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荒れ野の誘惑(2021年2月21日 各自自宅礼拝)

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讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を オルガン奏楽・長井志保乃さん

週報(第3555・3556号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

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マタイによる福音書4章1~11節

関口 康

「すると誘惑する者が来てイエスに言った。『神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。』」

今日の午後、定例役員会・運営委員会を開きます。その中で通常礼拝再開のタイミングを協議します。協議を経る前に私が強い意見を持ちますと、自由な発言の妨げになりますので、それは控えます。しかし、ある程度は客観的な状況についてお話しすることは可能でしょう。

私は今でも週3日は朝早く電車やバスに乗り、2つの学校で聖書を教える授業をしています。行きも帰りも多くの人が、電車やバスに乗って移動しています。どちらの学校にも多くの生徒と先生が毎日集まっています。生徒は学校で昼食を食べています。もちろんすべての場所で対策がとられています。教会だけが極端に危険であるということはないでしょう。私に分かるのはその程度のことです。方針が固まり次第、皆様にご連絡いたします。

今日の聖書の箇所に記されているのは、教会生活が長い方にとっては何度聞いたか分からないほどよく知っているとお感じになるに違いない内容です。イエスさまが宣教活動をお始めになる前に、荒れ野で悪魔の誘惑に遭われたときの出来事です。

しかし、イエスさまが悪魔の誘惑に遭うとは具体的に言うと何のことでしょうか。その問題については私も毎回悩みます。皆さんはお分かりですか。人間でもなく野獣でもなく神でもない、怖い鬼のような顔の悪魔が歩いて来て、イエスさまに話しかけてきたのでしょうか。そうだったのかもしれませんが、そうでなかったかもしれません。

いえいえ、全くそういう話ではなく、イエスさまの心の中の葛藤のようなものだ。それを物語風に説明しているだけだ。つまりこれは、現代社会の中で高度に発達してきている心理学のようなことで十分に説明できる心理的な出来事である、という考え方もありうるでしょう。

私はどのように考えるか。どちらかというと今申し上げた二つのうち、あとのほうに近いです。イエスさまの心の中の葛藤のようなことではないかと考えます。ただし、イエスさまをあまりにも私たちと同じ人間としてとらえすぎて、イエスさまも選択肢をひとつ間違えば悪魔になる可能性もありえたかのように考えるのは、方向を間違っているような気がしてなりません。

しかし、この出来事をイエスさまの心の中の葛藤のようなこととしてとらえることにメリットがあります。それは、イエスさまが荒れ野で受けられたのと同じ誘惑を、わたしたちも受けるし、今も毎日のように受け続けているかもしれないことに気づかせてもらえるメリットです。

イエスさまがお受けになった3つの誘惑は、第1に「石をパンに変えること」、第2に「神殿の屋根から飛び降りること」、そして第3に「悪魔にひれ伏して世界の支配者になること」でした。それぞれの誘惑が何を意味するかは分かりません。マタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも同じ話が出てきますが、どれにも誘惑の意味は記されていません。記されていないということは、わたしたちがそれを解釈しなくてはならないということです。

石をパンに変えることができれば、自分自身だけでなく多くの人の利益になるので、みんなが喜んでくれるでしょう。そしてそれは、考えてみれば完全に不可能なこととは言い切れません。ダイヤモンドは石でしょう。あの石に値段をつけて売れば、相当なお金になるでしょう。それでパンを買って困った人に差し上げることができるでしょう。そのような意味のことが今日の聖書の箇所に記されていると、いま私が申し上げているわけではありません。「石をパンに変えることは絶対に不可能だろうか」という問いを立てて、その答えを考えてみているだけです。

神さまを信じているなら、神殿の屋根から飛び降りても、神さまが助けてくださるだろうから、試しにやってみる。そのことも、できるかどうかを言うなら、できるでしょう。そこが「神殿」でなくても、また「飛び降りる」というような口にしたくないことでなくても、あえて危険なことをしてみせて、何とかなるだろうと高を括る。それを「勇気」とか「信仰」とか呼ぶ。しかも悪魔はその危険行為を自分でするのではなく、イエスさまにさせるのです。使役するのです。

悪魔にひれ伏して世界の支配者になる、というのは、よくあることとまでは言わないにしても、人生経験を重ねて来れば、全く身に覚えがないとは言えなくなるでしょう。会社で出世したくて、社会で成功したくて、ライバルを蹴落とした、蹴散らした。ずるい方法も使った。越えてはならない一線を越えた。すべては自分の地位を守るため、財産を守るため。

イエスさまは、困った人にパンを差し上げることをなさいました。どんなことがあっても必ず助けてくださる神さまを信じて、冒険的なことをなさることもありました。そして、イエスさまは真の意味での世界の支配者になられました。クリスマスもイースターまでも世界中のどの国の人も、日本でも祝うようになりました。その意味を分かっているかどうかは深く問わないでおきましょう。どちらもイエスさまの生涯とかかわります。そのお祝いを世界中の人が今しています。

しかし、イエスさまは、今あげた3つの働きのどれについても、悪魔にひれ伏して手に入れたような方法でない、全く正反対の方法で成し遂げられました。その方法とは何でしょう。イエスさまがなさったのは、安息日ごとに会堂に集まって、礼拝をささげ、み言葉を語ることでした。それが宣教です。そして、お祈りと賛美をおささげになりました。そして、そのうえで、み言葉に耳を傾ける人々と共に生き、慰め励まし、病気の人をいやされました。

しかし、み言葉を語れば語るほど、反対する人たち、反発する人たちも増えて来て、その人々からの憎しみや怒りを買うようになり、とうとう十字架につけられて殺害されました。

もしイエスさまが、もう少しずる賢い方で、「うまく生きていく」すべをご存じなかったわけではないでしょうけれども、それを現実に実践し、人を人とも思わないような高圧的な態度で周囲を踏みつけるタイプの支配者だったとしたらどうだっただろうと考えてみることは、無意味ではないかもしれません。そのように考えた結果については言いません。各自で考えてみてください。

そして、それを考える際に、「教会」が「安心できるところ」であるともしわたしたちが感じるとすれば、どこにそれを感じるのだろうかということも、考えてみていただきたいです。

私の答えを言います。「教会」が「安心できるところ」なのは、悪魔にひれ伏して独裁的支配力を手に入れるイエスさまではなく、正反対のイエスさまがわたしたちと共にいて、わたしたちを力強く守ってくださっていることを感じるからです。

「退け、サタン」というイエスさまの声で悪魔は退散したのでしょう。あの安心できるところに、またみんなで集まり、「ああ なつかしい教会へ 今日こそみんなで帰ろう」(讃美歌第二編189番)と共に歌おうではありませんか。

(2021年2月21日 各自自宅礼拝)

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