日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
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「十人の乙女たちの信仰」
マタイによる福音書25章1~13節
秋場治憲
「賢い乙女たちは、それぞれともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」
私たちは教会暦に従うなら、昨年12月に降誕節を祝い、そして3月に受難節、そして復活節(イースター)、昇天、聖霊降臨節(ペンテコステ)を経て、今日は主イエスが再び来たりたもう日(再臨)を待ち望む今日であり、聖霊降臨節第3主日の礼拝をしています。そしてこの聖霊降臨節は、再び待降節(クリスマス)へと向かいます。
神の右に挙げられたキリストが、再び来たり給うその日を待ち望むということは、それはこの歴史が終わりを迎える日が到来するということです。
使徒信条[1]に従うなら、
「我はその独り子我らの主イエス・キリストを信ず、主は聖霊によりて宿り、乙女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちより甦り、天にのぼり、(ここまでは完了形。すでに終わったこと。)全能の父なる神の右に座したまえり(ここは現在形。今現在のこと。) かしこより来りて、生ける者と、死ねる者とを裁きたまわん。」(ここは未来形)
我らの主イエス・キリストは十字架の死において私たちの罪を贖い、そして甦り、死が私たちの行きつく最終的な現実ではないことを示し、そして今現在、天の父なる神の右に座しておられ、日夜我らの為に執り成してくださっている[2]。私たち人間の存在もキリストにおいて、神のそばにまで引き上げられると告白しています[3]。
「かしこより来りて、生ける者と、死ねる者とを裁きたまわん。」ということは、その時には悪魔や闇や、虚無が支配する世界に引きずり降ろされるのではなく、私たちもキリスト共に昇天を共にし、神のそばに引き上げられる、と告白するのです。そしてキリストの昇天は、このことの予表であり、道しるべだというのです。
「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。」
「聖霊を信ず」とは、今も生きて働いておられる方[4]を信ずるということ。聖霊は神の右に座しておられる方が、日夜父なる神に我らの罪の執り成しをして下さっていることを、我らに証して下さる方。故に我らはこの地上においては、この聖霊に励まされ、教会を信じ、聖徒の交わりをなし、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信じてその時まで生きて参ります、という信仰告白を私たちは毎週告白しているのです。
今日のテキストは使徒信条ではなく、マタイ福音書25章の「十人の乙女たち」です。原始キリスト教団と呼ばれている時代のキリスト者たちも信仰を持ち、主の再臨を待ち望んでいた。しかし主は中々来られない。中には信仰から離れていく者、自暴自棄になっていく者が出始めた。そういう状況の中で、福音書記者たちは終末に関しての信仰のあり方を明確にするという必要性が出てきた。今日のテキストは私たちに、信仰のあり方を教えています。
当時人々にはまだ新約聖書がありませんでした。そんな中で人々はこの終末、世の終わりがいつ来るのか、どこで起こるのか、ということが最大の関心事になってきていました。何とかこの終末という出来事がいつ起こるのか、その時にはどんな前兆があるのか、何とかこの終末(世の終わり)という問題を自分が理解できる範囲に、自分の手の内に握ろうとするのです。何とか歴史の中で起こる出来事に引き下げようとする。人間はどこまでも神と等しくあろうとする存在のようです。創世記における蛇の誘惑も「神のようになる[5]」でした。
マタイ福音書24章は、それはノアの時と同じように、突然やってくるということを「ノア」の例と「忠実な僕と悪い僕」の例をもって説明しています。だから「目を覚ましていなさい」と警告しているのです。今日のテキストもその範疇に入るものです。ルターはこの問題について「私は明日世の終わりが来るとしても、庭にリンゴの木を植えよう。」と語っています。
