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天のエルサレム(2020年6月28日 礼拝宣教)

宣教壇にアクリル板を設置し、マスク着用で説教しています

ヘブライ人への手紙12章18~29節

関口 康

「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」

来週の礼拝から原則的に元通りに戻すことにしました。教会学校も来週から再開します。聖書に学び祈る会も今週木曜から再開します。それが最善の選択だという確信はありません。様子を見ながら状況に対応していきたいと考えています。

今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙12章18節から29節までです。いつものとおり日本キリスト教団の聖書日課に基づいて選びました。内容的に難しい箇所です。何を言っているのか分からないとさえ思えます。しかし、難しいから避けるのではなく、皆さんと一緒に難題に取り組む気持ちでお話しします。

最初に申し上げるのは、「ヘブライ人への手紙」というタイトルの問題です。先週の宣教で「ヨハネの手紙一」を取り上げたときに申し上げたのと同じようなことを言わなくてはなりません。それは、「ヘブライ人への手紙」は「手紙」ではない、ということです。

ただし、「ヨハネの手紙一」と違い、「ヘブライ人への手紙」には13章20節から最後までに「結びの言葉」があります。この点だけ見れば手紙のようでもあります。しかし、書いた人の名前もなければ、宛て先も記されていません。もともとは前書きがあったが、失われたのだという仮説が唱えられたことがあったようですが、根拠はありません。

手紙でないなら何なのかを考えるヒントがあります。それが今指摘した13章20節以下の「結びの言葉」の中の「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」(22節)です。「勧めの言葉」の原意は、今の教会の「宣教」と同じです。つまり、この書物の内容は「手紙」ではなく「宣教」であると著者自身が述べています。

次に申し上げるのは、この書物の著者はだれかです。これも13章22節以下の結びの言葉の中に「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします」(23節)と記されていることで、テモテは使徒パウロの弟子であることがよく知られているために、「ヘブライ人への手紙」はパウロが書いたものだと昔から考えられてきました。

特に重大な事実は、この書物が新約聖書の一書として加えられることが確定したとき(西暦4世紀)、加えられた理由が「使徒パウロの書簡だから」ということだった、ということです。しかし、そう考えるのは無理であると、今は大方考えられています。

このような話をするのも、聖書の学術的な説明をしたいわけではありません。使徒パウロの手紙であることがはっきりしている、たとえばローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙の中に書かれていることとの関係や調和を考えながら「ヘブライ人への手紙」を読む必要はない、ということを申し上げたいだけです。著者はパウロではありません。

もうひとつ申し上げるのは「ヘブライ人への手紙」が書かれた時期です。結論だけ言えば、西暦1世紀の終わりごろ、80年代から90年代ではないかと言われています。冗談めかして言うことではありませんが、使徒パウロが書いたものだとしたら、パウロは何歳まで生きたのだろうという話になります。

年代の話をするのは、それがこの書物の最も重要なテーマだからです。そうであるということの根拠をいくつか挙げておきます。

「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され」(2章3節)。

「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12章4節)。

「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(13章7節)。

今あげた3か所に共通しているのは、この書物の著者が語りかけている相手が、キリスト教会のいわゆる第二世代というべき人々である、ということが分かるように書かれているということです。第一世代の多くは殉教の死を遂げました。しかし、あなたがたはそうでない、なぜなら、あなたがたは「まだ血を流していない」からだと言われているわけです。

この書物の中で特に有名なのは、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11章1節)から始まり11章全体に及ぶ、旧約聖書物語の要約です。

カイン、アベル、エノク、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、エサウ、ヨセフ、モーセ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルらの名前が、次々に挙げられます。

そのうえで、「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12章1~2節)と語られます。

つまり、この書物が書かれた、あるいは宣教として語られたときの背景ないし文脈には、教会の世代交代に際して、第一世代の人々の熱心な信仰を第二世代の人々にぜひ受け継いでもらいたいという強い願いがあった、ということです。それは、ほとんどそのひとつのこと(信仰継承!)を言うためだけに、この書物が書かれた、と言ってもよいほどです。

しかし、どうでしょうか。反論するわけではありませんが、キリスト教会の第二世代の人々は本当にだらしなかったのでしょうか。第一世代の人々の目から見ると、そのように見えたかもしれません。しかし本当にそうだったのでしょうか。第一世代の人々が、我々の信仰を受け継いでくれない、教会を受け継いでくれないと、第二世代の人々に対して腹を立てたり落胆したりするあまり、厳しすぎる言い方になってしまっている嫌いがなかったでしょうか。

どんなことであれ、先輩が後輩に厳しい目を向けるのはある意味でやむを得ないことです。しかし、わたしたちが知っている事実は、教会の歴史は第一世代だけで途絶えはしなかった、ということです。なんと二千年も続いたし、これからも続くであろう、ということです。

わたしたちはどうでしょうか。叱られれば委縮するだけです。互いに責め合うのではなく、愛をもって信仰を継承し、教会の世代交代を果たしていこうではありませんか。

「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えること」(28節)が大事です。キーワードは「感謝」と「敬意」と「喜び」です。つまり《楽しい教会》であることがどうやら大切です。

その思いで、再来年(2022年)の昭島教会創立70周年を共に迎えようではありませんか。

(2020年6月28日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)

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