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罪と戦うキリスト(2020年2月28日 自宅・礼拝堂礼拝)

【お知らせ】

なおしばらく各自自宅礼拝を継続しますが、本日2月28日(日)より礼拝堂を開放いたします。10時半から礼拝を行います。出席は可能です。役割分担は当分決めません。通常礼拝再開に向けての準備段階です。ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
 
自転車で週報をお届けしています(昭島市つつじが丘付近)

讃美歌21 311番 血潮したたる ピアノ奏楽・長井志保乃さん

週報(第3557・3558号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書12章22~32節

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

各自自宅礼拝は継続します。しかし、今日から礼拝堂を開放しています。「ぜひご出席ください」と強くお勧めする段階にはまだ至っていないと認識しています。どうかくれぐれもご無理のないようにご判断いただきますようお願いいたします。

私は決して忘れているわけではありません。今は「受難節」です。イエス・キリストのご生涯は苦難に満ちたものでした。わたしたちの罪の身代わりに十字架上で命をおささげになる日まで父なる神の御心に従われました。そのことを思い起こし、わたしたちの罪を悔い、主の前にひれ伏して過ごす大事な季節です。

しかし、いま私たちは各自自宅礼拝を続けています。教会のみんなが互いに顔を合わせることができていません。日本社会の中で定着しているわけでもない「教会暦」を重んじて行動することの困難を私は感じています。

しかし、先日ひとつの気づきがありました。それは、3日前の2月25日(木)に教会の週報を私が自転車で何人かの教会員のお宅まで届けに行った日です。ご高齢であるのと、お目がご不自由であるのとで、毎週の礼拝出席は難しいけれどもイースターとクリスマスの礼拝には毎年必ず出席してくださるMさんと、西立川駅の近くでお会いしました。

お互いにマスクをしていました。私がこの教会に来て丸3年です。クリスマスとイースターの礼拝に来てくださるMさんとは6回はお会いしていますと言いたいところです。しかし昨年(2010年)のイースター礼拝が各自自宅礼拝でした。Mさんとの出会いは1回引いて5回です。それくらいお会いすれば、マスクをしていてもMさんだと分かります。お声をかけたら「なんでこんなところにいらっしゃるんですか」と驚かれ、喜んでくださいました。

そのMさんが、3日前にお会いしたとき、「イースター礼拝は、今年はいつですか」と真っ先に尋ねてくださいました。手に持っていたアイパッドで確認して「4月4日です」とお答えしたら「イースター礼拝、今年はありますよね。出席したいです」とおっしゃいました。

Mさんはおひとりでお住まいです。どのような生活をされているかをお尋ねしたりお宅を訪問したりするのが難しいので、想像するだけです。年2回、クリスマスとイースターの礼拝に出席すると心に定めておられることが分かりました。そして、昨年のイースター礼拝が各自自宅礼拝になったことがMさんにとってどれほど残念だったかを想像して、胸がつまりました。

私が今しているのは「教会暦」の話です。生まれたときから教会生活をしてきた私などは教会暦に何の意味があるのかが分からないことのほうが多いです。しかし、いまご紹介したMさんのような方がおられることを忘れないようにしたいと思わされました。

今日の聖書の箇所の話に移ります。この箇所に描かれているのは、イエスさまが、目や口が不自由な人たちをいやされるわざを行われて、多くの人々の称賛をお受けになったとき、要するにそれを妬んだ人たちがいて、その人たちがイエスさまについてありもしない中傷誹謗を言い出したのに対して、イエスさまが反論されている場面であると説明できます。

イエスさまが病気や障碍を持つ人々をいやす方法が現代の医学とは全く違うのは、当然のことです。悪霊にとりつかれることが病気であり、その悪霊を心と体の中から追い出すことが治療であると信じられていた時代の話であるとしか言いようがありません。21世紀の私たちが2千年前と同じ治療方法を踏襲しなければならないわけがないし、よりよき治療方法が見つかればそれを用いるほうがよいに決まっています。イエスさまの治療方法は間違っているのではないかというような問題に引っかかって聖書が読めなくなるよりましです。

とにかく人の体や心が、痛い、苦しい、つらいと悲鳴を上げているときにその痛み、苦しみ、つらさを和らげること、取り除くことができれば、それがいやしなのだと思います。今のわたしたちでも、とにかく薬を飲めば治ると信じて、その薬を定められた量以上に飲むとかえって痛みが増したり、薬そのもので内臓が痛んだりするのを知っているはずです。

いやしは、ある意味で主観的な事柄でしょう。いいかげんなことを言っているように思われるかもしれませんが、自分にとって治ったと思えるなら治っているのです。「あなたは病気です」と人から言われても、自分にその自覚がないのなら、病気ではないのかもしれません。

しかし、いま申し上げている問題は、今日の箇所のテーマではありません。この箇所の問題は、イエスさまの働きが当時の多くの人々にとって有効なものであることが認められて、多くの人々から称賛を受けられたとき、それを妬んだ人たちがいたということです。

それは明らかに嫉妬です。私が持っている古い広辞苑(第4版)によると、「嫉妬」とは「自分よりすぐれた者をねたみ、そねむこと」です。「ねたみ」とは「他人のすぐれた点にひけ目を感じたり人に先を越されたりして、うらやみ憎むこと」です。「うらやむ」とは「人の境遇・資質などが自分より良いのを見てねたましく思うこと」です。

辞書の定義としては「うらやむ」とは「ねたむこと」であり「ねたむ」とは「うらやむこと」であると、同じ言葉が繰り返されてぐるぐる回っているだけですが、意味はわかります。共通しているのは、他人と自分の比較であり、とくに同一のあるいは類似した仕事や立場にいる同士の間での比較です。同じ肩書きを持ち、同じ職務についているのに、私にできないことが、あの人にはできる。そのことに我慢できず腹を立て、できる人の働きを妨害して、足を引っ張ろうとするのが、嫉妬であり、ねたみであり、うらやみの意味です。

そのような感情を抱いた人々が、イエスさまの働きについて「悪霊の頭ベルゼブルによらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)とくだらない噂を流したのです。「悪霊を追い出すためには悪霊の力を借りなくてはならない。つまり、イエスは悪霊を操っているのだ」と。

中傷誹謗のたぐいですから、無視なさってもよかったかもしれません。しかし、イエスさまは丁寧にお答えになりました。悪霊で悪霊を追い出すというのは内輪もめになるが、わたしは神の霊で悪霊を追い出しているのだと、興味深いお答えをなさっています。

「嫉妬」の問題は手強いです。おそらくだれもが持っていて、しかも制御しにくい感情です。それが心の中にとどまっているなら、まだ大丈夫です。心の外へと飛び出して精神的または物理的な暴力へと発展し、実際に他人の人生を破壊することがありうるだけに、凶悪な罪です。

しかし、その罪に対してイエスさまがどのような態度を示されたかが大事です。暴力に暴力で返すのではなく、丁寧にお答えになるイエスさまの姿を思い浮かべることができます。私たちの心の中の「嫉妬」という名の罪をイエスさまが取り除いてくださると信じようではありませんか。

(2021年2月28日 自宅・礼拝堂礼拝)


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