10人の乙女たちがともし火を持って、花婿を迎えに出ていく。5人は愚かで、ともし火は持っていたが、予備の油を用意していなかった。5人は賢い乙女たちでともし火と共に、予備の油を壺の中に用意していた。しかして花婿の来るのが遅れたので、10人の乙女多たちは皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。さあ、迎えに出なさい。」と声がかかった。花婿の来るのが遅れたので、乙女たちのともし火は今にも消えそうになっていた。賢い乙女たちは予備の油を壺から出して、ともし火を整えた。愚かな乙女たちは賢い乙女たちに、油を分けて下さいと頼んだが、「分けてあげるほどはありません。それより店に行って自分の分を買ってきなさい。」と言われてしまった。愚かな乙女たちが買いに行っている間に、花婿はやって来て、賢い乙女たちは花婿と共に婚宴の席に入り、そして戸が閉められた。愚かな乙女たちが遅れてやってきて、「御主人様、御主人様、開けて下さい」と言ったが、しかし主人は「はっきり言っておく[6]。私はお前たちを知らない。」と答えた。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という結論です。
この結論部の「目を覚ましていなさい」という言葉は、決して眠ってはいけないということではありません。何故なら10人全員が眠り込んでしまっていたのですから、そういうことではなく、ここは常にそのための備えをしていなさい、ということ。この箇所は私が40年前に補教師試験を受けた時の課題テキストでした。ここをテキストにして説教を書き、提出しなさいというもの。当時の原稿の写しはもうありませんが、記憶の中には残っています。この箇所は次の「タラントンの譬え」と共に私にも、長い間分からなかったテキストです。
長い信仰生活の中でこの箇所をテキストにした説教を、何度か聞く機会がありました。その中ではこの「油」は、信仰である。我らはその信仰を堅く保ち、主の来臨に備えていなければならない、というものだったと思います。その通りなのですが、その信仰というものがよく分かっていない私にはしっくりしない。そんな中でこの箇所をテキストにして説教を提出しなさい、という課題が与えられたのです。しばし眠れない日々が続きました。何をやっていてもこの箇所が頭から離れない。提出の期限は迫ってきます。色々な注解書を読んでみても、どうしてもしっくりこない。そんなある日神様は見かねたのだと思いますが、一条の光が差し込んできた。私には天が開けた思いがした。何とこのちいさな譬えの中に、信仰とは何かということが記されているではありませんか。聖書というのはすごい書物。この簡単な子供でも分かるような譬えの中に、信仰のあり方がきちんと説明されていることに気づかされた。
どういうことかと言いますと、愚かな乙女たちは自分の持っているともし火が切れる前に、花婿は来る、来るはずだと考えていた。だから予備の油を用意していなかった。彼女達は自分の判断、自分の経験に自分の信仰の土台を置いていた。自分の判断を花婿の上に置いた人たち。自分の判断を信じた人たち。これに対して賢い乙女たちは、壺の中に予備の油を用意していた。信仰の土台をどこまでも花婿に置いた人たち。花婿はいつ来てもいい。自分の判断ではなく、神の判断を受け入れ、信じる人たち。ゲッセマネの園における主イエスの信仰に通じる。
私たちは自分の願い、願望が受け入れられない時、事態が自分の願いとは反対の方向に向かう時、神は私たちに益々信じることを求められる。何故なら神が私たちの願いを聞き入れたもう時、あたかもその願いが気にいらないかのように、その願いを聞き届けるつもり[7]がないかのように、我らの考え、思いとは逆になるような仕方でこれを与えたもうからです。自分の判断、自分の経験に従う者は、神のこの意向に耐えることができない。油切れとなり、右往左往するしかなくなる。何故なら、その人の希望は神にではなく、自分にかかっているからです[8]。この時私たちは、賢い乙女たちと共に予備の油を壺の中から取り出し、そのともし火を燃やし続けることが信仰です。
それは神はご自身に属するものを与えたもう前に、我らの内にあるものをまず破壊し、空しくしたもうという神の性質によるのです。我々が打ち砕かれ、神の前に純粋に受動的になる時、神はご自身に属するものを与えたもうのです。「主は貧しくし、また富ませ、陰府に下し、また挙げたもう[9]」とサムエルの母ハンナが祈っている通りです。神はこのはかりごとにより、我らをして神の働きと賜物を受け入れるに足るべき者と為したもうのです。「私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。」とはそういうこと。
これに反して自分がすべてを正当に求め、欲し、祈願していると思い込んでいる者は、自分の思ったように事が運ばないと、更に一層希望を持つべきであったにもかかわらず、神は自分の願いを聞いてくれない、与えることも欲したまわないと判断してくずおれ、疲れ、絶望してしまうのです。何故なら私たちの判断は見えるところによって、すべてを判断するからです。自分に栄光が帰せられないことには、耐えられないのです。
