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ゲツセマネの祈り(2022年3月27日 聖日礼拝)


「ゲツセマネの祈り」秋場治憲兄
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 血潮したたる 311番(1、5節)
奏楽・長井志保乃さん、字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「ゲツセマネの祈り」

マタイによる福音書26章36~56節

昭島教会 秋場治憲兄

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはそのかたによって神の義を得ることができたのです」(コリントの信徒への手紙二5章21節)

今日のテキストは主イエスのゲツセマネの祈りですが、本題に入る前に受難週(レント)について少し説明をしておきたいと思います。 

復活日前46日目の水曜日(灰の水曜日[1])が四旬節(しじゅんせつ・受難節・レント)の第1日目となります。カトリック教会では額に灰で十字の印をつけ懺悔の印とします。この時司祭は灰に聖水をかけて祝福し、「あなたはちりであり、ちりに帰っていく」と言って十字の印をつけます。46日から復活日(イースター)までにある6回の日曜日を差し引くと、丁度40日となり、イエスが霊によって荒野へと導かれ40日40夜断食をしたことを覚え、カトリック教国では40日間(四旬節・受難節・レント)の断食または節制が行われています。この期間には肉食を控えたり、一日一食にしたりして節制し、キリストの受難に思いを馳せる期間として比較的厳格に守られているようですが、徐々に現代的な色彩を帯びるようにもなってきています。断食する代わりに、自分が好きな食べ物を節制したり、自分が好きな娯楽を自粛したりするようになってきているようです。節制の代わりに慈善活動をもって代えることもあるそうです。そしてこの受難週に入る前の3~7日間はカーニバル(謝肉祭)というお祭りをして沢山肉を食べ、飲み、どんちゃん騒ぎをして楽しもうというのです。カトリック教国と言ってもそれぞれのお国柄が出ていて面白い。リオのカーニバルはここ二年間は新型コロナウイルスの影響もあり中止されていましたが、今年も中止のようです。

カーニバルという言葉は、ラテン語のCARO(肉)に由来しています。ご存知のようにこの「肉」という言葉は、聖書の中で頻繁に使われています。例えば「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。[2]」その他沢山あります。

また音楽の世界では「マタイ受難曲」とか「ヨハネ受難曲」というのがあります。これはマタイによる福音書又はヨハネによる福音書の受難の記事を歌詞として作曲されたものです。

四つの福音書が聖書に収められていますが、いずれの福音書も最後の一週間の叙述にその約半分を当てています。いずれの福音書記者もイエスの最後の一週間に、ひどく圧倒されたようです。それほどこの最後の一週間のイエスの言葉と行いには、一種の張りつめた雰囲気があったのだと思います。今日の聖書箇所も主イエスの最後の緊迫した場面です。少し長いと思ったのですが、私たちも二千年前のこの場面に、タイムスリップして共にその時の緊迫感を感じられたらと思って関口先生に読んで頂きました。

26章に戻り私が最初に注目したいのは、26章の1節です。「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。」とありますが、「これらの言葉を」とは何を指しているのでしょうか。これはホサナホサナ、主の御名によって来る者に祝福あれと人々は自分の上着を、棕櫚の枝を道に敷き、ロバの子に乗ってルサレムに入城してくるイエスを大歓迎で迎えました。それ以来、神殿で今までになく鋭い語気で語られたすべてのこと、また激しいパリサイ人との論争、また彼らからの攻撃のすべてを指しています。それは21章から25章のすべてを指していると言っていいと思います。

21章から25章の間には、あの有名な「カイザルのものは、カイザルに、神のものは神に返しなさい[3](口語訳)という言葉があります。またかつては律法学者ニコデモと語り教え諭したこともありましたが、ここでは「偽善な律法学者パリサイ人たちよ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。[4]」とか「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか[5]」(新共同訳)という厳しい言葉もあります。

また、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺すものよ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。[6]」という言葉もあります。

また、イエスが弟子たちと共にあの巨大なエルサレム神殿のそばを通った時、弟子たちが偉大なる神殿をイエスに示そうとされた時に、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。[7]」と激しいことを言っております。

