スキップしてメイン コンテンツに移動

私たちに父を示してください(2022年11月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 242 主を待ち望むアドベント
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん


「私たちに父を示してください」

ヨハネによる福音書14章1~11節

秋場治憲

「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」

 今日からアドベントが始まります。私たち教会生活を長く送ってきている者にとっては、何の違和感もなくアドベント、レントというラテン語を使っています。ご存じのようにアドベントは待降節、レントは受難節です。レントの詳しい説明は別の機会に致しますが、今回は今日からアドベントが始まりますので、アドベントについて簡単に説明しておきたいと思います。これは昨年のアドベントにも説明したことですが、繰り返します。

ラテン語でad-vento と書きます。ad- というのは、英語の前置詞to に当たります。I go to school (私は学校へ行く)のto(~へ、~を目指して)という意味になります。ventoというのは英語のarrive(到着する、到来する、やってくる)という意味です。合わせると、何かを目指してやってくるというのがアドベントという言葉の意味になります。誰が何を目指してやってくるのかというと、神の子イエス・キリストが私たちを目指してやってくるというのです。サンタクロースのように大きな、大きなプレゼントを、私たちに届けるためにやって来るというのです。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなた方に伝える。[1](口語訳)と御使いが野宿をしていた羊飼いたちに語っています。ではこの大きな喜びとは何か。それは、ガラテヤ人への手紙にあるように、「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。それは律法の下にある者をあがない出すため私たちに(神の)子たる身分を授けるためであった。このように、あなた方は(神の)子であるのだから、神は私たちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送ってくださったのである。[2]」とあるように、それは私たちに「神の子としての身分を授けるため」であり、「律法の下からあがない出すため」である。

しかしこの我らにとって「大きな喜び」、「よきおとずれ」「福音」となるプレゼントは、神の御子の十字架上での命と引き換えに我らに与えられるものであるということを我らは知っています。我らの罪が御子に着せられ、御子の義が我らの上に着せられるというもの。姦淫の場で捕らえられ、主イエスの前に引きずり出された女に、「我も汝を罰せじ」と言われた時、モーセの律法に定められた刑罰を代わって受けられた方、この捕らえられた女の罪を引き受けられた方、この方が我らを目指してやってくるというのです。主イエスはこの罪の女に、あなたの暗い過去は全部私が引き受けるから、すべて私のもとに置いて行きなさい。あなたは自由だと言われるのです。こういうプレゼントを我らに授けるためにやってくるというのです。心して今日からの4週間を過ごしたいと思います。そして感謝と賛美を高らかに歌いながら、この御子の誕生を祝うクリスマスを迎えたいと思います。

 私たちは10月30日に「永眠者記念礼拝」を持ち、信仰を持って天に召された143名の方々に思いを馳せ、感謝する礼拝を持ちました。また次の週11月6日には「昭島教会創立70周年」を井上とも子牧師の宣教とチェロ演奏により、またインドネシア教会の9名の方々による「叫べ全地よ」という力強い讃美歌によって祝い、励まされ、創立以来主イエスがこの教会の基として、また頭として導いて来られたことを再認識し、それぞれの信仰に確固たる基盤を与えられました。私たちはこの客観的な事実から離れてはならないと思います。確かにこの七十年という歳月の間には、様々な困難があり、教会が迷走した時、思い惑う時があったことでしょう。決して順風満帆の日々ばかりではなかったでしょう。しかしその暗雲たちこめるなかを導かれて今日に至っているという教会の歴史は、それだけで私たちが現在の、そしてこれから直面する様々な問題に対して、同じように教会の基としての主イエス・キリストが導いておられることを信じ、信仰をもって決断していくための力となり、また励ましとなって我らを支えてくれることでしょう。

ゼロから始められた昭島教会が、七十年という歳月を経て数えきれない人々が連なる大木に成長し、143名もの信仰の先達たちを御もとへと送り、今なおその成長を続けている。私たちは創立70周年を迎えて、この事実の上に私たちの信仰の基盤を据えたいと思います。昭島教会の基として、頭として、主イエス・キリストが導かれるのでなければ、このような偉業を成し遂げることは出来ないことです。

「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれも私のもとへ来ることはできない。私はその人を終わりの日に復活させる。[3]

「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を、一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。[4]

