スキップしてメイン コンテンツに移動

新しい戒め(2021年9月19日 主日礼拝)

ご長寿をお慶び申し上げます(2021年度 敬老はがき)
讃美歌21 155番 山べに向かいて 奏楽・長井志保乃さん


「新しい戒め」

エフェソの信徒への手紙5章1~5節

関口 康

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
明日9月20日が敬老の日で国民の祝日です。昭島教会としても、毎年恒例ですが、75歳以上の方に敬老のはがきを今年もお贈りします。

村上明子さんが生けてくださった美しいいけばなの写真と聖書のみことば付きのはがきです。一言メッセージを私の下手な手書きで書かせていただきました。

送り先のご住所とお名前も、ご奉仕くださった方々がそれぞれ手書きで書いてくださいました。75歳以上の方はどうぞ遠慮なさらず、ぜひお受け取りくださいますようお願いいたします。

手書きであるということを強調させていただきました。下手な字よりもワープロの活字のほうが読みやすくてきれいではないかとお思いになる方がおられるかもしれません。それどころか、21世紀なのだから、紙のはがきより電子メールのほうがかさ張らなくていいのではないかというご意見をお持ちの方がおられるかもしれません。

しかし、こういうことを言いながら笑いが止まらなくなっています。すべて冗談です。不謹慎で申し訳ありません。手書きのほうがいいに決まっているではありませんか。すべて活字の手紙などをもらっても、ありがたくもなんともありません。手書きのほうが、気持ちが伝わる、心の思いが伝わる、それは人間として当然のことです。

この話の流れで申し上げておきたいことがあります。それは、このコロナ状況になって以来、昭島教会の新しい取り組みとして、教会のブログと電子メールを活用して、礼拝開始チャイム、オルガンやピアノによる讃美歌の奏楽、教会が毎週発行している週報、そして宣教要旨などを、インターネット経由で電子的にお配りしていることについてです。

手書きの要素は全く無く、すべて活字です。また、物質的な紙ではなく、電気信号を人間の脳が解読可能な文字に変換して、コンピュータやスマートフォンなどの画面に表示する形です。

敬老はがきも、メールに添付したPDFという形でお送りすれば、いけばなの見事に美しい写真を見ていただくことができますし、字が小さくて読みにくい場合は指先でピッと大きくして見ることができたりします。紙ではないので、汚れたり朽ちたりかびたりすることはありません。

しかし、どうでしょう。電子メールで敬老はがきが届いて「うれしい」と思う方がどれくらいおられるでしょうか。ひとりもおられないとは思いませんが、少数派だろうなと思います。

当然です。そんなのが届いてもありがたくもなんともないです。どうしてだと思われますか。私なりの答えですが、その方法であれば送る側の手間が省け、いとも簡単に大量生産できるからです。100人分でも1000人分でも同じ労力で作ることができます。

そんなものが届いて「うれしい」と思うご高齢の方はおられないと思います。大変失礼なことだと思います。冗談じゃない、どれだけの苦労、どれだけの手間をかけて今日まで生きてきたと思っているんだ、それをなんだ、大量生産の画一的な敬老はがきなど送りつけてきて、失礼にも程があると、お叱りを受けて当然です。

週報や宣教要旨をお送りするメールについても全く同じことが言えると、私は考えています。こんな失礼なものを毎週お送りするのは申し訳ないと本気で考えています。しかし、新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、やむをえず始めたことです。

また、メールやブログで伝えるだけで済むなどと決して考えず、太古の時代から人類の歴史において受け継がれてきた最も素朴な方法で直接お伝えすることと併用することで、なんとか補うという考え方を決して忘れてはなりません。表情と共に、口で、言葉で伝えること。今はマスクで口が塞がれているので、目の表情や声のトーンが大事です。

また、紙と鉛筆や筆で、ひとりひとり固有の、だれが書いたか分かるほど個性ある字で伝える。そのようなことが大事です。お体がご不自由で、字を書いたりすることがおできにならない方を責める意図などは全くありません。そんなことを言いたいのではないということは活字では正確に伝わらないかもしれません。しかし、直接お会いして、目と声の表情を伝え合いながらお話しすれば、必ず真意が伝わるはずです。

今日は、エフェソの信徒への手紙5章の1節から5節までを朗読しました。この中で特に今日、敬老のお祝いとの関係で申し上げたいのは、2節に「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」と記されていることについてです。

ここに書かれている意味の「供え物」とか「犠牲」は、ユダヤ教では今でも行っている、動物を屠殺して火で焼いて祭壇に置く儀式のことを指しています。それで分かるのは、供え物から立ちのぼる「良い香り」は、香水のかおりではなく、動物の肉を焼いた薫りのことだということです。

動物ならば「おいしそうだ」で済む話ですが、イエス・キリストの場合はそれでは済みません。イエスさまがお受けになったのは火炙りの刑ではありません。しかし、文字通りの命を献げて、全人類を愛し、弟子たちを愛し、わたしたちを愛してくださっています。

そのイエス・キリストの愛に倣ってわたしたちも互いに愛し合い、愛によって歩むべきであることが勧められています。ということは、互いに愛し合いながら生きていくわたしたちから立ちのぼる香りも、動物の肉が火で焼かれて食用にされるときと同じような性質のかおりであることを想像するほうが正しいということです。

もちろん、すべてはたとえです。実際に自分の体を焼いたりしないでください。そんなことをしてはいけません。しかし、イメージとしては、実際に自分の体が現実の火で焼かれているような痛みや苦しみを味わい、最終的に地上の命そのものが終わるのと同じであるということです。

人生というのは、そういうものでしょう。先輩がたはそのことをよくご存じでしょう。現実の火で現実の体を焼かれているのと同じほどの激しい痛みや苦しみを味わいながら生きていくのが人生であり、逃げ場がないオーブンや鍋の中に入れられて焼き殺されるのと大差ないことを。

それだけの痛みや苦しみを現実に味わい続けて来られた方々だからこそ敬老のお祝いをさせていただきたいのです。それは犠牲の愛であり、息の長い、時間をかけた、熟練した愛です。

その愛を、いとも簡単に大量生産が可能なインターネットのメールやブログ、またすべて活字で埋め尽くされた印刷物で伝えることは不可能です。「これですべて片付いた」と私は全く考えることができません。その方向に突き進んで行ったりは決していたしませんので、ご安心ください。

いろんな制約や苦労を伴う形であっても「対面」で行う礼拝や集会を、これからも重んじます。

(2021年9月19日 主日礼拝)

このブログの人気の投稿

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

天に栄光、地に平和(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 261番 もろびとこぞりて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「天に栄光、地に平和」 ルカによる福音書2章8~20節 関口 康 「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」 クリスマスおめでとうございます! 今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。 天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。 なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。 もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトに

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現代の牧師たちにとって、説教と牧会は「職業ではない