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からし種のたとえ(2022年2月13日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


「からし種のたとえ」

マルコによる福音書4章21~34節

関口 康

「それ(神の国)は、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

今日の箇所にも、先週の箇所に引き続き、イエスさまのたとえ話が記されています。内容的な関連性もあります。先週の箇所は「種蒔きのたとえ」でした。今日の箇所は、種を蒔く人が蒔くその種そのものについてのたとえです。

内容に入る前に、私に思いつくままの感想を述べさせていただきます。それは、イエスさまのたとえ話の中に先週の箇所の「種蒔きのたとえ」なり、今日の箇所の「からし種のたとえ」なり、あるいは「ぶどう園の農夫のたとえ」(マルコ12章1節)など農業そのものや農場経営に関するものがかなりあるのはなぜだろうという問いです。

それは当時のユダヤ民衆にとって身近な題材だったからというだけでなく、イエスさまご自身が何らかの仕方で農業そのものに取り組まれたか、農業の知識をお持ちだったからではないかということです。あくまで私の感想です。

対照的なのは使徒パウロです。実際にその点について指摘する人の意見を伺ったことがあるのは、パウロには農業の知識がないと言われても仕方がないことが書かれているということです。

それは、ローマの信徒への手紙11章17節以下で、ユダヤ人と異邦人の関係を野生のオリーブを栽培されているオリーブに接ぎ木することにたとえる話です。農業の知識がある人なら、そのようなことは絶対しない、というわけです。

あくまでたとえ話なので目くじらを立てるべきでないと言って済むかどうかは難しい問題です。気になる人にはとても気になるようですので、間違いならば間違いであることを認めたうえで、反省しなくてはならないでしょう。

このことで申し上げたいのは、知識を持つことと、そのことに実際に携わること、そのことについて経験することは、やっぱり違うし、経験が物を言う場面は少なくないことを認めざるをえないということです。

「私も」と言っておきます。私も10代、20代の頃は人生経験の長さや豊かさを振りかざす大人たちが大嫌いでした。年数で敵いっこないのですから、そんなことを持ち出されるのは横暴だと反発する人間でした。しかし、この年齢になってやっと「経験」は大切であると悟るようになりました。だからといって経験年数の長さで若い人を威圧するような真似だけはしたくないと思いますけれども。

さて、今日の箇所ですが、「からし種のたとえ」です。同じ趣旨のたとえが「パン種のたとえ」です。ルカによる福音書13章18節以下の段落に新共同訳聖書が「『からし種』と『パン種』のたとえ」という小見出しを付け、2つのたとえが続けて出てくることからも、趣旨が同じか、少なくともよく似ていることが分かります。

「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる』」(ルカによる福音書13章18~20節)。

「からし種」はマスタードの種です。「パン種」はパン生地に入れる酵母です。共通しているのは、種そのものはとても小さい、ということです。しかし、小さなからし種が大きな木になり、小さなパン種がパン全体を大きく膨らませる、ということです。小さなものの影響範囲は小さくない、ということです。それは良い意味にもなり、悪い意味にもなります。

悪い意味の話は避けたい気持ちになります。感染症の問題はすぐにお気づきになるでしょう。世界のどこか一点から始まったことが全世界に広がりました。悪い例を挙げて「同じように」と続けないほうがよいでしょう。「からし種のたとえ」は良い話です。今から2千年前たったひとりのイエスさまが、ガリラヤ湖の湖畔の漁師の町で、神の国の福音を宣べ伝える働きを始められ、そこで蒔かれた小さな種が、芽生え、育って、実を結び、今日の世界の教会があります。

その話を感染症と結び付けないほうがよいことは明らかです。しかし、いま私が申し上げたいのは「世界と歴史はひとつにつながっている」ということです。

原因と結果を単純に結びつけて数学的・物理的な「因果法則」や宗教的・哲学的な「因果応報」のようなことだけで考えるのは狭すぎます。世界も歴史もボタンを押せばそのとおり動く機械ではなく、必ず人間の意志や感情など、精神的(スピリチュアル)で人格的(パーソナル)な要素が絡んでいるからです。

そのような要素を含めた意味での「出発点」と「現在」の関係が、「種」と「実」の関係であり、それがイエスさまの宣教と、現在の世界のわたしたちキリスト教会の存在との関係です。そのことを世界の歴史が証明しています。

しかし、ここでこそわたしたちが大いに驚かなくてはならないのは、今から数えれば2千年前のイエスさまが、ご自分の宣教活動は「種蒔き」であって、種そのものは小さなものに過ぎないが、必ず大きな木になるとおっしゃったことが、世界の歴史の中で事実になったことでしょう。歴史の中で消えた宗教や哲学は数え切れません。その中でイエス・キリストの教会は失われず、歴史を重ね、今日に至っています。

それはまるでイエスさまが、2千年後のわたしたちひとりひとりの名前を知り、心の中をご存じであり、今日わたしたちが教会に来て礼拝をささげることをご存じであるかのようです。事実、イエスさまはご存じです。「わたしが蒔いた種が結んだ実(み)はあなたである」と、今は天の父なる神の右に着座されているイエスさまが、おっしゃっています。

反面、わたしたちが自分自身に問いかけなくてはならないこともあるでしょう。わたしたちは今から2千年後のことを考えているでしょうか。特に「教会の将来」について。2千年後と言わずとも、せめて20年後でも。あるいは30年後。

「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals)(エスディージーズ)は大事です。「持続可能な教会目標」(Sustainable Church’s Goals)(エス“シー”ジーズ)を考えることは無意味でしょうか。そのことを考えることに意味を見出すことができるでしょうか。それどころではないでしょうか。自分の生活、自分の問題で精一杯でしょうか。

今年11月、昭島教会の創立70周年を迎えます。30年後、どうしたら100周年を迎えられるかをみんなで考えようではありませんか。

(2022年2月13日 聖日礼拝)

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