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隣人(2021年9月12日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
  
讃美歌21 510番 主よ、終わりまで 奏楽・長井志保乃さん


「隣人」

ヤコブの手紙2章5~13節

関口 康

「憐れみは裁きに打ち勝つのです」

ヤコブの手紙についての宣教を、昭島教会で過去2回させていただいたことが、手元の記録で確認できました。2回とも2年前の2019年で、その年の9月1日と10月13日です。しかも今日は2章5節から13節までを朗読しましたが、2年前の2019年10月13日に2章の1節から9節までを朗読し、その箇所についてのお話をしましたので、重複しています。

そのときの原稿を読み直しました。それで分かったのは、私の聖書の読み方は変わっていないということです。2年くらいで変わってしまうようでは信用ならない説教者であると言われても仕方がありません。私の信仰がブレていないという意味だろうと、よく解釈しておきます。

この手紙の2章は、新共同訳聖書が「人を分け隔てしてはならない」という小見出しを付けているとおり、《差別》の問題を取り上げています。1節以下に次のように記されています。

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(1~4節)。

ほとんどはっきり言えるのは、これは空想の話や仮定の話でなく、西暦1世紀のキリスト教会の中で現実に起こった出来事についての、あからさまな描写であろうということです。どうしてそのようなことが「ほとんどはっきり言える」と言えるのかといえば、どの時代のどの国のどの教会の中でも実際に起こってきたし、今のわたしたちが全く無関係であると言えるだろうかと自分自身に問いかけてみるとおそらくすぐ答えが出るだろうことだからです。

昔も今も人間は変わっていないし、教会も変わっていません。この箇所に描写されているような状況の中で、人が考えること、行動することに大差はありません。しかし、だからといって、教会の中ですら差別が起こるのはやむを得ないことだと開き直って、それをまるで抵抗しえない運命であるかのように言い張るようなことでもするとしたら、果たしてそれはイエス・キリストの体なる教会なのでしょうか、教会ならざる別の集団へと成り代わってしまっているのではないでしょうかと、わたしたち自身も激しく自問自答すべきですし、ヤコブの手紙の著者ヤコブも、同じ問いの前に立たされていたのではないかと、容易に想像することができます。

昭島教会でこのようなことを私が見かけたことは一度もありませんが、美しい身なりの人には「どうぞこちらへ」と勧められる席があり、そうでない人には(椅子が汚れるから、でしょう)「立っていなさい」と言われてみたり、「地べたに座っていろ」と言われてみたり。そんなとんでもないことは、教会に限った話ではなく全世界の全領域において起こってはならないことですが、百歩譲ってせめて教会の中では完全に否定されなければなりませんが、現実はどうでしょうか。

5節に大切なことが記されています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。

これは、最初にイエスの弟子になった12人の使徒を中心にした弟子集団、そしてまたイエス・キリストの復活と昇天、さらに聖霊降臨の出来事を経て誕生したキリスト教会を指しています。その人々が「世の貧しい人たち」であるというのは、社会的・経済的な意味での貧困層に属していた人々を指します。神はそういう人たちを「あえて」選んだと言われているのは、そこに神の明確な御意志が働いていたという意味です。

もちろん人それぞれの面があるでしょうけれども、教会に初めて足を運び、門をくぐる気持ちになったきっかけが、必ずわたしたちひとりひとりにあるでしょう。「貧しさ」ゆえに現実の生活が立ち行かなくなり、助けを求めて彷徨い、教会にたどり着いたという人もいるでしょう。

しかしまた、その教会自身も、ほとんど同じ境遇の中で、それぞれの個人の歴史の中で貧困を体験し、助けを求めて彷徨って、イエスさまのもとへと、あるいはイエスさまを信じる信仰へとたどり着いた人々の集まりであって、特定の篤志家が築いた財団であるわけでない。教会に援助を求めたとしても、さっとお金を渡してもらえるわけではない。長い年月をかけての地味で地道な助け合いと支え合いの中で各自の人生を立て直していく、その意味での「生活共同体」として教会がある。その事情は二千年の教会の歴史の初めからそうだった、ということです。

そうだったはずでしょうと、ヤコブは読者に問いかけたがっています。「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」(6節)。教会は初心を忘れてしまったのか、と。身なりの良し悪しなどで差別するような集団に、どうしてなってしまったのでしょうか、と。

「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか」(6~7節)とあるのは、当時実際に起こった具体的な出来事を指していると思われます。

イエス・キリストの名を冒瀆する人々が、教会を妨害するための口実を見つけては裁判所に訴えて、教会の活動を妨げる判決を引き出そうとしていたかもしれません。お金が物を言う場合があります。貧しい人たちには太刀打ちできません。そのような妨害者たちが使う手口と、教会がすることと同じでもよいと思いますか、おかしいと思いませんかとヤコブは問いたがっています。

「憐れみは裁きに打ち勝つ」(13節)とヤコブが書いています。この文脈での「裁き」の意味は、裕福な人たちがお金と権力を用いて思いのままに動かす裁判所の判決のことであると思われます。裕福な人たちは自分たちに都合の良い判決を引き出し、弱い人たちを敗訴に追い込もうとするが、人を差別している時点でその人たち自身が重大な罪を犯しているので、神の裁きにおいて敗けているのはその人たちのほうだ、という意味です。

ですから、「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます」(13節)の意味は、支配力をほしいままにして弱い人を虐め、貧しい人を嘲笑したりしてきた人は、神の厳しい裁きを受けるということです。そのようなことをしなければよいのです。神の厳しい裁きを免れるでしょう。「隣人」に対する(良い意味での)「憐れみ」を持つことを決して忘れてはなりません。

わたしたちに直接当てはまることかどうかは各自で考えることです。「耳が痛い」と感じる点があるとすれば、そこがわたしたちの急所です。教会だけが例外であることはありません。

(2021年9月12日 主日礼拝)

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