スキップしてメイン コンテンツに移動

キリストの昇天(2020年5月24日 礼拝宣教)


下記の宣教文の「朗読」(音声12分17秒)はここをクリックしてください

「今日の挨拶(関口康)」(音声1分3秒)はここをクリックしてください

「礼拝開始チャイム」はここをクリックしてください

下記の宣教文のPDF版はここをクリックしてください

ヨハネによる福音書7章32~39節

関口 康

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

各自自宅礼拝に教会の週報と宣教文をお届けするのは、今の苦しい時をみんなの祈りの力で乗り越えたいと願っているからです。顔を合わせ、手を取り合うことが今はできなくても、心の中で教会を感じ、共に祈ることにおいて互いに励まし合う関係を、なんとかして少しでも形にあらわすことを続けていきたいからです。

私が昭島教会の皆さんと出会ったのはまだわずか2年前です。それ以前の65年間の歩みを知りません。それでも私に分かるのは、この教会の皆さんは祈りの力によって多くの困難を忍耐強く乗り越えてこられた方々であるということです。

そうでなければ、教会というものは、あっという間に壊れてしまうところがあります。否定的なことは言いたくありません。昭島教会の存在はおひとりおひとりの祈りと努力の結晶です、と申し上げたいだけです。

今日の聖書の個所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。このときイエスさまはエルサレムにおられました。エルサレム神殿の境内で神さまのみことばを宣教なさいました。すると「人々がイエスを捕らえようとした」(7章30節)というのです。イエスさまの宣教を妨害しようとしたというのです。

しかしイエスさまは、少しも怯むことなく宣教をお続けになりました。そのうえでイエスさまはご自身が十字架にかけられることを覚悟しておられました。そのようなことは普通の人には堪えられないことです。しかし、イエスさまがそれを堪えることがおできになったのは、ご自身が父なる神さまからこの世に対して遣わされた方として、宣教の使命を強く自覚しておられたからです。神さまの御言葉を宣べ伝えるために、わたしはこの世に生を受けたのであり、そのために生きているのだということを確信しておられたからです。

教会はどうでしょうか。個人としてのわたしたちひとりひとりは、神さまの御言葉を宣べ伝えるために私は生まれたというほどの強い自覚を持つことは考えにくいところがあります。そこまでの思いを抱くことができる方がおられるなら尊重されるべきですが、そうでないことを責められる関係にまではないでしょう。

しかし、ひとりひとりは弱さを抱える存在であっても、イエスさまのからだとしての教会へと加えられ、信仰と祈りにおいて互いに支え合い、高め合う関係を得るならば、さまざまな障害や妨害を共に乗り越えて、宣教を続けていくことができるようになるでしょう。

それは単なる想像や希望的観測といったものではなく、現実の教会が現実に体験してきた事実です。もしそうでないとしたら、わたしたちは、他の誰でもなく自分自身のことを振り返ってみて、なぜ私はこんなに長い信仰生活を続けてくることができたのか、自分で説明がつかなくなるでしょう。

私が忍耐強かったからでしょうか。私の信仰が強かったからでしょうか。だから私はこんなに長く信仰生活を続けられたのでしょうか。「まさかそんなわけがない。ありえない」と、おそらくだれもが考えるのではないでしょうか。むしろ逆に「あんなに弱かったこの私が、どうしてこんなに」という思いを、ほとんどの方が抱くのではないでしょうか。

わたしたちのうちに宿ったこの不思議な力は、神さまから与えられたものです。それは、イエスさまを救い主とする信仰の力でもありますが、同時にその信仰をもって共に生き、祈りをもって互いに支え合う「教会」の存在を抜きにしては考えられない力です。

このように考えていきますと、わたしたちは「教会」を、単純に「人間の集まりだ」と言うだけで済ませてはならないことが分かってきます。なぜそう言えるのかといえば、家や村や町や国、あるいは会社や学校や社会と少しも変わらない意味で「教会もまた人間の集まりにすぎない」と言って済むならば、わたしたちに与えられた不思議な力の源は何なのかを全く説明できなくなってしまうからです。

たとえば、私の性格が「しつこい」からこんなに長く教会生活を続けることができたのでしょうか。そのように冗談か自嘲で言うのは構わないと思いますし、家族や悪友は遠慮なくそんなふうに言うかもしれません。しかし、そんなことではとても説明がつかないことです。

今日の箇所の37節以下で、イエスさまがとても大事なことをおっしゃっています。それをイエスさまは「立ち上がって大声で言われた」(37節)と書かれています。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(!!)

続く箇所に、「生きた水」とは“霊”、すなわち「聖霊」を指すと説明されています(39節)。そして、その水はイエスさまのところで飲んだものだというわけです。

つまり「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とは、父なる神さまから出て、イエスさまを通って、聖霊によってわたしたちの中に流れ込んだ何かが、さらにわたしたちから流れ出て多くの人々に及び、時代と世代を越えて受け渡されていくことを指していると言えます。

それは何でしょうか。それはもちろん神さまの力です。そして信仰の力も加わるでしょう。しかし、それだけでなく、「教会」の存在が含まれると言わなくてはなりません。神さまと個人の関係だけでは説明できません。

個人の力がいかに弱く、もろく、はかないものであるかは、だれから指摘されなくとも、わたしたち自身が最も自覚していることではありませんか。このように言うのは、教会を押し付けたいからではなく、教会のみんなで力を合わせることの心強さを、今の苦しいときにこそ思い起こしたいからです。

イエスさまは、今は、わたしたちの目に見えない天の父のみもとへと挙げられています。それを「昇天」(しょうてん)と言います。わたしたちが地上の人生を終えて天へと召されることを指す「召天」(しょうてん)とは区別されますが、無関係ではありません。

イエスさまは本来、神であられる方として、天へとお戻りになったのです。わたしたちは、人間として、人間のままで、天へと国籍が移され、永遠に神と共に生きる者となるのです。

この信仰に支えられつつ、希望と喜びをもって、今週も共に歩んでまいりましょう。

(2020年5月24日 各自自宅礼拝)

このブログの人気の投稿

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

天に栄光、地に平和(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 261番 もろびとこぞりて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「天に栄光、地に平和」 ルカによる福音書2章8~20節 関口 康 「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」 クリスマスおめでとうございます! 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。 天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。 なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。 もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトに

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現代の牧師たちにとって、説教と牧会は「職業ではない