神がキリストを栄光の座に据えようとされた時、神はその思いとは反対に、キリストを狼狽させ、死なしめ、陰府に下したのです。神はすべての聖徒たちにおいても[10]、大なり小なりこのようになし給うのです。主イエスはこの杯は受けたくないという状況にあって、なお「しかしわが思いではなく、あなたの御心が成りますように[11]」とその信仰の土台を父なる神に委ね、死に至るまで従順であられた[12]。神はこの方を神の子と認定し、ご自身の右に座すものとされ、今現在、日夜我らの罪の執り成しをして下さっている。だから我らは何回失敗しても、何回躓いても、背中を押されて、新たな一歩を歩みだすことができる。これが「全能の父なる神の右に座したまえり」と現在形で書かれていることの内容です。
自分の願ったように事が運ばない時、それは正に神が私たちの願いを聞き届けようとしておられる時であり、益々信じ、希望を持ち続けなさい、と言うのです。主イエス・キリストの復活は、その私たちが抱く希望が、決して失望に終わる[13]ことはないということを身をもって示されたのです。
マリアに、トマスに、ペテロに、エマオ村のクレオパに、念には念を入れ、魚まで食べて見せ、実になりふり構わず、やって見せた。主イエスが生きておられることに気づくまで、何度でも、どこまでも・・・。もし私たちが意気消沈し、沈没してしまうなら、このキリストの苦難の生涯と甦りを空しいものとしてしまうことになります。神はこれだけのことをして私たちにエールを送っておられる。こんな神は洋の東西を問わず、他のどこにも存在しない。その神が選ばれた相手は他でもない、神の子を十字架につけた罪人だというのですから、我らは畏れ、ひれ伏す以外にない。
それ故、神とその御心についてこの知識を持たぬ者たちは、詩篇106:13、24[14]にあるように、彼らは神のはかりごとを堅持しなかった、また彼らは望ましき地を空しいものと思った、と言われているのです。従って御霊を持たない者たちは、神のみわざから逃避し、みわざが生じることを欲せず、むしろ自分自身を形成しようとするのです。それ故、み霊を持つ人々は、彼らが心から祈ったこととは反対のことが生じると思う時でも、絶望しないで堅く信じるのです。
「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません[15]」
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。[16]」
「油」は神の霊の象徴なのです。「油注がれた者」とは、「神の霊が注がれた者」ということであり、「御心にかなう者」という意味です。この方に信仰の土台を置く人たちは、汲めど尽きせぬ泉が、湧いて出るという、主イエスがスカルの井戸端でサマリヤの女に語った言葉[17]を思い出します。
この時主イエスは、「汝の水を我にも飲ませよ」と言われた。あなたが飲んでいる水を、私も共に飲もうと言われるのです。
いつ主イエスは来られるのか、いつ世の終わりが起こるのかを問うのではなく、いつ来られても迎える準備ができている信仰生活が求められています。日本基督教団の信仰告白は、この局面を「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む」と告白しています。ここで魂はこう語りかけられる。「雄々しくあれ、待ち望め、汝の心を強くし、主を堅持せよ![18]」と。
「私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。[19]」
紙面に余裕がありますので、使徒信条英語版と詩を一つご紹介致します。ご存じの方も多いと思いますが、今日の宣教との関連で読んでいただけるなら、また一味違った響きを醸し出してくれるかもしれません。
■The
Apostles’ Creed 全文
(A)
I believe in God, the Father Almighty, Creator of heaven and earth,
and in Jesus Christ,His only Son, our Lord, who was conceived by the Holy
Spirit, born of the Virgin Mary,
(B)
suffered under Pontius Pilate, was crucified, died and was buried;
He descended into hell; on the third day He rose again from the dead;
(C)
He ascended into heaven, and is seated at the right hand of God
the Father Almighty; from there He will come to judge
the living and the dead.
