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子どもを愛する(2022年6月12日 三位一体主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌第二編 ちいさなかごに
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

「子どもを愛する」

マルコによる福音書10章13~16節

関口 康

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

今日の週報に「三位一体主日」とも「子どもの日(花の日)」とも書きました。すべてキリスト教会内部で祝われてきた記念日ですので、特に日本国内で一般的に知られるものではありません。

しかし「子どもの日(花の日)」を毎年第2日曜に祝うことに関しては、歴史的起源が19世紀後半のアメリカのプロテスタント(特にメソジストの)教会だったことで、ほぼ同じ時期にアメリカの宣教師たちが日本に来てプロテスタントの教会をたて、ミッションスクールをつくった関係で、日本国内のミッションスクールでは早い時期から「子どもの日(花の日)礼拝」を行ってきた経緯もあります。

何をする日かといえば、要するに「子ども中心の礼拝」を行い、礼拝堂にきれいな花を飾り、礼拝後にその花を子どもたち自身の手で近くの病院や警察署や高齢者施設などに配ることでした。そのことを日本の教会でも、かなり前から最近まで行ってきましたし、今でも行っている教会があるはずです。

昭島教会がこれまでどのようにして来られたかが分からないのを申し訳なく思います。私が教会で働くようになったのは32年前の1990年からですが、当時は全国のどこの教会もかなり盛んに子どもの日(花の日)礼拝を行っていました。その後も毎年、病院や警察署や老人ホームに花を届けに行きました。最初に赴任した高知県の教会でも、その後の転任先の福岡県、山梨県、千葉県の教会でも。

しかし、いつの間にか途絶えてしまいました。なによりの理由は教会に子どもがいなくなったことです。病院も警察署もなんとなく敷居が高くなってきたことも衰退の原因だと思います。そして今はコロナです。お花を届けるどころか、病院や施設に訪問や面会にも行けない状態です。

それでは「子どもの日」のほうはどうか。はっきり言いたくありませんが、日本全国どこの教会も「子どもがいない子どもの日礼拝」になっています。子どもたちが教会に来ないのは紛れもない現実ですが、それに加えて少子化です。学校も幼稚園も存続の危機です。

どうすればいいのかは私には分かりません。私自身もそうでしたが、牧師の子どもたちが教会学校の生徒だったころには学校の友達を教会に連れてくるので比較的子どもたちが教会に集まりやすいのですが、彼らが学校を卒業すると同時に教会学校が衰退しました。

別の言い方をすれば、教会の中に子どもたちを集める求心力となる子どもたちがいるときには盛り上がりやすいですが、大人たちがいくら旗を振っても、きれいなお花を飾っても、おいしいごちそうを作っても、それが子どもたちにとって教会に来る理由にはなりにくい。知らない大人に囲まれながら教会に通い続けることができる子どもがどれほどいるだろうか、という問いでもあります。

今日のみことばは、マルコによる福音書10章13節から16節です。イエス・キリストの言葉です。マタイによる福音書(19章13~15節)にもルカによる福音書(18章15~17節)にも並行記事がありますが、読み比べると少しずつ違いがあることが分かります。

共通している内容は、イエスさまのところに人々が子どもたちを連れてきたら、弟子たちがその人々を叱った、しかしイエスさまは「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」とおっしゃって、弟子たちをお叱りになった、ということです。

それに対して、比較的目立つ違いは、マタイによる福音書とマルコによる福音書で「子どもたち」と記されているところが、ルカによる福音書では「乳飲み子たち」になっていることです。しかし、趣旨に大きな違いはないように思えます。

なぜ大きな違いはないと言えるのか。この箇所でわたしたちが考えなければならないことは、それが「子どもたち」であれ、「乳飲み子たち」であれ、大人たちがイエスさまのところに連れて来たことを、なぜ弟子たちが叱ったのか、という点にあると思われるからです。

その答えは難しくないでしょう。「うるさい」と思っているからです。騒ぐからです。泣くからです。イエスさまの話が聞こえなくなるからです。落ち着かないからです。

3つの福音書に描かれている状況が、安息日の礼拝の最中だったかどうかは、そのように記されてはいませんので分かりません。そうであっても、そうでなくても、イエスさまの近くに子どもたちが行くことを弟子たちが拒もうとしたのは、イエスさまにとってご迷惑だろうと考えたからではありません。自分たちの迷惑だったからです。敷居を高くしたのは弟子たちです。イエスさまではありません。

そうだったからこそ、人々を叱った弟子たちがイエスさまから叱られました。「子どもたちが来るのを妨げてはならない」と。子どもたちをイエスさまから遠ざけようと妨害しているのは、あなたがたであると。自分たちの静寂と安心を確保するために。

ご承知のとおり、私はいま、学校で聖書を教える働きにも就いています。学校というところは基本的に、今日の箇所の弟子たちの言い分を全面的に受け入れるところです。礼拝中や授業中におしゃべりする生徒がいれば容赦なく叱られます。それはやむをえないことです。

しかし教会はどうでしょうか。教会も学校と同じでなければならないでしょうか。赤ちゃんが泣けば親がにらまれ、子どもが騒げば「しー」と叱られるような場所でなければならないでしょうか。

こういうふうに正面から言いますと、多くの人は「それは違う」と否定してくださいます。しかし、現実の場面では異なる反応が起きることを私なりに体験してきました。「礼拝中に子どもが騒ぐ教会には申し訳ないけど通えません」と去って行かれる方々もおられました。そうなるのも困るので、結局は子どもたちを礼拝から締め出すか、黙らせるかという選択を余儀なくされました。

厳しい話になっているかもしれませんが、ぜひ考えていただきたいのです。「教会に子どもがいない、子どもがいない」と、どの教会でもよく聞くのですが、教会から子どもを締め出しているのは誰なのかという問題のほうがよほど深刻だと思えてなりません。

3つの福音書の並行記事を比べると、今日のマルコによる福音書だけが「イエスはこれを見て憤り」(14節)と記しています。子どもたちを締め出そうとした弟子たちにイエスさまが激怒されました。イエスさまはいつも笑顔で優しいだけの方ではなかったことが分かります。

私が怒っているわけではありませんので、悪しからず。難解なお話をして子どもたちがイエスさまのもとに集まるのを妨げている張本人かもしれませんので。

かろうじてひとつだけ提案できそうなことがあります。それを言う前に、メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレー(John Wesley [1703-1791])による、この箇所(14節)の解説文を引用します。

「私がこの世に打ち立てる国に加わる者は、このような子供たちであり、また子供のような心情を持つ成人たちである」(『ウェスレー著作集 第1巻 新約聖書註解上』新教出版社、第二版1979年、175頁、下線は関口康が付した)。

ウェスレーの言うとおりです! 大人たちが「子ども」になればいいのです。そうすれば、すべての教会が「子どもがたくさんいる教会」になり、子どもたちにとって魅力あふれる教会になるでしょう!

(2022年6月12日 聖日礼拝)

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