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受胎告知(2022年12月18日 待降節礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 175番 わが心は
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん


「受胎告知」

秋場治憲

ルカによる福音書1章26~38節

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った。」 

 先ほど歌った讃美歌175番は、「マリアの賛歌」として、とても有名な讃美歌です。ルカ福音書の1:46~56に記されていますが、そのマリアの賛歌に曲をつけたものです。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」という言葉で始まっています。今日のテキストのすぐ後に続いています。讃美歌21は174番から179番まで「マリアの賛歌」になっています。176番と177番はラテン語の言葉がそのまま使われています。少しラテン語(ウルガータ聖書)の文言は、以下のようになっています[1]

47, Magnificat(崇める、称賛する 現在形)anima (心、魂)mea(私の)Dominum(主を)et exultavit(躍り上がって喜んだ、狂喜した) spiritus meus(私の霊は) in Deo(神において) salutari(救いの) meo(私の)

48. quia(なぜなら~から) respexit(気遣って下さった、配慮して下さった 完了形 humilitatem(<私の>卑しさを) ancillae(奴隷、女中、はしためであるsuae (主の)

ecce(見よ、)enim(だから)ex hoc (今から後)beatam(祝福された者と、幸いな者と)me(私を)dicent(呼ぶでしょう 未来形)omnes(すべての) generationes子孫たちは)

マリアの賛歌

そこで、マリアは言った。

私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも

目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人も

私を幸いな者と言うでしょう、

力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。

結局どういうことかと申しますと、マリアの賛歌というのは、自分のような主のはしためでしかない、卑しい、実に取るに足りない者をさえ主は顧みてくださり、神の子の母となる栄誉をお与えくださった、と小躍りして喜び、主の御名を讃美したというのです。一体マリアに何が起こったのか、そのことを伝えているのが、今日のテキストです。

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

「六か月目に」というのは、先週の関口先生の宣教にあったように、神殿でのザカリヤに起こった出来事、そしてエリサベトが懐妊してから六か月目ということです。私は今回ここを読みながら、前回のピリポの所で触れたナタナエルの言葉「ナザレから、なんのよきものが出ようか。[2](口語訳)を思い出した。ルカは更に「ガリラヤの」という地名を加えている。

「キリストはまさか、ガリラヤからは出て来ないだろう。[3]」(口語訳)と言われていたガリラヤです。

その昔ソロモン王がエルサレム神殿を建てた時、多くの材木をレバノンから運んでくれたフェニキアのツロの王ヒラムに、ガリラヤの20の町をその礼として贈りましたが、ヒラムはその贈り物に対してはなはだ不満であったということが列王記上9:11に記されています。その他にも「異邦人のガリラヤ[4]」とも言われてきていました。軽蔑とさげすみの対象でしかない地名が並びます。誰も注目しない所に、更に小さなナザレという町の一人の少女のもとに、神から遣わされた天使がやってきたというのです。クリスマスのメッセージというのは、こういう所を目指してやってくるのです。何万球というLED電球に彩られた所ではなく、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、平和の道に導く[5]」ためにやってくるというのです。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

私はこれは大変な言葉だと思う。神と人間、一方が聖なるものであるとすれば、他方は罪と矛盾に満ちている。人間でさえこんな浮世はいやだと言って、世捨て人になる人がいるくらいです。従ってこの二つは、神と人間は決して交わることがない。どこまで行っても平行線である。ところが、それにもかかわらず、神はこの世とかかわりを持とうとされた。この世は神の審判の対象ではなく、愛の対象となったというのです。これは考えてみると実に驚くべきことです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」神のハードルは私たちが想像するよりはるかに低く、無限に低くされ、放蕩息子のようにボロボロになり、身一つになって父の家に転がり込んできた者に、最上の服を持ってきて着せ、よく帰って来たと抱きしめ、接吻して迎えるというのです。

