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最初の者、最後の者(2022年1月30日 聖日礼拝)

宣教「最初の者、最後の者」秋場治憲さん(昭島教会会員)
   
讃美歌21 289番 みどりもふかき 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「最初の者、最後の者」

マタイによる福音書20章1~16節

昭島教会 秋葉治憲兄

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」

前回東からきた博士たちがはるばる星を頼りにやってきて、御子イエスの誕生を祝ったばかかりですが、今日のテキストは主イエスがガリラヤでの活動を終え、いよいよエルサレムへ向かう途上で語られたお話の一つです。19章の1節にはそのことを説明している一句があります。「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川のむこう側のユダヤ地方に行かれた。」ユダヤ地方というのはエルサレムに向かったということです。ガリラヤを出てエリコ を経由してエルサレムへむかうというのです 。御子(メシア)の誕生の知らせを聞いても誰一人として、博士たちと行動を共にしたものがいなかった町、十字架の待つエルサレムへと向かいます。言葉をかえれば最後の道行であり、その途上で語られたことは主イエスの遺言とも言えるものです。

その途上で語られたお話の一つ「ぶどう園の労働者」のたとえを詳しく読んでみたいと思います。このお話も誰もが知っているお話であり、私たちにとても馴染みのある分かりやすいお話です。特別な解説がなくてもいいとさえ思えるお話です。

1.「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人 が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2.主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3.また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4.『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう。』と言った。5.それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと、三時ごろにまた出ていき、同じようにした。6.五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7.彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。』と言った。」
8.夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを読んで、最後に来た者から始めて、最初に来たものまで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9.そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10.最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11.それで受け取ると、主人に不平を言った。12.『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13.主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。14.自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15.自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも私の気前のよさをねたむのか。』16.このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

一読して分かることは、これはその日の職を求めて、雇ってくれる主人を探すために広場に集まってきた労働者とある主人の物語だということです。ここに集まってきた人たちは、日雇い労働者であるということが分かります。そして、よく読んでみると主人が一日一デナリオンの契約をしたのは、夜明けと同時に雇った最初の人たちだけということが分かります。一デナリオンというのは、一日の平均賃金で生活する上でギリギリの額だったようです。日雇い労働者が職にありつけなかった日は、翌日家族を養う食事にも困ったということです。夕方五時頃、最早その日職にありつくことなど絶望的な状況の中で、なお雇ってくれる主人を見つけられず、広場で待ち続けていた人たちにとっても切実な問題だったことが伝わってきます。モーセの律法にも「雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。 」と定められていました。夜明けと同時にというのですから、おそらく朝の六時か七時頃でしょう。九時、十二時、三時、五時に雇われた人たちは、「ふさわしい賃金を払ってやろう」という主人の言葉に信頼して、ぶどう園に向かっています。

夕方になって主人は賃金を支払う際に監督に、「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と命じます。そして朝から
11~12時間暑い中を辛抱して働いた者たちも、夕方涼しくなってから一時間しか働かなかった者たちも等しく一デナリオンを受け取った、というのです。当然のことながら朝から働いた者たちから不満の声が上がりました。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」と。彼らの言い分は、報酬は労働量に比例して支払われるべきだ、それが「公平」というものだ、というのです。それに対して主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。」と言う。主人は約束通りに支払ったのだから、何も不正はしていないというのです。では何が問題なのか。<主人の気前のよさ>である。「私は最後に来たこの者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」というのです。五時に来た者は、一時間、三時に来た者は三時間しか働いていないのに、十一時間朝から暑い中を辛抱して働いた者と同じ支払いを受けたというのです。私たちが持っているものさしと主人の持っている物差しが、違っているということに気づかされます。もし朝から働いた者の言うように、労働時間に比例して支払うなら、そこには差別が生まれます。差別は差別を生み、益々その格差を広げて行きます。私たちの現実社会はその真っ只中にあります。主イエスの時代も、まさにそのような時代でした。