私たちが主イエス・キリストのもとへと導かれ、信仰が与えられているのは、父なる神の御計画と、導きによるものであり、御子主イエス・キリストはその我らを終わりの日に、一人も失うことなく復活させることが、父なる神の御心であると断言しています。これは決して死が、陰府が、私たちが行きつく最終的な現実ではないということを伝えている言葉です。私たちは先に甦らされた主イエスが、直接父なる神のみもとへ昇ったのではなく、父なる神の特別の配慮により、この歴史上にその姿を現し、実になりふり構わず、マリアに、トマスに、弟子たちに「見よ、私は生きている」ということを伝えようとされたことを学びました。

復活の出来事というのは、アドベントの極まったところ、「神、我らと共にいます」というメッセージがただに我らの今生においてだけでなく、死して葬られ陰府にまで我らと共におられ、我らが神の子と共に甦らされるということが我らに知らされた出来事であった訳です。そのことを今一度弟子たちに伝えて、天に昇り行き、父なる神の右に座し、日夜私たちの日々の祈りを執り成しながら、聖霊を遣わしてその聖徒たちを今なお励まし続けておられる。これが私たちの信仰告白です。

 今日のピリポに入る前に、少し前回の復讐をしたいと思いますが、ピリポという名前はギリシャ名で、アレクサンダー大王のお父さんに因んで名づけられた名前であることを学びました。このピリポ、ギリシャ文化、言い換えればヘレニズム文化に多分に影響を受けて育てられた節がある。それは観念的であり、分析的であり、理性的でありそして正確です。弟子の一人アンデレがその兄ペテロに、イエスを紹介した時には、「私たちはメシアに出会った。[5]」と言っただけでしたが、ピリポはその友人ナタナエルに「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。その方はナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。[6]」こんな紹介をした弟子は他にはありませんでした。この言葉を聞いただけで、ピリポと言う人の考え方、性格まで分かろうというものです。

 五千人の給食の場面では、主イエスは、このピリポを試みるために、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。私は長い間この「ピリポを試みるために」という言葉の意味が分からなかった。なぜなら主イエスがピリポを試みた結果らしきものが、まったく見当たらなかったからです。一体ピリポの何を試みられたのか。しかし長い間聖書を読んでいますと、このピリポの答えの中にその答えが隠されていることに気づかされた。ここでピリポが為したことは、二百デナリオン分のパンでも足りないというソロバンをはじいただけ。そして不可能です。無理ですという結論を出しただけでした。そしてこれで終われば何も始まらないのです。主イエスは理性の人ピリポに、そのことに気づかせようとされたのです。これは我々誰もが大なり小なり持ち合わせている特性ですが、弟子たちの中では特にピリポにおいて顕著な傾向でした。その教師役として一人の子供とペテロの弟アンデレが登場します。少しでもお役に立ちたいという五つのパンと魚二匹をもった子供とそれをイエスの前に差し出し、「でもこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いながらでも、それをイエスの前に持ってくるアンデレには何とかしたい、しようという思いがあり、計算だけして不可能だという結論を出したピリポとは何かが違います。

 私たちは私なんかとか、こんなことしかできない、何もできないと言いがちです。我らの目には「何の役にも立たない」「こんなこと」と思われることを、主イエスはそれで十分であると言わんばかりに、人々を座らせなさいと言われた。「こんなこと」「何の役にも立たない」と思われたものが、主イエスの手に渡されると、五千人が満腹し、更に余りがあったというのです。我らの信仰の先達たちも決して有り余るほどの才能と力量をもってこの教会を守って来た訳ではありません。いつも五千人を前にして五つつのパンと魚二匹しか持ち合わせていなかった。しかしこの五つのパンと魚二匹を主イエスの前に差し出した時、主イエスはそれを手に取り、祝福して教会に返して下さった。信仰の先達たちはみんな自分に与えられている五つのパンと魚二匹に感謝することができたのです。何の役にも立たないと思われた物に感謝することができたのです。私たちはこの奇跡を、私たちの教会の歴史において確認したところです。我らはこれら信仰の先達たちに励まされながら、誇りをもって「こんなこと」「何の役にも立たない」かもしれないことを為し、主イエスの御前に捧げるものでありたいと思います。