いと高き所におられる神が、ガリラヤという辺境の地にあるナザレという村の一人の乙女を母として選ばれた、というのです。彼は当時の世界を支配していたローマ人としてこの世に生を受けたのではなく、あなどられた弱小民族の一人として誕生する。神が人間の罪に対する責めを負われる決意をしたことが、私たち人間に知らされた瞬間です。この言葉が語られた瞬間に、すべてが変わり、すべてが新しくなった。しかしこのことはヨハネ福音書がその冒頭で語っているように、また私たちが創世記で見てきたように、初めからあったことだったと聖書は記しています。

「おめでとう」と訳された言葉は、ラテン語で私たちがよく知っている言葉、Ave Mariaという言葉です。 カトリック教会の聖典となっているウルガータというラテン語の聖書を見てみますと、Have(=Ave こんにちは)gratia plena (溢れる恵みを受けた方)Dominus(主が)tecum(あなたと共に)benedicta(聖別された、祝福された)tu (あなたは)in mulieribus(女たちの中で)となっています。

Ave というのは会った時、別れる時の挨拶の言葉で、こんにちは、こんばんは、さようなら、ご機嫌よう、またおめでとうというお祝いの言葉として使われます。

「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』ここには生まれてくる子は「ダビデの子」としてダビデ王の王座を受け継ぐ者であることが述べられています。マリアは天使に『どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに』と当然の疑問を返します。

それに対して天使の答えは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と返答しています。ここには「ダビデの子」という呼び名とは別に、「神の子」という呼び名が出てきます。これは実は大切な点なのです。イエスの誕生を扱っているのは、マタイ福音書とルカ福音書ですが、マタイはユダヤ人、旧約聖書を熟知している人々を対象にしています。主イエスが旧約聖書において預言されたことが主イエスにおいて実現したという点[6]に力点を置いています。必然的に旧約聖書からの引用が多くなっています。その色彩は東洋的で東の国から博士たちがラクダに乗ってやってくる。アラビアンナイトの空飛ぶ絨毯が出てきそうな世界です。贈り物は黄金、乳香、没薬です。主イエスを「ダビデの子」と位置づけています。

ルカは旧約聖書を知らないヘレニズム文化の中に生活する異邦人を対象としています。その色彩は西洋的であり、旧約聖書とは切り離された形で、主イエスが「ダビデの子」であると同時に「神の子」であると言っています。

シメオンの言葉に、「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕をやすらかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です。」(ルカ2:29~32)異邦人も含めた万民の救いに向かいます。

マタイは「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(マタイ1:20~22)あくまでもイスラエルの救い主です。

両者の系図に注目してみると、マタイの系図は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まっています。そして「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」と結んでいます。そして私たちがよく知っている「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」とその誕生の次第が続きます。そこで言われていることは、メシアと呼ばれるイエスは聖霊によるものであるというのです。ヨセフの子ではないというのです。ということは「ダビデの子」でもないということになります。私たちはここで面食らいます。「アブラハムの子ダビデの子」として誕生したイエスは、ヨセフの子でもなく、従ってダビデの子でもないというのです。いったい何が言いたいのか分からなくなります。

しかし、この系図を前にしてしばし考えてみると、ここでマタイが言わんとしていることは、主イエスが「ダビデの子」を超えた方であるということが、マタイがその福音書の冒頭で言わんとしていることなのだということに思いあたります。しかもその方は、預言者たちによって言われてきた方であり、その預言が実現したのであると証言しています。

それに対してルカの系図[7]はイエスから始めて、ダビデを超え、ヤコブ、イサク、アブラハムを越え、アダムを越え、そして神にまで至っています。ルカはイエスがユダヤの民族的な神を越えて、全人類の神というところに至っているのです。