遅れてきた者たちへの支払いは、まったく主人の意向次第です。。報酬は労働量によって決まるのではなく、主人の意向によって、神による恵みによって決められるというのです。契約を結んで働いた者たちをユダヤ人、遅れて来て働いた者たちを異邦人とする解釈もあります。契約によって働いた者たちにとっては、報酬は自分たちの権利です。与えられて当然のもの。ここには一日働くことができたこと、正当な支払いがなされたこと、その日の生活費が与えられたことに対する喜びも感謝もありません。私たちはその代表的な例として、放蕩息子の兄 を思い起こします。

契約によらない者たちにとっては、報酬は主人の意向次第。彼らは当然一デナリオンが支払われるとは予期していなかったでしょう。それに対して主人の「私はこの最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ。」という言葉は、彼らにとって驚きであり、感謝であり、喜びであったことでしょう。彼らはこの主人の言葉を、全くの恵みとして受け入れることができたのです。そして彼らは神に感謝と讃美を捧げながら、家族の待つ家路を急いだことでしょう。信仰とは獲得するものではなく、与えられるものという真理がここにあります。ぶどう園の労働者たちが受け取った報酬は、全員が一デナリオンで同額です。しかしその同額の報酬に対して朝から働いた者たちは、自分たちの当然の権利として、また他者との比較によって不満に満たされて帰宅したのに対し、九時以降に雇われた人たちは、「私はこの最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ。」という主人の言葉に感謝し、喜びに満たされて帰宅したことでしょう。主人を信頼してぶどう園に向かった労働者たちは、半信半疑だったと思います。私たちの信仰の始まりは、こんなものだったのではないでしょうか。こんな時間から働いても、一体いくら支払ってくれるのか。最後に来た者たちも半信半疑だったはずです。しかし、この最後の者に一デナリオン支払われた時、彼の主人への半信半疑の信頼は、確信に変えられたのです。信仰の確かさは、「とらえている」ことの確かさではなく、「とらえられている」ことの確かさなのです。

私はここに、この主人の言葉に、信仰の確かさがあり、神の確かさがある、と思うのです。「私は最後に来たこの者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という言葉は、金文字で書かれるべき言葉と言っても過言ではない言葉です。

私たちは時として、「あなたは本当に信じているのですか?」と問われることがあります。人に問われなくても、自分自身で自問することがあります。問われた時は、一瞬、私たちは言葉に詰まります。そして自分自身の信仰を省みて、「本当に信じています」とは断言できない自分を見出し、まだ駄目だ、まだ駄目だと思い悩み、葛藤するのではないでしょうか。この時私たちは主イエス・キリストを忘れてはいないでしょうか。私たちの中には滅びしかないのです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と聖書が断言しています。だからこそ父なる神は、御子イエス・キリストを私たちの所へ遣わされたのです。イエス・キリストを信じるとは、義ならざるものを義とし、不信仰な者を丸ごと受け入れて、贖われた方を受け入れるということだからです。マルコ福音書に悪霊に取りつかれた息子をイエスのもとへ連れてきた父親が、「信じます。信仰のない私をお助けください。 」(新共同訳)と語っています。私たちが信じるのは、信仰のない私たちを受け入れ、贖い、義とされる方を信じる(受け入れる)ということなのです。

パウロがローマ人への手紙4:5にまさにこのことを「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」と述べています。私たちの信仰は不信仰な者をそのまま、丸ごと引き受けて下さる方を受け入れることなのです。この方がベツレヘムにお生まれになったという知らせを聞かされたばかりです。私たちはいつしかこの方を忘れて、直接父なる神に近づこうとしていることはないでしょうか。

少々専門的なことになりますが、マタイは1節の「ある家の主人、」という言葉を、8節では「ぶどう園の主人」と言いかえています。「ぶどう園」は古来よりイスラエルの神が働かれる場 とされてきました。前頁の注2で解説しましたが、家の主人というギリシャ語(オイコデスポテース)は、一家の主人、所有者という意味合いが強いのに対して、8節の「ぶどう園の主人」というギリシャ語は、キュリオス(主)という言葉が使われています。マタイはこの言葉キュリオスに変えることによって、「イスラエルの神」が異邦人も含めた「万人の神」であることを示唆しています。この譬がただにユダヤ人に対する教えにとどまらず、教会のあるべき姿をも示唆しています。マタイという人が所属していた教会は、アンテオケの教会 とも言われています。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在していた教会であり、マタイは旧約聖書の預言がイエス・キリストにおいて実現したこと、旧約の律法はこの人において完成されたこと、そして主イエスの神の国は、ユダヤ教の枠(律法)を超えて万人にとっての神の国であり、主イエス・キリストは、すべての人にとっての主(救い主)であることを、このキュリオス(主)という言葉が指し示しています。新しい時代が到来したことを指し示しています。主イエスも「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。 」(口語訳)とユダヤの民族宗教からの脱皮を宣言しています。

