スキップしてメイン コンテンツに移動

教会の一致と交わり(2021年9月5日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 390番 主は教会の基となり 奏楽・長井志保乃さん



「教会の一致と交わり」

コリントの信徒への手紙一 1章10~17節

関口 康
「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」

今日から礼拝堂での主日礼拝を再開することにしたのは、先週までの状況と比べて今日の状況に大きな変化があったからではありません。それどころか、もしかしたら先週より状況がもっと悪化していると考えなければならないのかもしれません。

8月1日(日)にわたしたちは礼拝堂で礼拝を行いました。しかし、その翌日の8月2日(月)に政府が「重症患者や重症リスクの高い方以外は自宅での療養を基本とする」という声明を発表したことを知り、事実上の「医療崩壊」が公言されたと判断しました。それは、最初は私個人の判断でしたが、役員会の全員が同意してくださいましたので、8月8日(日)から8月末まで礼拝堂での礼拝を取りやめ、各自自宅礼拝の形に切り替えさせていただきました。

しかし、誤解が無いようにはっきり申し上げます。昨年度も今年度も、当教会を含む宗教法人に対する礼拝堂封鎖のようなことが要請されたことは一度もありません。もしそのような要請があるとしたら、言い方は悪いですが「お役所仕事」ですので、紙に印刷された通知の書面が政府名義で全宗教法人に必ず届くはずですが、そのような書面は存在しません。

悪口や当てこすりを言いたいのではありません。しかし、全国の教会の中に「緊急事態宣言が発出されたので」という理由で各自自宅礼拝やオンライン礼拝に切り替えたところがあることを私は知っています。しかし「されたので」と関連付けて言ってしまいますと、まるで政府が教会に何かを命令したかのように誤解する人が出てきかねません。しかも政府は「発令」という言葉を一度も使っていないはずですが、何かにつけて「発令」と言いたがる向きを感じます。誤解や誇張があると言わざるをえません。

なぜこんな話を長く続けているかというと、「まだ緊急事態宣言は終わっていないではないか、さらに延長する可能性があるらしいではないか、それなのにどうして今日からの再開なのか」という疑問があるだろうと思うからです。

結論からいえば、我々は「緊急事態宣言が出たので」礼拝堂を閉鎖するとか、「解除されたので」礼拝堂での礼拝を再開するという関係にない、ということです。だれが何と言おうとお構いなしにやりたい放題やってよいということではありません。冗談にも口にすべきでない。そうでなくわたしたちは、政府とは別に独自の判断をせねばならないということです。

わたしたちが自主的になすべき判断の根拠や基準は何なのかは、必ず問われることになりますが、それは別問題だと私は考えます。このあたりで今日の聖書の箇所に記されていることが深く関係してくると思いますので、そろそろ聖書の話に移ります。

しかし、その前に言うべきことがあります。「主の日」と呼ばれる日曜日ごとに、共に集まって礼拝をささげること自体は、それを「する」か「しない」かを教会ごとに判断するという関係にありません。「する」ことが教会にとって自明なことであり、「しない」という選択肢は教会にはありません。教会の信仰によれば、天地創造の初めから神ご自身が6日働いて7日目に休まれたという教えに基づき、7日ごとに神の前で安息を得るために礼拝することが教会の存在理由です。

ただ、その「共に集まる」の意味する内容が広がってきたことも事実です。特に今日インターネットを用いて「ヴァーチャルに集まる」ことが可能になってきました。それが今のわたしたちのギリギリの判断です。しかし礼拝を「する」か「しない」かは、わたしたちが自由に決める問題ではありません。その選択肢が自分たちの手中にあると思い込んでいるとしたら、もはや「教会」ではありません。

それで今日の聖書の話です。使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の、比較的冒頭に近い部分です。そこに「皆、勝手なことを言わず、仲違いせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)と記されています。

「勝手なことを言わず」というのは、ずいぶんきつい言い方ですが、理解はできます。大切なのは「心を一つにし思いを一つにする」ことです。それが「教会」だとパウロは確信しています。心も思いも一つにすることができない状態が続くことを、パウロは懸念しています。

今日の箇所に書かれている内容は、比較的よく知られていることです。コリント教会の設立者はパウロです。パウロが開拓伝道者です。しかし、この手紙を書いているパウロはもうコリントにはいません。別の地で伝道しています。コリント教会にパウロの後に来た伝道者がアポロです。しかし、どうやらアポロの言うこととパウロの言うことに違いや差があったようです。それで、コリント教会の中にどちらが正しいかの論争が始まりました。

