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奇跡を行うキリスト(2021年2月14日 各自自宅礼拝)

牧師館書斎

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マタイによる福音書14章22~36節

関口 康

「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」

昨夜の大きな地震には驚きました。23時8分、福島・宮城沖で発生したとのことです。教会は大丈夫でしたが、皆様はいかがでしたでしょうか。ご無事をお祈りしています。

今日の聖書箇所に登場するイエスさまの弟子たちも恐怖に怯えていました。それは湖に浮かぶ舟の中での出来事でした。

よく知られているように、イエスさまの弟子たちの中には何人か、元の職業が漁師だった人がいました。舟を漕ぐことのプロフェショナルが揃っていたと言えるでしょう。しかし、その彼らを悩ませるほどの逆風と波が襲いかかってきました。それが夕方から始まり、夜明けまで続いたというのです。

すると、夜が明けるころイエスさまが「湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(25節)というのです。通常はありえないことです。しかし、そのようなことが本当に起こったと、今日開いていただいているマタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、ヨハネによる福音書にも記されています。

「こういうことが書かれているから聖書が嫌いだ」とおっしゃる方がおられます。昭島教会の皆さんの中におられるという意味ではなく一般論です。ウソとしか言いようがないことがまるで本当に起こったかのように書いてある。おいそれと信じられるわけがないではないか。どうしてこんなことをクリスチャンは真顔で信じていられるのだろうと。そういう感想をいろんなところでよく聞きます。私もだいたい同じ気持ちです。すんなり受け入れられる内容ではありません。

もちろん、それはそうなのです。しかし、大事な点を見落としてはならないと私は思います。私が思い出す言葉は、英語で言えばDon't throw the baby out with the bathwater.という欧米圏で知られる有名な格言です。

それは「産湯と一緒にその中の赤ちゃんまで流さないでください」という意味です。どこの国の、どの時代の、だれが最初に言ったかは不明だそうです。しかし、この言葉が聖書の奇跡物語に当てはまります。書かれていることを信じられないからといって書かれている言葉に含まれている大切なことまで捨ててしまうのは勿体ないです。

はっきりしているのは、今日の箇所に描かれているのは、嵐の湖上で孤立して怯えながら一夜を明かした弟子たちのところに、何がどうなってそうなったかを説明するのはものすごく難しいことだけれども、そういうことはすべて脇に置いて、とにかくイエスさまが来てくださり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)という言葉で励まし慰めてくださった出来事である、ということです。

そんなことを脇に置けるわけがないだろうとお考えになる向きがあることも当然理解できます。私もほとんど同じ気持ちです。しかし、この箇所に描かれているのと同じようなことが、わたしたち自身の現実の中でも、意外なほど、不思議なほど起こるということも、わたしたちは同時に知っていると思います。

なにがなんだか分からないけれども、とにかく助けられた。「一寸先は闇」の状況まで追い詰められたけれども、どっこいまだ生きている。あせって、乱れて、狂いそうだったけれども、心が落ち着いた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という、どこか懐かしくて温かい声が聞こえた、または聞こえたような気がした。それで我に返った。正気になった。冷静になることができた。そういう瞬間をわたしたちは体験するし、してきたのではないかと思います。

それが誰の声かは分かりません。もしかしたら自分自身の声かもしれませんし、家族の声かもしれないし、教会の仲間や牧師の声かもしれません。むかし学校で教えてもらった先生の声かもしれません。

しかし、それはだれの声でもいいでしょう。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われ、それで本当に心が落ち着き、「もうこれ以上は無理だ」とあきらめることをやめて、冷静な舵取りを再開し、向こう岸にたどりつくことを、自分の力だけで成し遂げたとはどう考えても言えないような仕方でやってのける。「終わりよければすべてよし」というような軽い話ではないと思いますが、とにかく要するに、まだ生きている、自分の足でまだ立っているという状況まで至れば、それでよいのです。

今日の箇所に書かれていることからだいぶ離れて、いいかげんなことを話しているようで申し訳ありません。ペトロがイエスさまに、自分も湖の水の上を歩きたいと言い出して、「来なさい」とイエスさまがおっしゃって、実際に水の上を歩き始めたけれども、強い風に気がついて、怖くなって、沈みかけたので「主よ、助けてください」とペトロが言ったら、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエスさまに叱られた、というような話が続いています。

こういうのも面白おかしく読めばよい、というのは不謹慎な言い方かもしれませんが、「お話にならない非科学的で荒唐無稽な虚偽の記述である」と、しかめっ面で拒否するよりはましです。これも先ほどご紹介した「産湯と一緒に赤子を流すな」です。

ここに書かれていることの意味を考えるとしたら、ペトロは自分にもイエスさまと同じことができると思い込んで、自分の力に頼って、イエスさまの真似をしようとしたらできなかった、ということでしょう。「信じる」とは自分の力に頼ることの正反対を意味する、ということでしょう。このことさえ分かれば、この物語が読者に伝えようとしていることの目的は達成しているのです。あとのことはどうでもいいとは言いませんが、奇跡物語が苦手で聖書全体を捨ててしまうよりはましです。

私の話はしないでおきます。「先生、まだ若い」と皆さんからよく言われます。学校の生徒たちからまで言われます。人生体験を語る資格はありません。皆さんのほうが余程ご存じでしょう。あのとき危なかった。大怪我をしたけれども、まだ生きている。奇跡だとしか言いようがない。焦る気持ちの中で「安心しなさい」と、私を落ち着かせてくれる声が聞こえた気がした。

その体験がおありでしたら(きっとあるでしょう)、今日の聖書の箇所の意味が分かるはずです。わたしたちをいつも見守り、助けてくださるために、身を乗り出して来てくださる方がおられることを信じてよいのです。今ここに、各自自宅礼拝に、主が共におられるのです。

(2021年2月14日 各自自宅礼拝)

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