スキップしてメイン コンテンツに移動

漁師を弟子にする(2022年1月16日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 7番 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

週報(第3603号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「漁師を弟子にする」

マルコによる福音書1章16~20節

関口 康

「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」

昨年11月7日の昭島教会創立69周年記念礼拝のときから申し上げているのは、今年(2022年)は「70周年」であるということです。今年11月6日に70周年記念礼拝を行います。みんな元気にその日を迎えようではありませんか。

「70年」ということで聖書の中身と関係あるのは何かと考えてみました。すぐ思い出したのはバビロン捕囚ですが、教会生活をバビロン捕囚にたとえるのは、直感的に言えばかなり違和感が私にはあります。私たちは教会に囚われているわけではありません。しかし視点を換えて考えれば全く当てはまらないとも言えません。

バビロン捕囚とは、イスラエル人が新バビロニア帝国との戦争に負けて自分たちの独立した国を失い、捕囚の民として70年の歳月をバビロンで過ごした出来事を指します。捕囚の地において、細々とではあっても信仰を守り続け、解放後パレスティナに戻ってエルサレム神殿の再建に着手するまでの彼らの70年は信仰と忍耐が試された年月です。

70年前に大人だった人たちはほとんど天の御国に召され、70年前はまだ子どもだった人たちや、その後生まれた子どもたちが信仰と忍耐を受け継ぐ歴史。そのイスラエルの人たちの姿は、そのまま今のわたしたちであると言えるのではないでしょうか。

しかし、教会の歩みや、わたしたちひとりひとりの個人的な信仰者としての歩みは、長く受け継がれてきたことをただ繰り返すだけ、何も変えずにただ受け継ぐだけではないし、我慢比べをしているわけでもありません。改革すべきことは改革すべきです。

そのことを考えて、私は年頭から繰り返し「新しいことを始めましょう」と申し上げています。さっそくひとつ新しいことが始まります。今日の週報で初めて情報公開しました。秋場治憲さんを今年4月から本教会の伝道師として招聘することを役員会として承認し、2月27日に予定している教会総会に提案することにいたしました。

秋場さんのことは秋場さんご自身がお語りになるべきですが、客観的事実については、私からご紹介させていただきます。秋場さんは41年前の1981年に、日本キリスト教団補教師検定試験に合格されましたが、補教師登録をされませんでした。しかし、このたび補教師に登録することを決心されました。昭島教会を助けてくださるためです。尊いお志に心から感謝いたします。

牧師、伝道師の異動の件は教会総会の取扱事項ですので、現時点ではまだ正式な決定であるとは言えません。しかし、現在の役員であられる秋場治憲さんとわたしたちは水臭い関係では全くありませんので、皆さんに喜んでいただきたく謹んでご報告いたします。

さて、今日の聖書の箇所です。イエスさまが神の国の福音を多くの人に宣べ伝える宣教活動を開始されるにあたり、イエスさまと共に働く人をお求めになりました。聖書においてその人々はイエスさまとの関係上「弟子」と呼ばれています。弟子たちは、イエスさまに「従う」関係です。だからといって、イエスさまと弟子たちの関係は軍隊式の上下関係ではありません。水平の関係です。協力者です。パートナーと言うと別の意味になるかもしれません。表現は難しいです。

「軍隊式ではない」と強調して申し上げるのは、当時のユダヤ教の指導者やローマ帝国の軍人とユダヤの民衆との関係と、イエスさまと弟子の関係とが大差ないようなものだったとすれば、彼らが「救い」を感じることはなかっただろうと思うからです。

イエスさまがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っておられるのをご覧になりました。彼らは漁師でした。そこでイエスさまは、その二人に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。

イエスさまが彼らを「ご覧になった」(16節)と訳されている言葉に深い意味があるかどうかが気になりました。調べてみたらいろんな意味がありました。目で見る、心を向ける、注意する、理解する、経験する、訪問する、面会するなどの意味が含まれていることが分かりました。

そのことが気になったのは、ただ見えた、視野に入った、ぼんやり見た、ということだけではなく、じっと見る、注意深く観察するというような意味があるかどうかを知りたいと思いました。結論を言えば、それくらいの意味があると考えることができます。それが分かって安心しました。イエスさまにとって、彼らを弟子にしたのは手当たり次第で、実はだれでも良かったのだというような感覚とは違うのではないかと思うからです。

イエスさまが彼らを「ご覧になった」のは、マルコによる福音書では、彼らが漁をする姿です。ルカによる福音書では、ひと晩漁をしても何もとれずに落胆して陸に戻り、網を洗って片付けていた彼らの姿をイエスさまがご覧になっています。とにかくそのような彼らの「漁師としての」姿をイエスさまが、ただ見た、視野に入った、ぼんやり眺めたというのではなく、じっと見る、観察するという姿勢で、まさに「ご覧になった」のではないかと私には思われるのです。

それは、彼らが真面目に仕事をしているかどうか、というようなことが含まれている可能性は否定できません。それも大事なことです。しかし、そういうことよりもむしろイエスさまが関心をお持ちになったのは、漁師たちが漁をするその仕事内容や動作や、それに必要な技能は何かというようなことです。収穫が無かったときの心の動きや、その場合の生活のあり方までも含めて、イエスさまは「漁師としての」彼らをじっと観察されたのです。だからこそ、イエスさまは彼らに「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃったのです。

言い方を換えれば、「漁師として」身につけた技能が、そのまま福音を宣べ伝える伝道の働きに役立つということです。それが、イエスさまが彼らにおっしゃった「人間をとる漁師にしよう」の意味です。イエスさまは人間を「魚」呼ばわりなさったわけではありません。趣旨は逆です。漁師として身につけたその技能を伝道のために活かしなさいということです。

もちろん漁師だけではありません。会社や役所や学校で働く人が、それぞれの場で身につけた技能が、そのまま伝道に役立つということです。伝道者になるために必要なことは、極端に特殊なことでも何でもなく、日常生活で必要な普通の営みを身につけることや、社会での働きの中で徹底的に鍛えられる技能の延長線上にある、ということです。

ただし、教会は軍隊式ではありません。その点だけ間違えなければ、すべての社会的な技能が伝道に役立ちます。「社会のルールを教会に持ち込むこと」の弊害がもしあるとしたら、軍隊式が持ち込まれてしまうときです。教会を教会でないものにしてしまいますので気をつけましょう。

もうひとつ、そして最も大事なことは、「伝道者」は教職者だけではないということです。教会のみんなが「伝道者」です。役員、運営委員として伝道の働きを担うこともできます。

みんなで一致協力して、昭島教会の「これからの」歴史を築いていこうではありませんか。

(2022年1月16日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で