実のなっていないいちじくの木を呪った話[8]、燈火をかかげて花婿を迎える十人のおとめの話[9]、主人が預けたタラントンの話[10]と言った話が、矢継ぎ早に述べられています。いずれのお話もとても厳しい言葉で締めくくられています。タラントンの譬えでは、「この役にたたない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」と。十人のおとめの譬えでは、「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない。」など、主イエスの張りつめた緊迫感が伝わってきます。 

ここで26章に来て、イエスは「これらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。あなたがたも知っている通り、二日後は過越し祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。[11]」と言われた。25章までのイエスは福音を述べ伝えてきましたが、26章以下のイエスから私たちは再び公の説教を聞くことはできません。イエスの言葉は弟子たちとの会話やその他個人的な会話に限られてきます。この意味で、マタイの福音書25章までと、26章以下には一つの重大な変化が起こってきます。

つまり25章までのイエスは福音を語ったけれども、26章以下のイエスは福音そのものになろうとしている。もっとつきつめて言えば、福音そのものになるために、イエスの死がテーマになってきます。

しかしイエスが福音そのものになっていくにつれて、神の子イエスは益々私たちの目には隠されていきます。つまり26章以下には、ユダの裏切りがあります。大祭司カイアファの所ではイエスは顔に唾を吐きかけられ、こぶしで或いは平手で殴られ、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ。[12]」と侮辱されています。そしてこの大祭司カイアファの中庭で、ペテロが三度までもイエスを知らないと否認[13]しています。ルカ福音書ではこの時「主は振り向いてペテロを見つめられた。[14]」とあります。またピラトの前でも同じように侮辱[15]されています。更にその先には十字架があります。おおよそ神の子らしくない仕打ちを受けながら、私たちの目には神の子イエスは益々隠されていきます。しかし益々隠されて行きながら、実は神の子たることをまざまざと明らかにしてくるのです。これが26章以下の焦点です。私たちはこの焦点に合わせて、聖書を理解しなければならないと思うのです。

今日のテキスト36節から46節までは、「ゲツセマネの祈り[16]」として有名な箇所です。私たちはこの「ゲツセマネの祈り」から何を学ぶべきなのでしょうか。ルカ福音書には「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」という記事があります。この記事から、主イエスは「祈りの人」であった。私たちもこのように祈る人でなければならない、と言う。これも大切なことです。

しかしこの祈りにおいて学ぶべきことは、単に祈りのモデルということを超えて、もっと深いところにあると思うのです。先に結論を申し上げるなら、ここでは私たちが祈ることができる根拠が示されているということです。

39節の言葉に注目してください。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。』」これは42節にも繰り返され、実に44節においても繰り返されています。39節の言葉を注意してみますと、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られた。私から、自分から遠ざけて、この杯を飲まないですむようにしてください、という意味です。決して早くそれを与えてくれという意味ではありません。「この杯」というのは、言うまでもなく十字架における死のことです。主イエスは十字架で死にたくないというのです。

 私たちはソクラテスの死を知っています。彼は従容[17]として毒杯を仰いだ、とされています。ところがイエスは死の前にたじろいだ。自分から進んで十字架を負えなかった。「だらしがない」と言われても仕方がない。では、なぜイエスはソクラテスのように従容として毒杯を仰ぐことが出来なかったのか。イエスはソクラテスと違って、弁明すべき何ものもなかったのです。ソクラテスは自分の立場を、自分の死を弁解することができました。私たちはその辺の本屋さんに行って、文庫本のコーナーで「ソクラテスの弁明[18]」という本を探し出すことができます。ソクラテスは、自分の立場について立派な弁明をすることが出来たのです。

これに反してイエスは、弁明すべき何ものもありませんでした。後にピラトの前に引き出された時も、弁明は全くありません。彼には何の確かさも、誇りも、ありませんでした。もしイエスにこの自分は罪びとの罪を負うのだという確信があったなら、彼は一人の英雄として、十字架に突進したことでしょう。しかし神は、その独り子を英雄にしようとはされなかった。神はその独り子を英雄ではなくて、あくまでも仲保者とされたのです。仲保者とは義なる神と罪びとである人間の間に立つ者のことです。仲保者とは人間に代わって、その罪の責めを負う者ということです。そして罪人である人間に代わって、義なる神に執り成しをする者、つまり大祭司の役割を果たす者ということです。主イエスは大祭司がイスラエルの民の罪の贖いの為に屠る子羊の代わりに、ご自身を捧げられたのです[19]。この御子によって神の審きは、罪の赦しという姿になって私たちの所に届けられたのです。「神の義は、福音においてあらわれた[20]」と言われることなのです。

