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仲間を赦さなかった家来(2022年2月27日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

ナザレの村里 
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「仲間を赦さなかった家来」

マタイによる福音書18章21~35節

昭島教会 秋場治憲兄

「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」

 はじめに今日の譬の概略を申しますと、今回の譬も弟子のペテロの質問がきっかけとなっています。ペテロが「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。[1]」それに対して主イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

と答えられた。

 ペテロはユダヤ人で、律法の中で育ってきた人です。ユダヤ人の色彩が色濃く出ています。今、出来上がろうとしている若き教団の中の問題としても考えられます。18章の1節、15節、35節を読んでみて下さい。色々と考えさせられます。今日の譬の中心テーマは、何回赦さなければならないかということです。ペテロは赦しの問題を、数や量で計ろうとした。それに対して主イエスは、七の七十倍までも赦しなさい、と言われた。赦しは深く、広いもので、数量では計られない、と言うのです。

 そこで23節以下の譬が語られます。「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れてこられた。」この人は地方長官のような役柄の人であったと考えられます。この種の行政官には、徴税の権限があったので、徴収した税金を自分のポケットに入れていたのかもしれません。それにしても一万タラントンというのは、膨大な金額です。聖書の巻末にある「度量衡および通貨」表によると、1タラントンは6000ドラクメで、ドラクメはデナリと等価であるとなっています。つまり1タラントンは6000デナリということです[2]。当時のヘロデ大王の年間収入が900タラントンと見積もられていますので、想像を絶する金額であることが分かります。主イエスはこのとてつもない数字によって、どんなことをしても返済できない金額を示しています。

 さらによく読むと「連れてこられた」という受身形が使われています。この家来は、獄につながれていたと考えられます。王はこの家来に、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。」列王記下4:1以下には、債権者が容赦なく子供たちを奴隷に売り飛ばそうとする切迫した状況が記されています。読んでみて下さい。かつて読んだことのある箇所だと思います。イスラエルの法律では妻を売ることは、禁ぜられていましたので、この話は異邦人を例にとったものだという人もいますが、持ち物の一切を売り払って弁済せよ、というのです。

 持ち物の中には奴隷も入っていたと考えられますが、奴隷の値段は平均して、500~1000デナリオンでしたので、到底一万タラントンをまかなう金額にはなりません。従ってこの主人の「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済せよ」という25節は、主人の怒りを現わしていると理解することが出来ます[3]

 「この家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします。』としきりに願った。[4]」(26節)原文では「ひれ伏す」の他にペソーン(崩れ落ちる、倒れる、落ち込む)という意味の分詞が使われています。この家来は崩れ落ち、ひれ伏して主人に願ったというのです。しかも「しきりに願った」(新共同訳)と言うのです。私はこの「しきりに」という言葉が気になり、どんな言葉が使われているのだろうかと調べてみましたが、それらしき言葉が見つかりません。これは「ひれ伏して」(プロスクネオー)というギリシャ語の未完了過去という用法で、「~していた、~しつつあった」という継続的、描写的な様子を伝える用法です。この家来が何度も何度も、いつまでも、しきりに願ったという様子が伝えられています。また「どうか待ってください」という言葉は、直訳すると「私に対して寛大(寛容)であってください」というお願いを表す言葉です。

 27節には「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」というのです。この家来は借金の支払いの猶予を願っていたのに、彼の主君は憐れに思って、借金すべてを帳消しにしたというのです。