(D)
I believe in the Holy Spirit, the Holy Catholic Church,
the communion of Saints, the forgiveness of sins,
the resurrection of the body, and life everlasting.
Amen.
苦しみを越えて
大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶように弱いものとされた。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
よりよいことができるようにと病気を戴いた。
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧しさを授かった。
世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、
神を求め続けるようにと弱さを授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬものであるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。(渡辺和子訳)
A Creed[20] For Those Who Have
Suffered
I asked
God strength[21]
, that might achieve
I was made weak, that I might learn humbly[22] to obey[23]..
I asked for[24] health, that might do
greater things..
I
was given infirmity[25],that might do better things..
I
asked for riches[26],
that I might be happy
I was given poverty, that might be wise
I asked for power, that might have the
praise of men[27]
I was given weakness, that might feel the
need of God..
I asked for all things, that might enjoy
life
I was given life, that might enjoy all
things..
I got nothing that I asked for―but everything I had hoped
for
Almost despite[28] myself, my unspoken
prayers were answered.
I am among all men, richly blessed !
[1] 使徒信条はラテン語で書かれています。CREDO(我信ず)と言う言葉で始まっています。
英語ではApostles’Creed. Creedは神経、信条と訳されます。
[2] ローマ人への手紙8:34
[3] ヨハネ黙示録3:19以下「私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に務めよ。悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて、戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。勝利を得る者を、私は自分の座に共に座らせよう。私が勝利を得て、私の父と共にその玉座に着いたのと同じように。」
[4] ラテン語の現在形は現在進行形を含みます。
[5] 創世記3:4
[6] Αμην(アーメン はっきりと、明確に) λεγω(レゴー 私は言う) υμιν(あなた方に) という言葉。
[7] サムエル記上2:6・7
[8] 第1ペテロ1:21「あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。」(口語訳)
[9] サムエル記上2:7
[10]「彼(主)の地にある聖徒に、彼(主)は彼らにおける私のすべての意向を驚くばかりに知らしめたもうた」(世界の名著ルターP.448)ウルガータ聖書 詩篇15:3
また「あなた方は主がその聖徒に不思議をなしたもうことを知りなさい」(同書 詩篇4:4)
[11] これは主イエスの母マリアが、受胎告知を受けた時の祈りでもあります。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」という信仰において、マリアは確かに主イエスの母ということができると思います。
[12] イザヤ28:21「主はそのみわざを遂行するに、主にとっては異なるわざをなしたもう。」
「しかし、その働きは敵意あるもの」「その御業は未知のもの」(新共同訳)
[13] 「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(口語訳)ローマ人への手紙5:3、4
[14] 「彼らはたちまち御業を忘れ去り 神の計らいを待たず」(13節)「彼らは愛すべき地を拒み 御言葉を信じなかった。」(24節)(新共同訳)
[15] ローマ人への手紙8:9
[16] ローマ人への手紙8:14
[17] ヨハネ福音書4:14
[18] 詩篇27:14
[19] エフェソの信徒への手紙3:20,21
[20] Creed 信条 信経 Apostles’creed 使徒信条
[21] Strength strong 強いという形容詞の名詞形で 強さ 力
[22] Humbly 副詞 謙遜して 腰を低くして
[23] Obey (人に)従う 服従する
[24] Ask for 求める
[25] Infirmity 虚弱、病弱、2.病気、疾患(精神的な)弱点
[26] Rich 豊かな 金持ちの riches 富 richly 豊かに blessed
祝福された
[27] Praise of men 人々の称賛
[28] Despite 前置詞 にもかかわらず