結局何が言いたいかというと、主イエスは確かに旧約聖書の預言の実現としてダビデの子の位置に誕生したけれども、その方はダビデの子を超えた存在であり、その誕生は、血筋によらず、肉の欲によらず、神の一方的な恵みとしてこの地上に誕生したというのです。ユダヤの民族主義的なローカルな範囲を超えた存在であるということが語られています。私たち自然科学の教育を受けて成長してきた者にとっては、どうしても処女降誕なるものがあったかなかったかということに振り回されがちですが、聖書には聖書の読み方があるのです。ここで言われていることは、このイエス・キリストは人間の協力なしに、神からの一方的な贈り物、プレゼントとして全人類に与えられたものであるというのです。

またこのことをマタイ福音書では、ユダヤが男性社会であることもあり、ヨセフの決断に焦点が当てられているのに対し、ルカはユダヤの世界ではその人格さえ認められていなかった女性マリアが全責任を負って一人で決断していきます。この対比、コントラストに注目することも大切なことです。東洋的、民族主義的、律法の世界、閉鎖的世界におけるヨセフに対し、西洋的、グローバリズムの世界、自由で開放的な異邦人社会におけるマリアの対比に注目して聖書を読むと、また新たな視点を与えられると思います。この違いは後の宣教においても、大きく影響してきます。アンテオケの教会から出立したパウロが異邦人社会において、目覚ましい発展をしていったのに対し、ユダヤにおけるキリスト教会は凋落の一途をたどります。パウロが異邦人社会で集めた献金をもって援助するようになります。私たちの教会も閉鎖的にならず、開かれた教会でありたいと思います。

次にエリサベトが登場してきます。エリサベトは先週の関口先生の宣教にあったように、バプテスマのヨハネのお母さんです。父は祭司ザカリアです。この受胎告知と共に不妊の女と言われていたエリザベトが、既に妊娠して6か月目に入っていることが告げられます。そして「神にはできないことは何一つない。[8]」とマリアを励ましています。その後マリアはエリサベトの所に急ぎます。ザカリアはエルサレムの神殿の祭司ですから、その住まいは当然エルサレムかと思っていたのですが、39節には「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。」と記されています。聖書辞典によると「彼は当時の俗化したサドカイ派の祭司たちと異なっていたことを暗示する。」と記されています。具体的にどこかということは分かりませんが、エルサレムの祭司たちとは一線を画していたようです。ルカは「二人とも神の前に正しい人で主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった。[9]」と伝えています。バプテスマのヨハネのイメージが重なります。神はマリアが一人でこの重責に耐えるのではなく、エリサベトという支えを用意されたのです。

マリアが処女であったということは、彼女が聖なる存在であったということを言おうとしているのではありません。また処女降誕という自然の摂理を越えた出来事であることを強調したのでもありません。それは神の側からの一方的な恵みとして与えられたこと、イエスがヨセフの子ではないということを言うことによって、主イエスが「ダビデの子」を越えた存在[10]であることを伝えようとしているのです。

主イエスご自身もそのことを指摘[11]しています。ルカ福音書から引用しておきます。イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』というのか。ダビデ自身が詩篇[12]の中で言っている。

『主(神は)はわたし(ダビデ)の主(メシア)にお告げになった。「わたし(神)の右の座につきなさい。わたし(神)があなた(メシア)の敵をあなた(メシア)の足台とするときまで。」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」というものです。ここでも「神の子」は「ダビデの子」を超えた存在であることが確認されています。

考えてみると、実に驚くべきこと。決して交わることのないはずの平行線が、神の方から一方的にこの世の歴史に介入してきた。それが今日のテキストである「受胎告知」の出来事です。

ふりかえってみると、神はエデンの園においてアダムとエバが、食べてはいけないと命じられていた善悪を知る木から取って食べた二人を追放した。しかしその裏で神は二人を追放する際に、いちじくの葉に換えて破れることのない皮の衣を着せられた。弟アベルを手にかけたカインを追放する際に、カインが主に「私の罪は重すぎて負いきれません。」と訴えると、主は誰も彼を殺すことがないようにとカインに一つの印をつけて守られた。