この「憐れに思って」という言葉(スプランクニステイス)は受身形の分詞です。「かわいそうに思う」「同情する」「憐れむ[5]」という意味の受身形で、心動かされて、彼の借金をすべて帳消しにしたというのです。この主君の心が動かされたのは、今説明した未完了過去形で表されたこの家来の哀願の姿にあることは、容易に察することができます。この前置きがないと支払いの猶予を願った家来に対して、膨大な借金すべてを帳消しにしたという計らいが浮いてしまいます。この主君はこの家来が返済することは、到底できないことを分った上での寛大な計らいをした。ここには主君のこの家来に対する並々ならぬ思い入れが秘められていたと思われます。この慈悲に対して、この恩恵に対して飛び上がって喜ばない魂があるだろうか。今一度立ち上がって、新たな一歩を踏み出してほしい、それこそがこの主君の願いであり、一万タラントンという膨大な負債を赦した主君の思いだったはずです。私達は先月「ぶどう園の労働者」の譬を通して、たった一時間しか働かなかった者にも、朝から働いた者と同じように支払った実に<気前のいい主人>に出会ったばかりですが、ここでもこの家来の願い以上に配慮してくださる実に<気前のいい主君>に出会うのです。主イエスはこの言葉によって、人間には考えられないような、時には人間の法律に矛盾するほどの神の行為と神の赦しを伝えようとしておられるのです。ここには天地創造に匹敵する、赦しに基づいた新しい世界の創造が、顔をのぞかせているのです。私達は今この世界に招き入れられようとしているのです。神の赦しは無条件でかつ無制限です。

 ところがここで不思議なことが起こった。一万タラントンという膨大な借金を帳消しにしてもらった家来が、たった100デナリオンを貸した仲間をつかまえて、首を絞めて「借金を返せ」と言ったというのです。この仲間は「『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ」のですが、承知せず、その仲間を牢に入れたというのです。ここも未完了過去形が使われていて、その様子を「しきりに頼んだ」と訳出されています。主君の前に引き出されたこの家来が、主君に願った時の言葉と何ら変わるところがありません。たった今膨大な自分の負債が赦されたばかりなのに、それをそっちのけにして、自分の負債に比べれば無きに等しい借金を負う人を責め立てるということは、考えられないことです。しかし主イエスは現にこの譬の中で、語っておられるのですから、こういうことはあり得るというのです。実に恐ろしいこと。主イエスはこの点を指摘しているのです。そしてこの恩知らずの家来は、私達の中にも巣食っているのです。そしてこの家来は100デナリオンを借りていた人を、自分が入っていた獄に入れたのです。

仲間たちは心を痛め、事の次第を主君に報告した。「主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」というのです。「不届きな家来だ。」(新共同訳)は、口語訳では単に「悪い僕(しもべ)、」となっています。これは「邪悪な」「腐った」「悪い」という意味の形容詞です。RSVでは You wicked servant! [6]と訳されています。

また33節の「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」という言葉には、εδει(エデイ)という接続詞が使われています。これは「当然~すべきである」「~する義務がある」という意味の接続詞で、ここでは「当然~すべきであったのに、実際はしなかった」というニュアンスを含んでいます。「当然」という言葉を補い、その言葉に力点をおいて、「私がお前を憐れんでやったように、当然お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と読むべきところです。

そして主イエスはこの譬の結論として「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなた方に同じようになさるであろう」(35節)と結んでいます。

ここで私ははたと困った。ここでは主君は審く人、罰する人になっています。そうすると、この家来の負債のすべてを帳消しにした主君とどう関係するのか。そもそもこの譬を話し出した発端は、ペテロの「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。[7]」という質問に対して、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答え、そこで語られた譬です。神の赦しは無条件で無制限であったはずです。しかしここでは、人間の赦しが、神の赦しの条件になっているとさえ思われるのです[8]。これは最早恵みではない。無条件でもない。七を七十倍するまで赦せ、と言った主君はどこに行ってしまったのか。この審く主君と一万タラントンの負債を帳消しにした主君と、どういう関係になるのか。

