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喜びに変わる(2022年5月22日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 インマヌエルの主イエスこそ 356番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 動画・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「喜びに変わる」

ヨハネによる福音書16章16~24節

関口 康

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

今日の箇所もヨハネによる福音書です。しかも、先々週の5月8日日曜日に取り上げた箇所からの続きで、今日を含めて3回連続で、イエスさまと弟子たちとの最後の晩餐での「遺言(ゆいごん)」に属する箇所を今日もお話しします。先週の「わたしは真のぶどうの木」とイエスさまがお語りになっている箇所とも同じ文脈です。

わたしたちはやはり「自分と関係ある」と思えることに興味を持ちます。このように申し上げてから続けると「違います」とおっしゃられるかもしれません。先々週の箇所を私がイエスさまの「遺言」としてご紹介したことに強く関心を持ってくださった方がおられました。「自分と関係ある」と思われたからではないでしょうか。

私自身はまだ、自分の「遺言」を書いたことがありません。必要ないかどうかの判断は難しいです。いつ何が起こるか分からない、明日の予測すら難しい、それがわたしたちの人生です。まして今、世界を大混乱に陥れている感染症、世界を巻き込み始めている戦争。「自分とは関係ない」と考えるほうが難しいことばかり。そしてもちろん、わたしたちは確実に1年ごとに年齢がひとつずつ加わります。自然の意味での「高齢化」が無関係な人は、ひとりもいません。

もうすっかり絶望してしまって人生をあきらめる思いで述べる、または書く「遺言」も、きっとあるでしょう。お勧めする意味で言うのではありません。しかし、そういう気持ちになる人をだれが責めることができるでしょう。

しかし、そのような気持ちや考えで述べる、または書くのではない「遺言」もきっとあるでしょう。私は自分で書いたことはないので現時点では想像にすぎません。しかし、そのように言ってよいのではないかと思います。

希望と喜びに満ちあふれた「遺言」があるでしょうか。そうでなければならないという意味で言うのではありません。しかし大切なことは、「遺言」の読者はそれを書く人自身ではないということです。今は話す声を録音したり、ビデオで録画したりすることもできます。しかし、それを聴くのも観るのもその人自身ではありません。

もしそうであれば、「遺言」の目的ははっきりしています。地上に遺される人たちに託すことです。わたしが命がけで守ってきた、愛する人たちを、家族や仲間を、この世界を、そしてこの教会をあなたに託すと明確に意思表示すること、それが「遺言」の目的です。

イエスさまの「遺言」も同じです。イエスさまの意志を、そしてそれは永遠の神の御子なるイエス・キリストを通して表された父なる神ご自身の御心を、あなたがたに託すという意思表示でした。

今日の箇所を一読して分かるのは、イエスさまが弟子たちに繰り返し「悲しみが喜びに変わること」をお語りになっていることです。悲しみは過ぎ去り、喜びが訪れるということを。

特に注目したいのは、20節です。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(20節)。

イエスさまがお語りになっている直接の相手は弟子たちです。「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」と言われているのも、第一義的には弟子たちのことです。

なぜ弟子たちが「泣いて悲嘆に暮れる」のでしょうか。イエスさまとの死別は彼らにとって恩師との別れであり、心の支えを失うことを意味します。しかし、ここで再びブルトマンの註解書(『ヨハネの福音書』日本キリスト教団出版局、2005年)を参照します。「それ〔悲しみ〕は愛する者の喪失や偉大な人間の逝去についての個人的な悲嘆ではない」(455頁)と解説されています。私の乏しい想像力では思いつかない解釈でしたので、とても驚きました。

それでは「悲しみ」とは何か。ブルトマンによると、「むしろそれ〔悲しみ〕は、イエスによって世(コスモス)から呼び出されていながら(15章19節、17章16節)、まだ世にとどまり(17章11節)、世の憎悪にさらされている(15章18節~16章4節a)という世における孤独の状況」です(同上頁。ギリシア文字をカタカナ表記に変更)。

「世から呼び出されている」のは「教会」です。教会が世から孤立していて、世の憎悪にさらされていることが「悲しみ」の意味です。ブルトマンの解説の紹介を続けます。

「世(コスモス)はイエスの退去を喜ぶ。イエスの出現は世の確かさを疑わしくしたからである。世は教会を憎む。教会の実存は躓きの継続を意味するからである。だが教会はイエスに属しているゆえに世における孤独と世の憎悪を引き受けなければならない。まさに教会はイエスに属していて、もう世には属していないからである(15章19節)。それは教会にとって『悲しみ、苦難(33節)、動揺(14章1節)』を意味する。教会の状況は自明なものではないからである。教会は道を見出さねばならない」(455~456頁)。

興味深い解釈です。納得もできます。言われているとおり、イエスさまとの出会いは「世の確かさ」を疑わしくします。世に来られたイエスさまを、世が十字架につけて殺したからです。その事実を目の当たりにし、世に信頼を置けなくなり、真実を求める人々が呼び集められたのが「教会」です。だからこそ「教会」は世から憎まれ、孤立します。それは悲しいことです。

「分かりました。それではその『悲しみ』がなぜ『喜びに変わる』のでしょうか」と疑問を抱く方がおられるでしょう。この点のブルトマンの解釈にも驚きました。次のように記されています。

「その喜びの本質はどこにあるのか。それは恍惚という心霊状態としてではなく、信仰者がもう何も問う必要がない状況として規定されている。次に彼らはもう無理解な者ではないし(17~18節、14章5節、8節、22節)、これまで彼らの状況にふさわしかった問い(5節)は消えている。(中略)そのときイエスはもう彼らにとって謎ではなくなる。だれももう問いをもたない!」(460頁)。

「信仰者がもう何も問う必要がない状況」になることが「喜び」だというのです。そのとおりです。わたしたちも同じ経験をしてきました。わたしたちも、イエスさまを知り、世の確かさに疑いを抱き、真理を求めて生きようとして、孤立する日々です。わたしたちは、義人ヨブが理由の分からない苦難に悶える姿さながらです。「もし神がおられるなら、なぜこれほど人生は苦しく、世界はひどいのか」と問い続けるばかりです。

しかし、そのわたしたちに「もう何も問う必要がない状況」が訪れます。それこそが、わたしたちの喜びであり、希望です。

「もう何も問う必要がない」のは、十字架につけられたイエス・キリストがすべての悩みと苦しみを引き受けてくださる方だと分かり、心から信頼して生きていけるようになるからです。その日がまだ来ていないとしても、これから必ず来ます。そう信じるのが「教会」です。

(2022年5月22日 聖日礼拝)

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