しかし、どちらも正しくないと考える人たちが出てきました。当時のキリスト教会の最高責任者は、最初にイエスさまの弟子になったペトロでした。「ペトロ」はギリシア語人名ですが、その意味は「岩」です。当時イエスさまもペトロもアラム語で話していました。「ケファ」は「岩」のアラム語です。つまり、聖書に登場する「ケファ」は使徒ペトロのことです。

パウロの言うこともアポロの言うことも、どちらも正しくないと考えた人たちが、当時の教団の最高責任者のペトロに従おうと考えました。それが「わたしはケファに」(12節)の意味です。いや違う、我々が従うべきは、生前のイエスさまの最初の弟子のペトロだとかではないし、生前のイエスさまに直接会ったことがあるわけでないパウロやアポロでもなく、イエスさまご自身だ、キリストだと言い出した人たちもいました。それが「わたしはキリストに」(同上節)の意味です。

そのような言い争いをしているコリント教会にパウロが言いたいことは、「わたしは誰につく」という発想そのものをやめなさい、ということです。「キリストにつく」という答えが最も正しいという説明を私もどこかで聞いたことがありますが、パウロが言っていることとは違います。

パウロの主旨は、けんかをやめなさい、心と思いを一つにしなさいです。この点、わたしたちは惑わされてはいけません。もし「キリストにつく」だけが正しい選択肢で、パウロもアポロもペトロも神でも救い主でもなく、ただ邪魔なだけで信仰とは関係ないなどと言って、蹴散らしてしまうのであれば、わたしたちが新約聖書を読む意味がなくなってしまうでしょう。なぜなら、新約聖書のすべてがイエスさまの(広い意味での)弟子たちが書いたものなのですから。

回りくどい話になりました。わたしたちが今日から礼拝堂での礼拝を再開するのは、「心と思いを一つにする」ためです。「各自自宅礼拝」が長期化すると、この点が難しくなります。とにかく集まり、顔と顔を合わせて共に礼拝する。それが「教会」です。

礼拝堂での礼拝を再開する「判断基準」があるとすれば、「心と思いが一致しているかどうか」にかかっています。そうかどうかを確認できなくなっていくことが教会にとって最も危機です。インターネットが「共に集まる」の趣旨にぴったり当てはまるかどうかは、今後の課題です。

(2021年9月5日 主日礼拝)

このブログの人気の投稿

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現...

立ち上がれ(2024年2月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「立ち上がれ」 エフェソの信徒への手紙 5章 6~13節 関口 康 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 今日の箇所の中心的な言葉は「光の子として歩みなさい」(8節)です。直前に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と記されています。この箇所で描かれているのは、キリスト者の教会生活の始まる“前”と“後”の違いです。「光の子」は教会生活を営むキリスト者であり、その反対の「闇の子」はそうでない人々です。ただしこの描き方には人の心を傷つける要素があります。今の説明が間違っているという意味ではありませんが、慎重な配慮を要する箇所であることは間違いありません。 「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(6節)、また「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」(8節)とあります。文脈上は明らかに、教会の外にいる人々が「むなしい言葉」を語っているので、その仲間に加わらないでくださいという意味です。しかし、そのように言えば、強い反発が返ってくるでしょう。「教会は、なんと鼻持ちならない人々か。自分たちだけが正しく、他のすべての人が間違っているかのように言う」。この批判には真摯に耳を傾ける必要があります。 別の見方ができなくはありません。それは、「光の子」と「闇の子」を区別することと、教会に属するか属さないかは無関係である、という見方です。日本では「無教会」の方々は、いま申し上げた立場をお採りになります。しかし、その方法では問題は解決しません。少なくとも今日の箇所で言われている「光の子」は「教会の交わり」から離れては存在しません。 ただし、その場合の「教会」の意味は場所や建物ではありません。神の言葉が語られ、聞かれ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの福音を共に信じ、互いに助け合い、さらに聖餐式や愛餐会を通して共に食卓を囲む信徒同士の交わりこそが「教会の交わり」です。 特に最後に挙げた聖餐式と愛餐会は、教会の最も“物理的な”要素です。一例だけ挙げます。今もコロナ禍が完全に収束していると考えている方はおられないと思いますが、とらえ方は多様でしょう。最もひどい状態...

荒野の誘惑(2024年2月11日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 390番 主は教会の基となり 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「荒れ野の誘惑」 マタイによる福音書3章13節~4章11節 秋場治憲 「そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」 (2024年2月11日)