イザヤ書53章に、もっと分かりやすい注解を読むことができます。


私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように[21]

この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている。

彼は私たちに顔を隠し、

私たちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのは私たちの病

彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、

私たちは思っていた。

神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは

私たちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

私の咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって

  私たちに平和があたえられ

彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。

私たちは羊の群れ

道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

その私たちの罪をすべて

  主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み

彼は口を開かなかった。

屠り場に引かれる子羊のように

毛を切る者の前に物を言わない羊のように

彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか

私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり

命ある者の地から絶たれたことを。

彼は不法を働かず

その口に偽りもなかったのに

その墓は神に逆らう者と共にされ

富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

彼は自らを償いの捧げ物とした。

彼は、子孫が末永く続くのを見る。

主の望まれることは

  彼の手によって成し遂げられる。

 

主イエスの最後の道行、受難節の注解の章ということもできる。ガラテヤの信徒への手紙3:13以下に「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖いだしてくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている[22]』と書いてあるからです。それはアブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」という言葉があります。つまり神は独り子をダビデ王のような英雄ではなく、仲保者となし給うたのです。人間に代わってその罪の責めを負う者とされたのです。

神はすでにゲツセマネの祈りにおいて、イエスを見放しています。イエスは「父よ、できることなら、この杯を私から・・・」と三度も祈った。しかし、父なる神からの応答はないのです。「求めよ、そうすれば与えられるであろう。叩け、そうすれば開かれるだろう」と言ったその人の願いは、聞き届けられず、開かれず、神はその扉をかたく閉じたまま沈黙しておられる。実のなっていないいちじくの木を呪った時、「あなた方も信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、その通りになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。[23]」と言われた方の祈りは、空しく闇夜に消えていきます。イエスが三度まで祈ったのは、この神の応答を求めたのだと思います。もう一度、今一度、或いは、しかし神からの応答は、ない。全くない。この後十字架の上で、「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」という言葉を残してイエスはこの世の生を終えるのです。イエスは最早神の子ではなくて、呪いの子です。私は若かりし頃この「ゲツセマネの祈り」を読んでいて、どうして神は沈黙しているのか。せめて「わが子よ、しっかりしなさい」の一言が発せられたら、と思ったことがあります。しかしもし神が一言でも語りかけていたなら、神の義は崩れ、キリスト教は救いの宗教にはなっていなかったでしょう。この時より復活の朝に至るまで、イエスと神との関係は、全く絶たれてしまったのです。

ある人は、神はやさしく善を欲し給うのに、どうして主イエスをあんな苦しみに追いやるのか理解できないと言う。神はイエスをゲツセマネにおいても神の子として捨て給わなかったのだ、と言う。こんなことを言うから、福音がぼやけるのです。イエスは神に捨てられ、呪われたが故に、私たちは捨てられず、罪なき者とされているのです。神は今や、イエスを罪びとの頭となし、罪そのものとなし、我らの一切の罪をイエスに負わせ、このイエスを徹底的に憎み、殺すことによって神の義を打ち立てんと欲し給うのです。

「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。」とイエスは三度まで祈られた。イエスが十字架を負うのではなく、神がイエスに負わせ給うのです。イエスは人からも神からも捨てられ、全くの孤立無援の中に捨てられたのです。私たちは恐ろしき断絶をゲツセマネにおいて見るのです。マタイ福音書の26章以下を読むと、何だか神の厳しさに関して鬼気迫る恐ろしさを覚える。