ここでそもそも主イエスはどうしてこの譬を語りだしたのか、ということに目を向けてみたいと思います。そのきっかけとなったのは、直前にある「金持ちの青年」とのやりとりとそれに続くペテロとのやりとりに起因しています。
ある金持ちの青年はイエスに、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいかと尋ねます。イエスは十戒にある掟を守るようにと答えますが、彼はそれらはすべて守ってきた、まだ何か欠けていますかと問い返します。この青年は自身満々です。おそらく「あなたには何も欠けるものがない」と太鼓判を押してもらいたかったのでしょう。しかし、主イエスは持ち物を売り払い、貧しい者たちに施し、自分に従ってくるようにと伝えますが、彼は悲しみながら立ち去ります。このことに対して主イエスは、「金持ち が天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。弟子たちはこれを聞いて、とても驚きました。なぜなら当時一般に流布していた考え方は、富は神による祝福の証であり、貧しさは神の罰の結果と考えられていたからです。

イエスの言葉に対して、ペテロが反応します。「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたにしたがって参りました。では 、私たちは何をいただけるのでしょうか。」という質問をしています。何もかも捨てたというペテロにとっても、報酬が問題なのです。主イエスは「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。 」という言葉で結び、「ぶどう園の労働者」の譬を語り出しています。

このペテロに対して「ぶどう園の労働者」の譬で、主イエスがペテロに対して言わんとしていることは、決して何かを<捨てたこと>が功績として救いを約束するものではなく、神の自由な恵みによってなされることを伝えようとしているのです。神が神として自由に働かれると言われると、私たちは不安にさえなります。しかしその神の自由は、「私はこの最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ。」という言葉によって裏打ちされていることが教えられています。11時間働いた者も、1時間しか働かなかった者も同額の報酬を受け取る譬によってそのことを示そうとされたのです。ペテロはすべてを捨ててあなたに従いましたと言うけれども、そのことによって新たな報酬を求めるペテロは、実は何も捨てていないのです。自分の利益が最終的な目標になっているのは金持ちの青年と何も変わるところがないからです。

 あれをしたら、これをしたら神の国が、その門戸を開くというのではなく、全く神の自由な恵みの意思によることをペテロに伝えようとしているのです。私たちの救いは、全面的に神の御手のうちにあります。ヨーロッパのお城を思い起こしてみて下さい。跳ね橋が上がっていると、外から中へ入ることは出来ません。中に入ることができるのは、この跳ね橋が降ろされた時です。クリスマスにはこの跳ね橋が降ろされて、神の子羊が私たちのもとへ遣わされたのです。繰り返しになりますが、この神の自由な恵みは、「私は最後に来たこの者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という言葉によって裏打ちされているということは、私たちの信仰を大いに励まし、そして勇気づけてくれます。「神の自由な恵み」というのは、実に気前がいいのです。この気前の良さが、自分で獲得しようとしている者にとっては、妬ましくさえ思われるのです。

そう思って今一度聖書の言葉に目を落とすと、この主人一日に五回も仕事にあぶれている労働者を探して出かけて行って、その都度見つけた労働者たちを自分のぶどう園に送っています。いなくなった一匹の羊を求めて谷底まで探して歩く羊飼いの姿が重なります。五時という時間は、もう労働者を雇うことが意味を持たない時間です。しかし、この主人にとっては、夜明けと同時に雇った人々と同じ価値を持つのです。

