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信仰の道(2020年6月21日 礼拝宣教)

説教壇にアクリル板を設置し、マスク着用で説教しています

ヨハネの手紙一2章22~29節

関口 康

「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもあるでしょう。」

今日も変則的に短縮した形で礼拝を行っています。宣教も短くします。

ご承知のとおり、今年度の私は2つの学校で聖書を教えています。ひとつの学校は校舎での対面授業を再開しています。もうひとつの学校はインターネットを用いたオンライン授業をしてきましたが、まもなく対面授業を再開します。

現時点で私が対面授業に出かけているのは週1日だけです。片道3時間かかり、その間のほとんどの時間を、電車とバスの中で過ごします。一昨日出かけたときは朝5時台の電車で、立川から新宿まで座れませんでした。帰りの午後2時台の電車も新宿まで座れませんでした。座りたかったと言いたいのではなく、東京の交通機関はすっかり元に戻っているということを報告しようとしているだけです。

しかし、もう危険は去ったのでしょうか。毎週言うようなことではありませんが、昨日も「国内で64人、そのうち東京は39人の感染者が確認された」と報道されていました。世界保健機関(WHO)の事務局長は昨日の時点で「一昨日、世界で過去最大の15万人超の新規感染者が確認された」と表明し、「流行は加速している」とまで言いました。そのような報道と東京あるいは日本全国の現実は全く矛盾していると、私には思えてなりません。

しかし、「とにかく様子を見る他はないだろう」としか言いようがありません。私が自分のしていることを誇張したいわけではありませんが、もしかしたら今集まっているわたしたちの中で、最も長時間の電車やバスの中にいたり、千人以上の学校の中に長時間いたりするという意味で、最も危険な存在かもしれません。どこで何を拾ってくるか分かりません。

そのように思うのであれば、私は今ここに立つべきではないかもしれません。しかしそういうわけにも行かないという現実の前に立たされているという点で多くの方々と同じ立場でいる気持ちです。「マスクで鼻と口を覆い、教会のみなさんになるべく近づかないようにする牧師」というのは、概念矛盾のようなものでしかなく、申し訳なく思うばかりです。

しかし、こういう話をずっと続けるつもりはありません。今日開かれている聖書の御言葉についてお話しします。

これは「ヨハネの手紙一」というタイトルの書物です。事実なのではっきり言いますが、この書物のどこにも、ヨハネの名前は出てきません。もうひとつの事実は、この書物はどう考えても、新約聖書の中の他の手紙と同じ意味での「手紙」ではないということです。送り主の名前も宛て先もなければ、結びの言葉もありません。

そのような書物がなぜ「ヨハネの手紙」と呼ばれているのでしょうか。これも事実ですのではっきり言いますが、新約聖書の最初に四つある福音書の最後の「ヨハネによる福音書」と内容的に重なり合う要素が多いということが昔から知られてきたからです。

しかし、それ以上のことははっきりとは言えません。かろうじて言えるのは、この「ヨハネの手紙一」と呼ばれる書物は、ヨハネによる福音書の内容をよく知っている人によって書かれている、ということです。それ以外の可能性はありません。ヨハネによる福音書を知らない人に、ここまで一致する内容の文書を書くのは不可能です。

なぜこんな話をしているのかといえば、先ほど朗読した箇所の中の「初めから聞いていた」の意味を明らかにしたいからです。ヨハネによる福音書が書かれた年代は、比較的はっきり分かっています。それは西暦1世紀の終わり頃から2世紀の初め頃です。早くとも西暦90年より後だろうと考えられています。

そうしますと、今申し上げたことが何を意味するかといえば、先ほど申し上げたとおり、ヨハネによる福音書を知っている「ヨハネの手紙一」は、明らかにヨハネによる福音書よりも後に書かれた、ということです。ということは、ヨハネの手紙一はおそらく西暦2世紀に書かれたものであろうということです。その意味は、イエスさまが十字架の上で処刑された西暦30年前後から数えれば、70年ほど後に書かれたものだということです。

学術的な説明をしたいわけではありません。「初めから聞いていたことを心にとどめなさい」(24節)と記されている「初め」の意味を申し上げたいだけです。この「初め」はこの書物の中に何度も繰り返し出てきます。

この「初め」は「私は3年前に初めてイエスさまを信じ、洗礼を受けました」というような意味の、わたしたちひとりひとりの個人的な信仰生活の「初め」ではなく、十字架につけられて死んだあのイエスこそ真の救い主キリストであると、初めの教会が公に信仰を告白したときを指していると考えられます。

そうだとすると、この書物が「心にとどめなさい」と呼びかけている「初め」は、この書物が書かれたときよりも70年ほど前を指している、ということです。

そしてもうひとつ言えるのは、この「ヨハネの手紙一」の中でこれも繰り返し述べられているのは、キリスト教の内部にいわゆる異端が発生し、教会が分裂し、崩壊しかかっていたことに対する警告として「初めから聞いていたことを心にとどめなさい」と言っている、ということです。その意味は、教会の根源的な信仰告白に立ち返ってほしいという強い願いであるということです。

それがどんな異端だったのかというようなことを具体的に説明するのは、やめておきます。本文をお読みください。歴史的な事実だけ言えば、もしその異端との争いに敗れていたら、キリスト教会はその時点で消滅し、その後のキリスト教の歴史は無かっただろうと言われるほどの悪影響をもたらした一大勢力でした。70年続いたキリスト教会の歴史がそこで終わっていたかもしれない、ということです。

悪いほうの話をわたしたちの現実に引き寄せ過ぎないようにします。そういうことをすると暗い気持ちになるだけです。

それよりも、再来年の2022年に昭島教会の創立70周年を迎えるではありませんか。「イエス・キリストこそ真の救い主である」と、この教会としての初めての信仰告白がなされてから、まもなく70年です。わたしたちにとって今は「ヨハネの手紙一」の状況さながらである、ということです。

右にも左にもそれず、これまでと同じひとつの信仰の道を歩んでいこうではありませんか。これからも昭島教会のともしびを高く掲げ続けようではありませんか。

(2020年6月21日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)

間隔をあけて座るようにしています


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