今回は何冊かの注解所を読んでみましたが、どうもしっくり来ない。最後にルターのローマ人への手紙講解の12章1節の解説を読んで、ヒントが与えられた。この家来は主人の心を心としなかった、と言うのです。私がお前を憐れんでやったように、そのように自分の仲間を憐れんでやらなかった、というのです。そしてこの家来は「まことの土台、すなわちキリスト[9]」を捨て去った。すなわち、その上に賢い人が建築をするところの固い岩[10]を捨て去り、そして自分の心を心とした。自分のことしか目に入らない、他人のことなど知ったことか、と言うのです。その結果、わずか100デナリオン、一万タラントンの借金に比べれば無きに等しい借金をしていた仲間の首を絞め、動けなくして牢に入れた。この主君が「不届きな家来だ」と言って怒ったのも当然のこと。主君は彼を「借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」私はここを読んでいてこの言葉が、ずっと引っかかっていた。牢に入れてしまったら、借金を返済できないと考えたのです。しかしルターはここでもう一箇所、聖書の言葉を引用しています。神は今、「まことの土台、すなわちキリスト」つまり「賢い人が建築をするところの固い岩」を据えることにより、そしてさらに、偽りの土台、つまり愚かな人が砂の上に建築をするその砂(の土台)を、(マタイ7:26)を粉砕することによって、彼は今ここで「金、銀、宝石をもって上層建築をなし[11]」始めるのである、と。

神は今この悪しき家来が立っている砂の土台を、自分の心のみを心とする土台を粉砕して、キリストという真の土台が既に無償で差し出されていることを知らしめようとされる、というのです。「借金をすっかり返済するまでと」は、この真の土台に気づくまでと考えたい。なぜならこの事に気づかされた時は、すべての借金は十字架上の独り子の上に移されているからです。それまで神は、この家来を牢において、律法の下においてと言い換えることもできると思いますが、その土台を粉砕し続けるのです。そしてこの破壊作業は私達が、真の土台が無償で差し出されていたことに気づくまで継続されるのです。ルターはローマ人への手紙講義の1章1節に、「なぜなら神は、私達を、私達の中にある義によってではなく、私達の外にある義と知恵によって救おうとしておられるからである。[12]という言葉を残しています。

ルターは「実に<既に存在する>この土台を打ち立てようなどと試みるがとき愚かな建築士がかつてどこにあったろうぞ。既に大地に横たわっているのを彼らは探求しもせねば、あるいは提供されたのを採用しもせぬであろうか。それゆえに我々が骨折らずとも大地が我々に土台を差し出しているごとく、キリストは我々を待たず御自身を義・平和・良心の保証として我々に提示しておられる[13]」と言っている。

私達に影のようにつきまとい、切り離そうと思っても決して切り離すことが出来ない暗い影、ルターは清くなろうとして「手を洗えば洗うほど、汚くなる」といっている、この呪縛(のろい)から、あなたを解放してあげようというのです。その為に神の独り子が、私達の代わりにその債務を支払った。その独り子は、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。[14]」と血のような汗を滴らせながら、三度も祈った。その間弟子たちは、過ぎ越しの食事で、お腹一杯になり眠りこけていた。私達の知らないうちに、我らの罪の代価が支払われていた。神の独り子の命と引きかえに。

この事実は中々私達の心に降りてこないのです。何度も何度も聞かされていたはずなのに、心はその横を通り過ぎ、自らの義を叫ぶことに余念がなかった。このことに気づかされるのは、聖霊の助けによるという以外に説明の仕様がない。

私達は「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。[15]」という言葉を、よく知っています。ややもすると求めよ!捜せ!に力点が置かれ、求めるなら、神は与えてくださるはずだ。与えられないのは、求め方が足りないからだ。見出さないのは、捜し方が足りないからだ、と考えがちです。

しかし、今日のテキストは、何とかして与えようとしている神がおられる。何とかして見出してもらいたいと願っている神がおられる。我々の一万タラントンの負債をすべて帳消しにして、そのすべてを独り子の肩に負わせ、徹底的にこれを罰し、滅ぼしたもうた方がおられる。これを聞いて躍り上がらない魂があるだろうか。

