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主イエスの愛(2022年10月9日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 ああ主のひとみ 197番(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

教会創立70周年記念礼拝のポスターPDFはここからダウンロードできます




「主イエスの愛」

マルコによる福音書14章53~72節

関口 康
「ペトロは『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」

今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書14章53節から72節までです。この箇所に描かれているのは、わたしたちの救い主イエス・キリストが、直接的なきっかけとしては、12人の弟子のひとりだったイスカリオテのユダの裏切りによって身柄を拘束され、その直後に最高法院に連行され、裁判をお受けになるまでの状況です。

最高法院(サンヘドリン)とは、ローマ帝国の属国だった頃のユダヤの宗教と政治を司る人々の自治組織というべきものでした。メンバーは議長を含めて71人。ただし、会議は23人以上の出席で成立しました。3分の1です。このときは最高法院の「皆」(53節)が集合したとマルコが記していますが、もし仮に3分の2の議員が欠席しても会議は成立しました。

もちろん全員ユダヤ教徒です。ユダヤ教の聖職者の中のサドカイ派の代表者、ファリサイ派の律法学者と長老、信徒、そして聖職者ではない貴族の中から選ばれた人々で構成されました。

イエスさまの裁判が行われた場所は「大祭司の屋敷」でした(53節)。「大祭司」とはユダヤ教の祭司職の最高の地位にある人。当時の大祭司はカイアファでした(マタイ26章57節、ヨハネ18章24節)。カイアファが大祭司だったのは西暦18年から36年までです。

この最高法院の人々がイエスさまに死刑判決を言い渡しました。しかし、そのやり方は拙速、強引、卑怯でした。死刑判決が言い渡される可能性がある裁判の場合は、その前に2回の公聴会を行う義務がありましたが、このときの公聴会は1回で、その直後に有罪判決が下されました。

最高法院の会議はかろうじて2回行われました。しかし調査結果は事前に決定されていました。しかも、2回行われたのは、死刑宣告を夜中に行うことが禁じられていたからです。「夜が明けるとすぐ」(15章1節)2回目の会議を行ったのは、一刻も早く死刑宣告をしたかったからです。

最高法院のメンバーが休んでいた夜、イエスさまは見張りの人たちから徹底的に暴行を受けておられました。侮辱され、殴られ、目隠しをされて「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と罵倒されました(ルカ22章63~64節)。しかし、イエスさまは何もお答えになりませんでした。

裁判に必要な公聴会の目的は判決結果の正当性を保証するための証言を得ることです。被告に不利な証言だけを集めるための公聴会は公正ではありません。死刑判決の場合はなおさらです。

しかし、最高法院の人々の目論見は成功しませんでした。死刑判決には有罪証言の完全な一致が必要でしたが、多くの人々の証言が食い違い(56~59節)、完全な一致には至りませんでした。このときもイエスさまは、何を言われても何もお答えになりませんでした。

そこで大祭司カイアファが立ち上がり、イエスさまに「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」(60節)と言いました。それでもイエスさまは黙っておられましたが、大祭司が最後に投げかけてきた「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という質問に対してだけ、「そうです」とはっきりお答えになりました(61~62節)。

それが有罪判決の理由になりました。大祭司は衣を引き裂きながら「これでもまだ証言が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか」(63~64節)と言いました。

当時、何が「冒瀆」の罪に該当するかについての議論がありました。「冒瀆」の意味は「神へと手を差し伸べること」、すなわち、だれかが神と人間の境界を越えて、神と同等になること、神と共に人を裁く者であることを宣言することです。冒瀆罪の刑罰は石打ちによる死刑です(レビ記24章16節、民数記15章30節)。

イエスさまがその罪を犯したと、大祭司の耳に聞こえたので、最高法院の人々に「諸君はどう考えるか」と尋ねました。結果は満場一致可決です。しかし、イエスさまは石打ちの刑ではなく、十字架にかけられました。それはイエスさまに対する彼らの憎しみがエスカレートした結果です。

その最高法院の裁判と公聴会の様子を、イエスさまがおられた位置から遠いところからでしたが、使徒ペトロが見ていました。ただし、イエスさまの弟子であることを隠し、大祭司の屋敷の中庭まで入り、下役たちと一緒に座り、火に当たって体を温めていました(54節)。

その場所が「下の中庭」(66節)と呼ばれているのは、会議が行われていたのは建物の2階で、ペトロがいたのは1階の建物の外だったことを示しています。ただし、そこには「出口」(68節)があり、道路から隔絶された閉鎖空間でした。そこにペトロはなんらかの仕方で入ることに成功しましたが、素性が知られると確実に逮捕されたであろう、非常に危険な状態にありました。

そしてペトロはその危険に遭遇しました。そのときの様子が66節以下の段落に詳しく記されています。「大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた』」(66~67節)。

そう言われたペトロは「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と否定しました(68節)。このペトロの否定の言葉には、まだイエスさまを否定することまでは含まれていません。言っていることの意味が分からないと、とぼけているだけです。しかし、ペトロは自分の身の危険を察知して、中庭から逃げるために「出口」に向かいました。そのとき1回目の鶏の鳴き声が聞こえました。

しかし、その女性は、逃げようとする人間は怪しいと、周りの人々に「この人は、あの人たちの仲間です」と騒ぎ始めたので(69節)、再びペトロは否定しました(70節)。2回目の否定です。

しかし、女性が騒いでいる声を聞いた人たちが「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と追及しはじめました。エルサレムの人たちがペトロの言葉に混ざるガリラヤ地方の方言に気づきました。するとペトロは、「呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始め」ました(71節)。

3回目の否定は1回目より深刻です。「言っていることの意味が分からない」から「そんな人は知らない」へ話が進んでいます。2回目の否定の言葉をマルコは記していませんが、「あの人たちの仲間だ」と言われたのを否定したのですから「仲間ではない」と答えたはずです。3回目はついに、イエスさまとの関係を完全に否定しました。そのとき2回目の鶏の鳴き声が響き渡りました。

しかし、ペトロがそうなることをイエスさまがあらかじめご存じだったというのが聖書の証言です。しかもイエスさまには、ペトロの弱さを断罪するお気持ちはありませんでした。むしろ、彼を完全に赦しておられました。そしてそのイエスさまの赦しの福音があったからこそ、ペトロは初代教会のリーダーになることができました。

イエスさまにとって、そしてイエスさまの福音に拠って立つ教会にとっても、「人間の弱さ」は断罪の対象ではありません。擁護され、愛されるべき対象です。教会は弱い人の味方です。

(2022年10月9日 聖日礼拝)

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