追放という表の顔に隠されながら、裏ではアダムとエバを、そしてカインを守り、祝福された。神は決して彼らを追放して、後は知らないよと突き放したのではなかった。モーセが神の栄光を見ることを求めた時、神はモーセを岩の裂け目におき、ご自身の後ろ姿を見せられた。神の裏の顔はどんな顔だったのだろうかと考えたことがあります。皆様はどんな顔を想像されるでしょうか。アダムとエバにその恥部を隠すために、破れることのない皮の衣を着せられた神、カインの罪を覆われた神が、この歴史に一方的に介入してきたというのです。

神がこの世を愛するというあり得ないことが起こるからには、さぞかし偉大な出来事が起こったのだろうと思うが、そうではなかった。この出来事は偉大ダビデ王がそうであったような政治的、軍事的な出来事としては起こらなかった。独り子をこの世に与える、十字架上での贖いの死という低き姿でこの世に介入してこられた。キリストの十字架は、この政治的、軍事的力による支配者「ダビデの子」から世の罪を除き給う贖いの供え物となる「神の子」に移行する転換点に立っているのです。ダビデの王座に君臨して、時のローマの支配からイスラエルの民を解放してくれる政治的、軍事的指導者としてではなく、人間の罪の赦しという福音そのものとして全人類の上に臨まれたというのです。

しかしこの転換は簡単ではない。中神駅の次は東中神駅という訳にはいかない。ここでは私たちがイエス・キリストと共に十字架に死すということがないと、中々「神の子」が見えてこない。自分の義で満ち満ちている者には、gratia plena (溢れる恵み)を受け入れる余地がない。ペテロも他の弟子たちも、この十字架の前でつまずいたのです。そして自らの義が、プライドが粉々に粉砕されてはじめて、このgratia plena に気づかされるのです。その時はじめて神の子に出会うのです。

ところがわずかに15,6歳の少女が、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白するのです。「はしため」とは、召使の女、下女のことです。「お言葉どおり、この身に成りますように。」とは、一体このいたいけな少女のどっから出てきた言葉か、圧倒され、しばし言葉を失います。聖霊の風は実に老若男女問わず、自由にその目指すところに向かうということを再確認させられる。

そしてこの聖霊は「神の子イエス」を証し[13]、使徒言行録においてペテロやパウロを導いて、全世界の救い主として広がり、私たちのところまで届けられたのです。ガリラヤのナザレに住む一人の少女の信仰告白が、二千年の歳月を経て、歴史を導く聖霊により今や全世界に証されている。だからあなた方は自らの矮小さを恐れるなというのです。自分の中に誇るべきものが何もない、ということを恐れるなというのです。それはマリアと共に gratia plena 溢れるほどの恵みを受け入れるための器である。

「受胎告知」はそのことを私たちに知らせようとしているのです。


[1] 口語訳「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、私を幸いな女と言うでしょう。力ある方が、私に大きな事をしてくださったからです。そのみ名は清く、そのあわれみは、代々限りなく 主を恐れる者に及びます。」

[2] ヨハネ福音書1:46

[3] ヨハネ福音書7:41

[4] イザヤ9:1、マタイ4:15

[5] ルカ福音書1:79

[6] サムエル記下7:12以下参照 マタイ福音書1:22

[7] ルカ福音書3:23以下参照

[8] 創世記18:14「主に不可能なことがあろうか。」老齢になっていたサラに男の子が生まれると聞いた時、サラは笑った。その時主が言われた言葉である。

[9] ルカ福音書1:6

[10] ルカ福音書20:41「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が詩篇の中で言っている。『主(神)は私(ダビデ)の主(メシァ)にお告げになった。「私の右の座に着きなさい。私があなたの敵をあなたの足台とするときまで」と』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

[11] マタイ22:41~46、マルコ12:35~37、20:41~44

[12] 詩篇110、

[13]「しかし弁護者(口語訳は助け主)、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」ヨハネ福音書14:26

(2022年12月18日 待降節礼拝)

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