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聖霊の結ぶ実(2020年5月10日 礼拝宣教)


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ヨハネによる福音書15章18~27節

関口 康

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」

感染症対策としての「各自自宅礼拝」が2か月目です。今日は「母の日」です。みんなで教会に集まれない中で迎える「母の日」に悔しさを覚えるのは私だけではないと思います。

もっとも私自身は帰省すらめったにしない親不孝者なので、皆さんの参考になりません。私の両親は私が生まれる前からキリスト者ですので、息子を「神さまにささげた」と信じていてくれます。それを言い訳にして、実家にはすっかりご無沙汰しています。

しかし、皆さんはぜひお母さまを大切にしてください。私以上に、お母さまを大切にしてください。それだけに、帰省が規制されている今の状況が残念でなりません。

今日の聖書の箇所も、いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。「母の日」との関係は見当たりません。しかし、「父」と呼ばれる存在について記されている箇所です。ここに記されているのは、イエスさまの言葉です。イエスさまの「父」は神さまであると、イエスさまご自身が明らかになさっています。

再び私の個人的な話になるのをお許しいただきたいです。今日の箇所を含むヨハネによる福音書15章は、私にとって特別な意識を持たざるをえない章です。私が生まれたときから高校卒業まで家族と一緒に通っていた教会で、少なくともその当時、日曜の朝の礼拝でも、夕礼拝でも、教会学校でも、水曜の夜の祈祷会でも、教会附属幼稚園でも、いつも必ず同じ「ヨハネによる福音書15章1節から11節まで」が朗読されていたからです。

教会学校で歌われるこどもさんびかの1節の歌詞は、「主イエスはまことのぶどうの木、わたしはつながる小枝です、育てる神さま手入れして、実らぬ小枝を切り捨てる」でした。最後の「切り捨てる」という言葉が恐ろしかったことが忘れられません。しかし、たしかにイエスさまがお語りになったとおりのことが歌われています。

聖書の中のひとつの箇所が、20年近く(その後のことは知りません)、どの集会でも開かれていた教会というのは例が少ないかもしれません。その真似をするつもりはありませんが、その教会の当時の様子を批判する意味もありません。私にとってのヨハネによる福音書15章は、潜在意識に埋め込まれていると言えるほどだと、申し上げています。

今日の箇所の内容は、イエスさまが神さまを「父」とお呼びになったこと、そしてイエスさまは「父なる神の子」であられることです。そのことをイエスさまご自身が明らかにしておられます。しかも、両者の「親子関係」は単なる比喩ではありません。イエスさまの本質を表しています。「神さまの子ども」は「神」です。イエスさまが「神さま」です。

そうであるということを、ヨハネによる福音書は、最初の章から語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1章18節)と記されています。この「父のふところにいる独り子である神」がイエス・キリストです。

だからこそ二千年のキリスト教会は、「神のみこころ」を知ることと「イエス・キリストの教えに従うこと」は等しい関係にあることを信じてきました。そして、イエス・キリストの教えは新約聖書に記されています。教会が新約聖書を重んじてきたのは必然的です。

しかし、私が今日お話しすべきことは、この先の事柄です。話をここで終わらせることはできません。テレビ越しか、ガラス越しか、とにかくかなり隔たりがあります。

「神のみこころ」を知るために「イエス・キリストの教えに従うこと」が、わたしたちに求められています。それはそのとおりです。しかし、ここで起こる問題があります。それは、今のわたしたちは西暦1世紀と同じ状況の中に生きていない、ということです。

「歴史は繰り返す」とも言われます。しかし、それこそ比喩です。時間そのものは逆戻りしません。時間も歴史も不可逆です。もしそうでないなら非常に恐ろしいことになります。何年何十年生きようと、もし時間が不可逆的なものでないなら、人生のすべてが無かったかのように消去されることを意味します。そのようなことがあってはなりません。

教会の歴史も同じです。昭島教会68年、日本のプロテスタント教会160年、キリシタンの歩みと合わせれば日本のキリスト教史470年、そして世界のキリスト教会の二千年の歩みが、まるで無かったかのように消し去られるようなことがあってはなりません。

イエス・キリストの教えに従うことの意味は、わたしたちが二千年前に逆戻りすることではありません。正反対です。わたしたちは「今ここで」、神さまのみこころを知るために、聖書を通してイエス・キリストの教えを学ぶのです。

西暦1世紀と、21世紀との隔たりを埋めてくださるのが「聖霊」です。「聖霊」ご自身も神さまです。イエスさまご自身の言葉でいえば、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」(26節)が「聖霊」です。

しかも、「聖霊」はわたしたちの心と体(合わせて「存在」)の内側に宿って(内住して)くださる方です。言い方を換えれば、わたしたちの存在は一切否定されません。「あなたが悩んでいることは無価値なので、悩むのをやめなさい」とは言われません。「思考停止することが信仰である」とは言われません。そういう信じ方は異端に通じます。

わたしたちの理性も感情も、悩みも苦しみも、汗も涙も、世界の叡智も、最新の技術も、活かされたままです。そのわたしたちへと、「神のみこころ」と等しい「イエス・キリストの教え」を「聖霊」が届けてくださいます。わたしたちは自分の家で(各自自宅礼拝で)、「神のみこころ」が届くのを待つことができるのです。

「聖霊の結ぶ実」はわたしたちの人生そのものです。とってつけたような、違和感のあるものではありません。わたしたちの人生そのものが、神の恵みであり、奇跡なのです。

(2020年5月10日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)

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