では何故に神は、それほどまでに徹底的な処置を為し給うのか。何故にゲツセマネにおいて、応答なき神としてイエスに対し、彼を捨て給うたのか。この問いに答えるかのように、47節以下にユダに関する記事が続いています。ユダに関しては多くの人が、色々なことを申します。そして何とかつじつまを合わせようとします。今回はそのことに深入りはせず、一つのことに注目したいと思います。49節の「『先生、こんばんは』」と言って接吻した」という言葉です。ユダは親愛の印である接吻をしながら、イエスを裏切るのです。これは神への反逆が、反逆とはおよそ似ても似つかぬ従順と敬虔の姿において行われる、というのです。しかも47節には「十二人の一人であるユダ」という言葉が見えます。マタイ福音書の記者は、率直に、否、むしろ当然のことであるかのように、ユダを十二弟子の一人と見なしています。イエスの直弟子たち全員が、接吻しつつイエスを売り、神に反逆する可能性を持っているのだ、というのです。

この反逆の可能性は私たちの意識の底に、自覚されずにうごめきながら、しかも決定的に人間を縛るというのです。神を崇めながら実は、自分のために神を利用せざるを得ない傾向性を内に秘めている、というのです。自分と自分のものを追い求めるために、一切のものを食い尽くそうとするあくなき貪欲を自分も持ち合わせていることに気づかされ、愕然としてしまう。またユダはイエスと肩を並べて、新しい世界の建設に主導権を発揮しようとしたのかもしれない。

私たちはこのことを単なる仮定のこととして、傍らに押しやってはならないのです。ユダはこの私たちのあくなき貪欲、自分と自分のもののためには、神をさえ利用して止まないその抗い難い力に引き回されている自分に気づかされたのだと思います。イエスが有罪宣告を受けたことを知ったユダは、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。」と言って、神殿に銀貨30枚を投げ込み、首を吊って死んでしまいました。その抗いがたい力に押しつぶされ悲鳴をあげている人間すべてのために、主の十字架が立てられていることにユダが気づかされることはなかったのです。「神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。[24]」ユダがこのことに気づかされることはなかったのです。最後まで自分自身の世界から、外へ向かって手を伸ばすことが出来なかったのです。従って私たちが罪を犯したとしても、また罪の中にあるとしても、それらは罪として算定されず、罪として数えられないというのです。

こう見て参りますと、信仰とは極めて主観的で内面的なものであるという印象を受けます。しかし私たちの信仰が、主観的で内面的なもので終始するなら、ユダと同様に遂にその「救いの確かさ」を確認することはできないでしょう。なぜなら私たちは自分の中にその「救いの確かさ」を見いだすことが出来ないから、主イエスのもとにやってきたからです。以前に猫型の信仰と猿型の信仰について触れた時に、信仰の確かさは、「とらえている」ことの確かさではなく、「とらえられている」ことの確かさなのである、ということをお話ししました。私たちが信ずる神は、主観的で内面的なものというよりは、客観的で具体的な出来事に基づいていることを確認したいと思います。

創世記3:14~15には次のような言葉があります。

 

     主なる神は、蛇に向かって言われた。

     「このようなことをしたお前は

     あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で

     呪われるものとなった。

     お前は生涯這いまわり、塵を食らう。

     お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に

     私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、

     お前は彼のかかとを砕く。」

 

私たちが何度も読んできた創世記三章の一節で、アダムとエバが罪を犯した直後に語られた言葉です。「頭を砕き」は罪の力に対するキリストの勝利を意味し、「かかとを砕く」は、キリストの受難と十字架とされています[25]。犬養道子さんが「『この時の原罪の生み出す不幸から、人間を解き放つ再創造の約束』の節である。[26]」と述べています。アダムとエバがエデンの園で罪を犯した直後に、二人がまだエデンの園にいる間に、すでに十字架の出来事が予告されていたというのです。これは驚きです。善悪を知った二人は、主なる神が園を歩かれるカサカサという音にさえおびえ身を隠す者となってしまいました。この人間を再び新たに創造し、エデンの園に迎えるという約束が、人間が罪を犯した直後に語られているというのは、本当に驚きです。以前に触れたことの繰り返しになりますが、主なる神は罪を犯したアダムとエバにいちじくの葉にかえて破れることのない皮の衣を着せて、エデンの園から送り出されました。「人は我々の一人のように、善悪を知るものとなった。今は、手を伸ばして、命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある。[27]」神が二人を送り出した直後に、真っ先にやったことは、私たちが罪あるままで永遠に生きる者とならないように、命の木に至る道を封鎖されたということです。「命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」しかし今や私たちの一万タラントン罪は、できることなら、この杯は受けたくないと言って祈る方の上に移され、エデンの園にあったもう一本の木、永遠の命に至る木は、ゴルゴタの丘の上に立てられ、私たちはこの方の名のもとに永遠に生きる者とされ、罪が贖われた者とされ、再びエデンの園に迎えられるものとされているというのです。