そこで今回のテキストに入ります。この出来事は「最後の晩餐」の席での出来事です。トマスとピリポが、イエスに問いかけています。これに先立って主イエスご自身が腰に手拭いをぶら下げて弟子たちの足を洗うということがあり、ユダの裏切りを予告し、ペテロの離反を予告しています。そして今日の14章になります。ヨハネ福音書では13章の31節から14章、15章、16章と主イエスの長い説教が続き、そして主イエスの逮捕へとつながっていきます。13章31節から16章の終わりまで、「訣別の説教」と言われたり、「告別の説教」と言われているものです。主イエスの遺言ともいうべき言葉が、自分亡き後の弟子たちの置かれるであろう状況に対する並々ならぬ配慮が綴られています。

 今日のテキストはその一場面での出来事です。「あなた方は心騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」と言われる。

弟子たちはいつもと違う主イエスの様子に、戸惑いを感じています。この出来事に先立つ13:33には「子たちよ、いましばらく、私はあなた方と共にいる。あなた方は私を捜すだろう。『私が行く所にあなた方は来ることができない』」という言葉も弟子たちを不安にしています。しかし、主イエスが彼らの前からその姿を消すということは、私たちのために天にその居場所を用意するためであると言われる。そして場所の用意が出来たなら、あなた方を迎えよう。私のいるところに、あなた方もおらせるためであると言うのです。

 主イエスの言葉は更に続きます。「私がどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている。」と言われる。するとすかさずトマスが「主よ、どこに行かれるのか、私たちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。」と単刀直入に問いかけます。この「主よ、どこに行かれるのですか」という言葉はクオ ヴァディス ドミネ というラテン語で映画にもなり、私たちにも耳慣れた言葉になっています。この問いかけに対する主イエスの答えが、またよく知られた「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」というもの。これは以前にもお話ししたことがありますが、これは新約聖書における六つのεγω (エゴー)ειμι(エイミ)~エゴーエイミ構文と言われるものの一つです[7]ειμι というのは英語のBe動詞で「~である」という意味ですが、ギリシャ語ではこのBe動詞ειμιに主語のI(私は)が既に含まれています。だから通常主語を強調する時でなければ、Iεγω)という主語を並記することはありません。それどころか、そのBe動詞が十分推察される時には、省略されるのが普通です。例えば甦られた主イエスが、ユダヤ人たちを恐れて扉に鍵をかけ閉じこもっているところに現われて、「あなた方に平安があるように[8]」と語る場面がありますが、原文ではειρηνη (エイレネー 平安が)υμιν(ヒューミン あなた方に)とあるだけで、Be動詞は省略されています。その結果このBe動詞を我々が聞きなれているように「あるように」と理解する読み方と「ある」と断言する読み方が出てきます。これはまた別の機会に譲ることにして、このエゴーエイミという強調構文は、この私以外に道は、真理は、命はないと断言している言葉になります。他ならぬこの私こそが道であり、真理であり、命であるということを極めて強く強調している言葉なのです。他には無いという意味が込められています。

 そして更に主の言葉が続きます。「あなた方が私を知っているなら(現在完了形)、私の父をも知ることになる(未来形)。今から、あなた方は父を知る(現在形)。いや、既に父を見ている(現在完了形)[9]」この主の言葉に今度はピリポが蛮勇を振るってイエスに問いかけます。「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します。」この質問はユダヤ人たる者は、決して口にしてはならない問です。ここで使われている「示す」という言葉は、「提示する」、「見せる」という意味の言葉です。例えば荒野の誘惑において、サタンはイエスを「非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もしひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。[10]」この「見せて」というのが、「示してください」と同じ言葉が使われています。更に挙げれば「そう言って、手と脇腹とをお見せになった」これも同じ言葉が使われています。ここのピリポの問いかけを「主よ、私たちに父を見せて下さい」と訳すこともできます。実際小林稔訳[11]はそう訳しています。しかしピリポにはこの言葉の意味が分かりません。父なる神を見たことなどないのです。つまりピリポには主イエスが「アバ、父よ」と呼びかけるような、父なる神との関係、親しさ、一体感の経験がないのです。頭では理解していても、そこに自分の存在を委ねることができないのです。信仰の一歩を踏み出すことができないでいるピリポが、蛮勇を振るって主イエスにした問いかけです。ユダヤ人たちは母親の母乳をいただきながら、律法を学ぶとさえ言われています。子供のころからモーセ五書を暗記するまでに覚えさせられて育てられます。神の存在は大前提であって、それを問うことは万死に値することでした。それを十分承知した上でのピリポの問いかけです。

 このピリポに対して、主イエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられることを信じないのか。私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。[12]