今回何冊かの注解書を読みあさる中で、北森嘉蔵先生のマタイ福音書講話を読む機会を得ました。やはり北森先生もこの問題に苦慮した様子がうかがえます。その箇所を紹介致します。とても分かり易く説明しています。

「確かにこの表現様式は、素直にとればそうなるのです。つまり人間の赦しが真剣に考えられないと、神の赦しも考え直されるというふうになっているわけです。  

ところが、この説話の冒頭で七度赦すべきかというペテロに対して、イエスは七度を七十倍するまでと、お答えになったわけです。つまり、徹頭徹尾赦しなさいというのが大前提として語られておりますので、この大前提がずっとこの説話を最後まで支配しているはずです。  

ですからこの譬話によって、徹頭徹尾の赦しが曇らされるということはないはずでして、またあってはならないはずです。そこでいかにも人間の赦しが条件化されているように見えるこの譬話をどう受け取るかということが残されます。

私はこの譬話を次のようにとりたいのです。三千万円ゆるされた人間が、五千円をゆるさなかったことに対する憤り、この憤りということを大事にしたいのです。 表現様式としてはいかにも人間の赦しがなければ、神の赦しもなくなると、とらざるをえないような様式をとっております。ここがどうしても、聖書解釈の求められるところでありまして、わたしはこのばく大な赦しが、些細な赦しを当然求める、そうしてその些細な赦しをも実行しない者に対して、ばく大な赦しを与えた神は憤るのだと、その憤るということを表現して、いかにも神の赦しが帳消しになるかのような形をとったと、つまり表現様式としてはこういう形をとったというふうに解釈したいのです。つまり、憤りの強さ[16]ということです。[17]

神は打ち出の小槌を振るようにして一万タラントンの借金を帳消しにしたのではなく、その為に、神の独り子が代わりにその債務を支払ったのです。この一万タラントンの借金の帳消しは、神の独り子の十字架の死によってもたらされたものであり、この独り子の命を、その神の愛を踏みにじった家来に対する憤りは燃え上がり、一万タラントンの負債の帳消しが、帳消しになるような表現になっているというのです。これは逆に、私達に神の愛の大きさ強さを明らかにしているのだと思います。言い換えれば、神の熱き愛の裏返しということなのだと思います。私達が口語訳聖書で慣れ親しんだ「あなたの神、主である私は、ねたむ神であるから、私を憎むものには、・・・」という言葉は、新共同訳聖書では「私は主、あなたの神。私は熱情の神である。」と訳されています。 

ヤコブが「この御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。[18]」(口語訳)と言った背景には、これだけのことがあったのです。今日の私達に対するヤコブからのメッセージは、「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。[19]」(新共同訳)に集約されるかもしれません。

 それは私達が受けたことの百万分の1でしかないことなのですから。ここには自分自身ではなく、神の御心に重きを置いて生きる、よき音づれに励まされながら生きる新しい人間の創造があるのです。活き活きとした世界、私達を励まして止むことのない世界が、躍動しています。今日のメッセージとして、受け止めたいと思います。[20]

神が最初に発せられた言葉、「光あれ[21]」、英語ではLet there be light 光をしてあらしめよ)この言葉が全聖書を貫いていると言っても過言ではないと思います。

 祈ります。恵み深き父なる神様、私達一人一人があなたの愛の深さを充分に受け止めることが出来ますように。またその愛をすべての兄弟たちに対して実行することが出来ますように。神の独り子が私達の避け所として与えられていることに感謝します。その深い深い愛に、思いを馳せることが出来ますように、聖霊の助けを祈ります。今日のみ言葉にたたえられている豊かな恵みが、語られた言葉を越えて一人一人の心に届けられますよう、私達の救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

