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ピアノ賛美動画「悲愴」富栄徳さん演奏・動画編集

富栄徳さん感謝です!「第一楽章は《さあ大変!どうしよう》と重苦しい雰囲気ですが、第二楽章は《気持ちを切り替えて前に進もう》といった感じです。コロナ騒動が新しい段階に入った今とオーバーラップする気がします。第三楽章のように明るい日々が戻ることを信じたいです」

 

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立ち上がれ(2024年2月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「立ち上がれ」 エフェソの信徒への手紙 5章 6~13節 関口 康 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 今日の箇所の中心的な言葉は「光の子として歩みなさい」(8節)です。直前に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と記されています。この箇所で描かれているのは、キリスト者の教会生活の始まる“前”と“後”の違いです。「光の子」は教会生活を営むキリスト者であり、その反対の「闇の子」はそうでない人々です。ただしこの描き方には人の心を傷つける要素があります。今の説明が間違っているという意味ではありませんが、慎重な配慮を要する箇所であることは間違いありません。 「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(6節)、また「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」(8節)とあります。文脈上は明らかに、教会の外にいる人々が「むなしい言葉」を語っているので、その仲間に加わらないでくださいという意味です。しかし、そのように言えば、強い反発が返ってくるでしょう。「教会は、なんと鼻持ちならない人々か。自分たちだけが正しく、他のすべての人が間違っているかのように言う」。この批判には真摯に耳を傾ける必要があります。 別の見方ができなくはありません。それは、「光の子」と「闇の子」を区別することと、教会に属するか属さないかは無関係である、という見方です。日本では「無教会」の方々は、いま申し上げた立場をお採りになります。しかし、その方法では問題は解決しません。少なくとも今日の箇所で言われている「光の子」は「教会の交わり」から離れては存在しません。 ただし、その場合の「教会」の意味は場所や建物ではありません。神の言葉が語られ、聞かれ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの福音を共に信じ、互いに助け合い、さらに聖餐式や愛餐会を通して共に食卓を囲む信徒同士の交わりこそが「教会の交わり」です。 特に最後に挙げた聖餐式と愛餐会は、教会の最も“物理的な”要素です。一例だけ挙げます。今もコロナ禍が完全に収束していると考えている方はおられないと思いますが、とらえ方は多様でしょう。最もひどい状態...

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