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復活を宣べ伝える(2022年6月19日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 聖霊よ、降りて 343番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「復活を宣べ伝える」

使徒言行録4章1~22節

関口 康

「しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。』」

今日の聖書の箇所に描かれているのは、最古のキリスト教会の宣教の様子です。

登場する使徒は、ペトロとヨハネです。「二人が語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)と記されています。大変な影響力をもって宣教が拡大しました。

しかし、その前に書かれていることが気になります。祭司長たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がこの2人の使徒を逮捕して翌日まで牢に入れたというのです。それは「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えている」(2節)ことが犯罪とみなされたという意味です。

死んだ人が生き返るはずがないという普通の常識に反することを言っているとみなされた面もあるでしょう。しかし、それだけでなく、使徒たちの宣教にイエスを十字架にかけた人々に抗議する意図が含まれていることを、抗議されている本人たちが最も自覚していたからでしょう。

なぜそのように言えるのか。ペトロとヨハネが牢に監禁された翌日の出来事として、「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった」(5節)と記されている、これはユダヤの最高法院(サンヘドリン)のことですが、そのような場で勇気をもってペトロが語った言葉の中に「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリスト」(10節)と言われていることが証拠になります。

ペトロが明確に言っているのは、最高法院のあなたがたがイエスを十字架につけて殺したのだ、つまり「殺害した」のだ、ということです。「あれは死刑ではなく殺人だった」ということです。

死刑が正当な審判の方法かどうかについて、今日においては世界的な議論があり、多くの国が死刑廃止の方向に進んでいます。私個人の考えは申さないでおきます。各人各様の考えがあるでしょう。しかし、古代社会に今日と同じような議論があったとは思えません。

もしイエスの十字架が当時の社会において正当性を持つ「死刑」だったとすれば「あれは殺人だった」とペトロが語れば、国の決定に反対することを意味するので、多くの人の支持を得るのは難しかったでしょう。しかしペトロの言葉、そして最古のキリスト教会の宣教の言葉に説得力があったので、多くの支持者を得ることができました。

ペトロが言っているのは、イエスを十字架につけたのは、あなたがた最高法院の人々にとって都合が悪い存在を抹殺しただけであって、正当な理由など何もない。あなたがたは「殺人者」であり、犯罪者であると言っているのと同じです。

直前の3章1節から始まり26節まで続くペトロの説教は民衆向けに語られていますので、最高法院の人々への抗議と全く同じではありませんが、かなり近いです。「あなたがたは、命の導き手である方を殺してしまいました」(15節)とあり、ここでも「殺す」、つまり「殺害する」という言葉が用いられています。

民衆はあくまでも最高法院の人々に心理的に誘導された面があるので情状酌量の余地はある。しかし、イエスを「殺した」点では共犯であり、犯罪に加担したのだと言っているのと同じです。

ですけれども、このようなことを発言すること自体が当然大問題になりますし、証拠がなければ決して言ってはならないことです。必要な証拠は最低でも二つです。そのひとつは、イエスは死刑に値する罪を犯していないことの証拠です。もうひとつは、そのイエスを地上から抹殺しなければならないと考えるほどに最高法院の人々がイエスを憎んでいたことの証拠です。

前者の証拠はイエスさまと共に生きたすべての人々にとって明らかでした。それはイエスさまの弟子たちや、イエスさまに助けてもらった人たちです。死刑だなんてとんでもない、悪いことどころか、良いことをなさった記憶しかないと、だれもが認める存在でした。だからこそイエスさまは、多くの人に信頼されたし、やがて信仰の対象になりました。この方こそ救い主キリストであると信じられるようになりました。

後者の証拠は、最高法院の人々の考え方や行動様式を知る内部の人には分かるでしょうけれども、外部で裏付けを得るのは難しいことです。しかし、イエスさまと弟子たちが行く先々で登場する、宣教を妨害する人たちの言葉や行動から、その人々の大元締めの最高法院の人々の考え方や行動様式を類推することは、ある程度はできたでしょう。

それは、マタイによる福音書5章から7章の「山上の説教」の中でイエスさまが「偽預言者に警戒しなさい。(中略)すべて良い実は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。(中略)あなたがたはその実で彼らを見分ける」(マタイ7章15~20節)と語られていることに通じます。

社会の仕組みの頂上にいる人たちと直接会って話せる人は少ないけれども、その根元から出てくる結果を見れば、総本山にいる人たちの考え方や行動はだいたい想像が付くということです。

この点と関係してくるのが、ペトロとヨハネの告発行為を見た最高法院の人たちの反応です。13節に記されていることです。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも彼らが無学な普通の人であることを知って驚き」(13節)。

「無学な普通の人」の意味は、文字通り「学問をしたことがない」です。しかし、裏返して言えば「我々最高法院の者たちとは異なる」という意味になるでしょう。我々は学校に通って学問をした、社会の中で上位に位置する者たちであるというわけです。

その人々がなぜ使徒たちの態度に驚いたのかといえば、学問をしていないこの人たちに我々の正体を見抜かれたと思ったからでしょう。イエスさまと弟子たちの洞察力が、多くは初対面だったに違いない最高法院の人たちの正体を見抜いたのです。「実を見て木を知った」のです。

使徒たちが彼らの何を見抜いたのか。正当な理由など何もなく、あなたがたがイエスを殺したのだ、あなたがたは殺人者であるということです。そのことを使徒たちは、最高法院の人たちに対しても民衆に対しても、はっきり言いました。それでも使徒たちの言葉を信じた人が多かったのはなぜでしょうか。その理由は何かをよく考える必要があります。

自分たちが責められている、殺人者呼ばわり、犯罪者呼ばわりされていると感じれば、反発心が起こるだけでしょう。しかし、そのとき多くの人が、反発ではなく信仰へと導かれました。

それは、「あなたがたが殺したイエスを神が復活させられた」という教えに「罪の赦し」があることが分かったからです。我々はもうイエスを殺したことを悔やむことはないらしいと分かり、慰めを得たからです。

イエス・キリストの復活を信じるとは、そのようなことです。そのとき初めて「罪の赦し」が起こり、「良心の呵責からの解放」が起こります。最高法院の人々も同じです。自分たちが殺したイエスを神がよみがえらせてくださったことを信じることができれば彼らも慰められたはずです。

(2022年6月19日 聖日礼拝)

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