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聖霊の賜物(2020年5月31日 ペンテコステ礼拝宣教)


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ヨハネによる福音書 14 章 15 節~27 節

石川献之助

私たちは三位一体の神を賛美し礼拝しているのだという事を、聖霊降臨節(ペンテコステ)にあたって、新たに心に留めたいと思います。

それは後から付け加えられた恵みというのではなく、もとから救い主イエスと共におられたのです。その聖霊が、主イエスが昇天された後、主イエスを信じる弟子たちが集まっているその上に下り、新たなる現実となったのであります。

聖霊降臨の出来事を伝える聖書の箇所として、使徒言行録 2 章1節~も合わせてお読み下さることをお勧めします。今朝はヨハネによる福音書のテキストを与えられました。

ヨハネによる福音書 14 章 16 節~17 節には「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」と書かれています。これから起こることに戸惑い、不安でいっぱいの弟子たちに、主イエスは聖霊を与える約束をして下さっています。

この「弁護者」という言葉ですが、ギリシャ語ではパラクレートスといい、口語訳聖書では「助け主」と訳されています。パラクレートスとは、常に困難や苦悩、疑惑、あるいは当惑のもとにある人を助けるために招きいれられる者を意味します。聖霊は私たちに真理を教え、そして真理のための戦いを進めることが出来るようにする弁護者として働いてくださるのです。

主イエスは私たちに何を遺して下さったのでしょうか?それは救いの愛であります。主イエスは十字架という値を払われて、人間の救いの業を完成され、弟子たちに律法ではなく愛を示すために聖霊をおくられた、そこにペンテコステの出来事の意味があるのです。聖
霊に満たされた、主イエスに従う弟子たちの集まりを「教会」と呼び、それは喜びと救いを中心とした交わりなのであります。

私は今、主イエスの心の内を思い起こしています。十字架の出来事の前、主イエスは冷たい洞穴みたいな所に裸でなげこまれて、さぞ寒かったろう、さぞ悲しかったろう、弟子から捨てられたという思いも抱かれたかもしれない。ペテロが群衆に向かって「彼を知らない」「彼とは関係ない」と三度否定したその声を、主イエスは悲しく心に留めたことでしょう。

その後、復活の己を表された主イエスは、弟子ペテロに向かって「あなたはわたしを愛するか?」と三度尋ねました。復活の主イエスが初めて己を表して言われたことは、「わたしを愛するか?」ということ。三度も言われたということ。

しかし、そのペテロに復活の主イエスは、「わたしの子羊を養いなさい」と言われました。「あなたに助け主をおくる」といわれた主イエスの心を思うわけであります。シモン・ペテロは主イエスの深い愛と許しにふれ、新しいペテロに創りかえられて、主イエスに従う決心をしたのであります。

服従というと一般に律法と考える方が多いかもしれません。主イエスは愛するという行為を遺していかれました。自分を捨てて隣人を愛するという行為としての愛は、服従ということであります。神に服従するということであります。

そのことは一見、最後神に服従して己を捨てたと思われやすい。父なる神に服従した、服従としての愛、それは単に喜びを犠牲にして悲しみにかえるようなことではないのです。そうではなくて、神に服従するということは、十字架のイエス様に従うということなのですね。

聖霊に満たされるということは、それ自体喜びであります。聖霊に励まされて、主イエスの愛を新しく受けながら、信仰の生涯を果たしていく道を私たちは与えられているのです。

私たちは9回の尊い主日礼拝を、自宅礼拝という形で分散して守ってきました。小さい自宅での礼拝の中にあっても、心静かに主の愛を身近に感じ、上よりの慰めを得る時が与えられたことは感謝です。一人ひとりが御言葉に向き合い、祈りの中で、讃美の中で、主イエスの御心に豊かに与る恵みの時でもありました。

ペンテコステの聖日は、教会の誕生日だとも言われますが、復活の主イエスの信仰が今年も強められる日であることを覚えたいと思います。主にある教会の交わりの豊かさや楽しさを思い起こし、礼拝の再開を待ちたいと思います。

このような苦難が恵みに変えられていきますように、この昭島教会が一つとなり、ますます主イエスの教会となっていくことができますようにと、祈るばかりです。新しい一週間も、神様の恵みの内を歩んでいきましょう。

(2020年5月31日 各自自宅礼拝)

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