立国であるスイスからの傭兵が担当するそうです。それでも、バチカンが国であるという事実に変わりありません。しかし、同時に教会でもあるでしょう。

パウロが書いているのは、現代のバチカン市国のことでしょうか。要するにローマ教皇の権威に従うべきだという意味でしょうか。そうではないということを、「わたしたちはプロテスタントだから」という理由からではなく、別の理由から申し上げる必要があると私は考えます。

分かりやすく説明するのは難しいです。申し上げたいのは、この箇所の「神に由来する権威」は現代のバチカンではない、ということです。キリスト教国に限定される意味でもありません。

そうではなく、教会とは区別される別の存在としての一般社会的な意味での国家であり、政治のことです。それは西暦1世紀のパウロをとりまく社会そのものです。キリスト教会を容赦なく迫害してくる強大な国家権力です。一方にユダヤの王とその家来、他方にローマ帝国。その両者からキリスト教会は迫害を受け、死に至らしめられました。

しかし、そのようなキリスト教会の敵対者を指して、パウロが「神に由来する権威」と呼び、「神によって立てられた権威」と書いていることに、わたしたちは大いに驚くべきです。

納得できない方がおられるでしょう。今のわたしたちでいえば、この日本の政治家や警察官、さらに天皇の存在を考えざるをえなくなるからです。あの人々が一体どの意味で「神に由来する権威」なのか全く理解に苦しむと思われる方がおられるでしょう。

納得できないとおっしゃる方にどう説明すればよいか迷うばかりです。しかし、そういう場合は逆のことを考えてみるとよいかもしれません。わたしたちが納得できる存在になるまでは国家権力や警察に従う必要はなく、税金を納める必要もないと考えてよいかどうかです。その理屈が成り立たないことは、だれでも分かります。しかし、問題はどのように説明するかです。

これを「パウロの信仰」と呼ぶべきかどうかは疑問です。私は「聖書の教え」と言いたいです。それは、「神」への「信仰」があるかどうかにかかわらず、一般社会的な意味での政治ないし国家による統治が、人間同士が争い合い、殺し合うのを防ぐために必要であることを神さまがお考えになり、人間社会にそのような制度を神さまが作られたということです。

神は無政府主義者ではありません。神は人間を政治的な存在に造られた、とも言えるでしょう。人間である以上、愛し合い、助け合うことにおいても司法・律法・行政のような政治機構が必要であるということです。無秩序の中では人間同士の愛は成立しない、ということです。

信仰の有無は関係ありません。ひとつの国が「神を信じない人は追放されなければならない」と言うならば、それは国ではありません。宗教団体です。しかも悪い宗教団体です。

家族も同じです。「神を信じない家族には生活費も食事も与えない」と言い出すなら、家族でもなんでもなく、凶悪な宗教団体です。「クリスチャンホームだから」は理由になりません。それは虐待であり、犯罪です。信仰の衣を着た狼です。その手のとんでもないたぐいを取り締まるために、神さまは教会とは別の権威をお立てになりました。そのように考えることができます。

イエスさまがおっしゃったではありませんか、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)と。神さまは、その人が信仰を持っているかどうかに関係なく、すべての人の命と生活を守ってくださいます。そしてそうするために、神さま御自身が、国の存在とその中で営まれる政治を要求されるのです。

(2021年10月10日 主日礼拝)

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