 ここで主イエスはピリポに対して、どうしてお前は信じないのか、不信仰な奴だ、と排除することはしていないのです。主イエスはピリポが万死に価する問いを発してきたピリポに、限りなく寄り添うのです。信仰の一歩前で足踏みをして、苦悶しているピリポを受け止めるのです。そしてもし私を信じられないなら、私が為してきた業を、あなたが自分の目で見てきた私の業を検証してみなさいというのです。 「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。[13](口語訳)というへブル書の言葉がありますが、これは理性の人、科学的な人、常識の人ピリポにはまだハードルが高すぎる。否、ハードルは低い、否、ハードルは無いのです。それは既にピリポに与えられているのです。しかしピリポ自身が自分の内にハードルを設けて、それを乗り越えられないでいる。主イエスはこのピリポに助け船を出すのです。現実にあなたが見てきた事実を、あなたの目で検証してみなさい。そうすれば、私が父におり、父が私にいることを悟ることができると言われるのです。私に来る以外に道も、真理も、命もないと断言した主イエスは、その私に来るための道筋を、理性の人、科学的な人、ヘレニズム文化の中で育ってきたピリポにも納得できる道筋を示しておられるのです。客観的な事実を検証してみなさいと言われる。これはピリポが、その友人ナタナエルにイエスを伝えた時、「ナザレから何かよいものがでるだろうか。」と疑問を呈するナタナエルに、「来て、見なさい。」と答えています。律法に従えば「異邦人のガリラヤ[14]」からは、預言者が出ないというのです。そのナタナエルに来て、自分の目で確かめなさいと答えたピリポに、主イエスも私が為してきた客観的な事実をあなたの目で検証してみなさいと言うのです。

 私たちは丁度創立70周年を迎えていますが、何もないところから始められた昭島教会が、多くの人々の止まり木として成長してきたこの客観的な事実を検証してみるなら、この教会の中心に御子主イエス・キリストがおられ、この御子を私たちに証して止まない聖霊が忙しく活動しており、父なる神の御計画のもとに導かれていることが分かるはずであるというのです。

 私はこの理解を与えられた時、この問いを発しているのはピリポという名前の私自身ではないかと思ったのです。そしてこの不信仰な私が受け止められていることを知り、深い安堵感に包まれ、素直に「主よ、信じます。信仰なき我を助けたまえ。」と祈ることができたことを覚えています。

 主イエスのこの答えに、ピリポは沈黙しています。そしてこの沈黙をもって、聖書はピリポという人への言及を終えています。しかし私はピリポもかくも不遜な問いかけをした自分が、主イエスによって受け止められていることに深い安堵感と慰めを与えられ、私同様にいつの日か「主よ、信じます。信仰なき我を助けたまえ。」という告白をする人へと導かれたことと信じています。

 アドヴェントとはどこまでも我らと共に歩まれるこの神の御子が、私たちを目指してやってくるということ。私たちのもとへとやって来て、我らの内に住み、我らと共に歩まれる。ただにこの今生においてだけでなく、死して葬られ陰府にまでも共にあり、そしてこの御子とともに甦らされ、御子のおられる所に永遠に共に住むものとされるというのです。この方を「インマヌエル(神、我らと共におられる)」と現したのは、実に名言であると思います。このインマヌエルの意味を、もっともっと掘り下げて理解し、この方と共に歩むものとされたいと願うものです。聖書のすべての言葉は、この方を証しているのです。クリスマスまでの4週間心して聖書に学ぶものでありたいと思います。


[1] ルカ福音書2:10

[2] ガラテヤ人への手紙4:4~6

[3] ヨハネ福音書6:44

[4] ヨハネ福音書6:39

[5] ヨハネ福音書1:41

[6] ヨハネ福音書1:45

[7] 私はよき羊飼いである」「私は甦りであり命である」「私は世の光である」

など。この「私は」という言葉を、「他ならぬこの私こそが」と強調してよんでみると、また新たなニュアンスを読み取ることが出来ると思います。 

[8] ヨハネ福音書20:19

[9] ヨハネ福音書14:7(口語訳)「もしあなたがたが私を知っていたならば、私の父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」

[10] マタイ福音書4:8

[11] 新約聖書翻訳委員会訳 岩波書店

[12] ヨハネ福音書14:8~11 同書10:37~38

[13] へブル人への手紙11:1

[14] 「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。(ヨハネ福音書7:41)「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」(ヨハネ福音書7:52)

(2022年11月27日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で