 最後に15節の「それとも、私の気前の良さをねたむのか。」という言葉に注目してみたいと思います。ある注解者はこの原文を文字通りに訳すと、「それとも私が アガトス(良い・善・完全) であることが、あなたには ポネーロス(邪悪) とみえるのか。」となる。アガトス は「良い」とか「善」と訳すこともできるが、辞書には「完全」という意味もあることを指摘しています。つまり「私が完全であることが、あなたの目には邪悪と映るのか。」と訳すことも出来るというのです。そうすると神は最初の者たちだけでなく、最後の者たちにも「全き」者であろうとされる、という意味になります。この土台は既に据えられているのです。私たちがこれから苦労して、この土台を据えるのではありません。既に据えられたことを、私たちは感謝し、クリスマスを祝ったばかりです。「私は最後に来たこの者にも、同じように支払ってやりたいのだ」という言葉を繰り返し反芻してみて下さい。私たちの肩の重荷が取り去られ、心が軽くなる経験をするのではないかと思います。

最後に来た者たちの心の動きについては、聖書は何も触れていません。それは私たちたちも含めて、受け取った者にしか分からないことかもしれません。しかし、彼らはこの一デナリオンを全くの恵みとして受け入れることができたのです。そして彼らはこの一デナリオンの恩義、慈しみに、何とか報いようとすることでしょう。

    主はいのちを与えませリ
    主は血潮を流しませり
    その死によりてぞ、我は生きる
    われ何をなして主に報いし

という讃美歌 が聞こえてこないでしょうか。 神はその独り子を差し出して、犠牲にしてでも、私たちをご自身のもとへ引き寄せようとされたということです。それほど大きな愛で私たちを救おうとされたというのです。

自分は独りぼっちだ、世の中は不公平だという思いに襲われることもあります。自分が生きていることの価値を見出せない、何の喜びもない、という思いに襲われることもあります。今年の1月19日の朝日新聞の天声人語にスヌーピーの「配られたカードで勝負するしかないのさ・・・」という名言が引用されていました。読まれた方もおられると思います。確かに名言です。人は誰しも自分に配られたカードで、勝負するしかないのです。確かにこの言葉は私たちをして前に進ましめる言葉です。他に術はないのだ、というのです。しかし聖書の世界は、他に術はないから、仕方なくという世界ではなく、喜び勇んで進み行く、もっと積極的な意味合いを持っています。「私はこの最後に来た者にも、朝から働いたものと同じように扱ってやりたいのだ。」と言ってくださる方が、我らと共におられるというのです。私たちが主体で神はその信仰の対象であったはずの信仰が、いつのまにか神が主体となって私たちを導いていることに気づきましたでしょうか。私たちが神をとらえているのではなく、神が私たちをとらえて導こうとされているのです。この最後に来たこの者を離してなるものか、という思いが伝わってこないでしょうか。

よみがえったイエスにすがりつこうとするマリアには「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから 」と言った主イエスが、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、またこの手をそのわき腹に入れて見なければ、私は決して信じない。」と信仰から離れていこうとするトマスには、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。」と言う。「父のもとへ上って」いくことを返上してでも、今この弟子を離してなるものかという思いが伝わってこないでしょうか。

この方の下で私たちは、自分に配られたカードを、自分に与えられた人生を受け入れる勇気が与えられるのです。しかもそこには、喜びがあり、感謝があります。神を讃美する信仰が与えられていることに、私たち自身が驚かされるのではないでしょうか。「最早われ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり 」(文語訳)とは、こういうことを述べた言葉だと思うのです。

祈ります。
 
恵み深き父なる神様
私たちの周りは依然として新型コロナウイルスが、猛威を振るっています。
病床の準備が追いつかず、自宅療養を余儀なくされています。子供たちまでもが、その脅威にさらされています。一日も早い終息を切に祈ります。

あなたを救い主と信ずる多くの兄弟姉妹たちが、自宅礼拝を守っています。今日の御言葉に託された福音が、聖霊のシンフォニーとなって豊かにとどけられますように。

今日のこの聖日、世界中で捧げられている礼拝の上に、あなたの豊かな祝福がありますように。主イエス・キリストの御名によって、御前にいのります。アーメン
  
(2022年1月30日 聖日礼拝)

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