余談ですが、先日テレビで久しぶりに映画「ベン・ハー」を観ました。昼食後北京オリンピックの結果を見ようと、テレビのスイッチを入れました。丁度始まったばかりで、三人の博士たちがベツレヘムの馬小屋へ入り、ひれ伏して黄金・乳香・没薬を捧げる場面でした。この映画を札幌の映画館で観たのは高校時代だったと記憶しています。70ミリ映画、総天然色、シネマスコープの大迫力に圧倒されて映画館を後にした時の感動を、今更ながら思い起こし、そのまま見続けてしまいました。

今この話をするのは今回の宣教との関連で、タラントンという金額が映画の中で使われていたからです。この映画の見どころは、何といっても戦車競走の場面です。これは多くの人たちの記憶に残っていると思います。この場面の少し前に、アラブの大富豪がメッサラ(ベン・ハーの幼馴染で、宿敵)に会う場面があります。ここでこの大富豪は自分の馬にはベン・ハーが乘ることを告げた上で、メッサラに掛け率4:1を提案します。メッサラはそれを受け入れます。そしてこの大富豪は自分の掛け金は1000タラントンであると告げます。この時メッサラの顔色が変わります。そして「本気か?」という言葉を返しています。大富豪は「もちろん、多すぎましたか?」と返しますが、ユダヤの司令官としての面子から受け入れます。もし彼が負けたら4000タラントンの負債が生じ、彼は破滅します。彼は何があっても負けられないのです。P.1の註2でガリラヤからペレヤまでの税収が、わずかに200タラントンだとすると、この4000タラントンという金額は天文学的金額であり、如何にユダヤの司令官と言っても簡単に右から左へ動かせるものではありません。もし負けたなら、その時は彼の身の破滅を意味します。そして戦車競走の場面になります。レースが始まります。私の耳に残ったのは、メッサラが自分の馬に対して最初から最後まで鞭を振るい続ける鞭の音でした。彼は追い詰められ最後は、ご存じのように落車して絶命します。ここで私の映画鑑賞時間は時間切れとなり、最後まで観ることはできませんでした。

もしいつか皆様がベン・ハーを観る機会がありましたら、こんなところにも注目して観てみて下さい。この映画に深みを与えてくれる視点の一つではないかと思います。そして一万タラントンという金額が、如何に莫大な金額であるか、そしてそれは私達には返済不可能のものであるかを今日の譬は教えてくれています。


[1] マタイ福音書18:21以下

[2] 聖書巻末の「度量衡および通貨」表による。

[3] 1デナリオンが一人の労働者の一日の平均収入でした。当時ガリラヤからペレヤまでの税収が200タラントンであったことを考えると、莫大な金額であったことが分かります。ペレヤというのはギリシャのマケドニアの町、テサロニケから西に80kmで、パウロはここでシラスと共に伝道しています。(使徒言行録17:10~14)

[4] マタイによる福音書18:26「そこで、この僕はひれ伏して哀願した『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』」(口語訳)

[5] マタイ福音書9:36、14:14にも「憐れまれた」という言葉が使われています。

[6] Wicked [wikid]悪い、意地悪な、悪意のある、という形容詞です。

[7] 七という数字は完全数であり、七回というのは完全に赦すという意味になります。

[8] 「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなた方に同じようにするであろう。」(マタイ18:35)

[9] 第1コリント3:11

[10] マタイ福音書7:24

[11] 第1コリント3:12

[12] ルターは1515年11月3日から翌年9月7日まで約10ケ月にわたってヴィッテンベルク大学の学生たちを前にしてこの講義をしています。ルター自筆の原稿が残っているのは、本講義のみ。この言葉は世界の名著ルターP.409からの引用です。

[13] ローマ人への手紙講解下巻 松尾喜代司訳P.282

[14] マタイ福音書26:39

[15] マタイ福音書7:7

[16] 民数記25:1~18参照

[17] マタイ福音書講話下P.57

[18] ヤコブの手紙1:21

[19] ヤコブの手紙1:19~20

[20] エフェソの信徒への手紙4:30~5:2、コロサイの信徒への手紙3:12以下参照

[21] 創世記1:3

 (2022年2月27日 聖日礼拝)


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