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復活の意味(2022年11月13日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 518番 主にありてぞ
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん





「復活の意味」

ルカによる福音書20章27~40節

関口 康

「すべての人は神によって生きている」

今日の聖書の箇所は、ルカによる福音書20章27節から40節です。この箇所の解説に入る前に申し上げたいのは2週続けた特別礼拝のことです。

先々週「永眠者記念礼拝」を行い、また先週「昭島教会創立70周年記念礼拝」を行いました。出席者は40名と60名。延べで100名。平均すれば50名。今日から通常礼拝です。

2つの特別礼拝に共通しているテーマがあります。しかもそれは70年という長さの歴史を経て来たゆえに共通しはじめたテーマです。「教会の歴史を祝うこと」と「信仰をもって召された先達がたを記念すること」は、全く同じではないとしても、かなり重なってきたということです。

先週「昭島教会創立70周年記念礼拝」で井上とも子先生が宣教で、わたしたちが毎週日曜日の礼拝のたびに唱える信仰告白としての使徒信条に出てくる言葉について解説してくださいました。それは「われは…聖なる公同の教会…を信ず」についてです。特に強く教えてくださったのは、父なる神とイエス・キリストを信じることと等しい重さで「教会」をわたしたちの信仰の対象と受け入れることの大切さです。

わたしたちにとっては、なかなか受け入れにくい教えです。なぜ受け入れにくいかといえば、教会は「人の集まり」だからです。使徒信条の「教会を信じる」は、教会の人々を神と等しい存在として信仰しなければならないという意味なのかと疑問を持つ方々が必ずおられるでしょう。

人間につまずいたから、人間に傷つけられたから、人間に嫌気がさしたから、教会に来ましたという方々がおられます。しかし、教会に来て「教会を信じなさい」と言われるならば、結局は「人間を信じなさい」と言われているのと同じように感じます。

実際に、教会で傷つけられたことがあります。わたしはこれからどうすればいいのでしょうかと絶望の声を聞くことがよくあります。私も理解できるし、共感できます。しかし、そういう方々のために「教会」があります、ぜひ「教会」に来てくださいと申し上げたくて仕方がありません。

今日の箇所にイエスさまとサドカイ派の人たちのやりとりが出てきます。新約聖書に描かれた西暦1世紀のユダヤ教においてサドカイ派はファリサイ派と並ぶ2大勢力のひとつでした。この2つのグループは対立関係にありました。

両者の違いはいろんな点に現われました。そのひとつが「死者の復活」の教えに対する立場の違いでした。ファリサイ派は「死者の復活」を信じていましたが、サドカイ派は信じていませんでした。ファリサイ派が「死者の復活」を信じていたということは、「死者の復活」を信じる宗教はキリスト教だけではなくユダヤ教もそうであることを意味します。しかし、今日の箇所に登場するのは「死者の復活」を信じないほうのユダヤ教のサドカイ派の人々です。

その人々がイエスさまのところに来て質問しているのは、旧約聖書の律法の解釈についてです。しかし、これは明らかに、イエスさまの教えをあざわらうことを最初から意図した質問であると考える解説者がいます。私も同意します。全く可能性がないとは言い切れないかもしれないけれどもいかにも極端な例を持ち出してイエスさまに突きつけて、どうだ、あなたの教えからその例の答えを見出そうとしても無理だろう、矛盾があるだろうとイエスさまに言うために不遜な態度で寄ってきた人たちだということです。

「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というルールは、申命記25章5節に出てきます。古代社会の家族観を反映しているとしか言いようがありません。しかしサドカイ派の人たちが持ち出したのは、いちばん上の兄から順に7人の兄弟と結婚することになり、なおかつどの夫との子どもも生まれなかった、つまりその家族の跡継ぎをもうけなかった女性は、復活したときだれの妻なのかという問題です。

先ほども言いましたが、これはイエスさまをからかうために言っていることなので、真面目ではありません、ふざけています。子どもが生まれるか生まれないか、だれがだれと結婚するかというような問題はきわめてデリケートで深刻な内容を持っているのであって、ふざけてうんぬんしてよいようなことではありえません。

イエスさまもそういう手合いは相手にしなければいいのですが、そうではないのがイエスさまらしさです。きちんとお答えになりました。イエスさまのお答えは次の通りです。

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(34~36節)。

イエスさまがおっしゃっているのは、次のような意味です。

(1)結婚制度は地上の世界だけのものなので、亡くなった人はその制度から解放されている。

(2)なんぴとも、亡くなった後で、地上の世界以外のところで別の人と結婚することはない。

(3)なんぴとも、亡くなった後で、跡継ぎをもうけることはありえない。

私はイエスさまのこのご説明が面白いと思います。ユーモアすら感じます。サドカイ派は下品な態度でからかいに来ているのに対し、イエスさまが誠実さとユーモアがある姿勢で反論されている気がします。結婚制度が地上の世界だけのものだという点は、神の国(天国)においては、男女の関係は兄弟姉妹の関係のようになる、という教えとおそらく関係しています。

なぜ亡くなった後で跡継ぎをもうけないのかといえば、天国に入った人はもう二度と死なないからです。死ぬのは1回きりです。死が繰り返されることはありません。跡継ぎが必要なのは、人が死ぬからです。もう死なないのであれば、跡継ぎは要りません。死んだあとに恋愛したり、失恋したりすることもありません。

そのことと関係してくるのが、イエスさまが28節でおっしゃっている言葉です。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とおっしゃっています。

なぜ神は人を復活させるのかといえば、それが神の本質だからです。神は「生きている者の神」(28節)なので、死んでしまった人と神はかかわることができなくなるので、それでは困るので、神は死んだ人を復活させて、永遠に関係し続けてくださる、ということです。

人間の視点からいえば、特に熱心な信仰の持ち主は、神に仕え、神のために奉仕しつくして、神のために死ぬのが本望だという考えになりがちですが、神の視点からいえば、神は人に生きてもらいたいのです、死んでもらいたくないのです。死んでもよみがえらせてくださるのです。

わたしたちの悩みの多くは、最も身近な人に関するものです。恋人、夫婦、親子、家族、親戚。イエスさまの教えは、わたしたちが悩んで落ち込んでいるときに明るい光を与えてくださいます。

(2022年11月13日 聖日礼拝)

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