 ここにきてはじめて私たちは祈りの最後に、「主イエス・キリストのお名前によって、御前におささげ致します」と祈ることができるものとされたのです。この方なしには私たちは、神の御前に立ち得る者ではなかったのです。この方は「できることなら・・・」と三度も祈った後、「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がおこなわれますように。[28]」と祈った後半にあるように、自らを御手に委ねたのです。そして私たちの罪はキリストのものとなされ、このキリストの信仰と従順の義が、私たちの義とされたのです。

 「キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。[29]

「キリストと結ばれている人は、誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは滅ぼされたのである、見よ、ここに新しいものが誕生したのである。すべてはキリストによって私たちをご自分に和解させた神から出ているのです。その神は私たちに和解の務めを与えてくださったのです。[30]

受難節に当たって深く味わいたい聖句です。


祈ります。恵深き父なる神様

 主イエス・キリストによって私たちにもたらされた福音に感謝致します。受難節にあたり、主の苦難の意味を少しでも深く受け止め、御名を讃美することが出来ますように。今まさに悲しみの中にある者、困難に直面している者に

あなたの慰めと励ましの御手がさし伸ばされますように。

ウクライナにおける戦火が一日も早く終息しますように。またこの争いにおいて、核兵器が使われることがありませんように。

主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン。


[1] 英語ではAsh Wednesday(アッシュ ウェンズデイ)と言われています。

[2]ローマ人への手紙8:6

[3] マタイの福音書22:21「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(新共同訳)

[4] マタイの福音書23:27「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」(新共同訳)

[5] マタイの福音書23:33 これはバプテスマのヨハネの言葉でもあります。同書3:7

[6] マタイの福音書23:37

[7] マタイの福音書24:2マルコ福音書13:1~2この神殿はヘロデの政治的野心を動機としてBC20頃着工。AD64頃完工。AD70にローマ軍が破壊した。(聖書辞典)

[8] マタイの福音書21:18~22

[9] マタイ福音書25:1~13

[10] マタイの福音書25:14~30

[11] マタイの福音書26:1~2

[12] マタイ福音書26:68

[13] マタイの福音書26:69~75

[14] ルカ福音書22:61

[15] マタイによる福音書27:27~31

[16] マルコ福音書14:32~42、ルカ福音書22:39~46

[17] 従溶(ショウヨウ)としてとは、「ゆったりと落ち着いた様子」角川漢和中辞典

[18] アテナイ(現在のアテネ)を中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に戦争が起こりました。ペロポネソス戦争です。アテナイ(デロス同盟)の敗北で終結しましたが、その責任を哲学者に転嫁しようとした政界の有力者ア二ュトスの手先だったメレトスが、敗因は哲学者が国家が信じる神々以外を教え、青年たちを堕落させたのが原因としたもの。これに対してソクラテスが弁明したもの。弁明の内容は「ソクラテスの弁明」をお読み下さい。この時ソクラテスは70歳でした。

[19] ルカ福音書22:14~23

[20] ローマ書1:17

[21] 乾いた地に埋れた根から生え出る芽は、弱々しく、勢いもまく、人の目を引き付けるものではない。

[22] 申命記21:23

[23] マタイ福音書21:21~22

[24] コロサイの信徒への手紙2:13~14

[25] ローマ人への手紙16:20「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」(新共同訳)

[26] 「旧約聖書物語」P.101

[27] 創世記3:20~24

[28] 「あなたの御心が行われますように」というのは、私たちが日々祈る「主の祈り」の一節です。

[29] フィリピの信徒への手紙2:8~11

[30] 第2コリント5:17、18参照


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日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で