日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 495番 しずけき祈りの
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん
教会創立70周年記念礼拝のポスターPDFはここからダウンロードできます
今日の宣教テキストは「五千人の給食[1]」として、よく知られたお話です。このお話は四つの福音書すべてに掲載されています。四つの福音書それぞれに力点の違いもありますが、今日はヨハネ福音書から学びたいと思います。ピリポを中心にしてみていきたいと思いますので、聖書のあちこちを参照致します。少々面倒くさいと思われるかもしれませんが、相手がピリポですので、ご容赦いただきたいと思います。このピリポという人から、何かを学ぶことが出来ればと思っています。
イエスが病人を癒したことが伝えられ、大勢の人たちがイエスのもとに集まって来た。その数はおよそ五千人。その時主イエスはピリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。マタイ・マルコ・ルカ福音書では弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい[2]」と言われているのに対して、ヨハネ福音書ではピリポに対して言われたことになっています。しかもそれは「ピリポを試みるため」であったと記されています。これは一体どういうことなのか。私は長い間この言葉の意図することが分からなかった。今日はこの「ピリポを試みるため」という言葉に注目して、学びたいと思います。新共同訳では「フィリポ」となっていますが、発音しにくいので、今日の宣教では口語訳の「ピリポ」で通したいと思います。「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」と記されています。「試みるため」とは尋常ではありません。しかしこの試みた結果がどうなったのかということについては、何も触れられていません。これは一体どういうことなのだろうか。主イエスはピリポの何を試みられたのだろうか。この試みるという言葉は、「試験する[3]」「吟味する」という意味のことばです。また「何をしようとしているかを」というのは、「何を来たらせるかを」とか「何を引き起こすかを」という意味をもった言葉でもあります。私たちは五千人の給食というとすぐ、そんなことはあるはずがないという自然科学の世界に向かいがちです。しかし聖書は自然科学の教科書ではないのです。聖書には聖書の読み方があるのです。この大事件の中で、主イエスが語られたこの一言を読み過ごしてはならないと思います。
主イエスのこの問いかけに対して、ピリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と即答しています。この時弟子の一人でシモン・ペトロの兄弟アンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と申し出た。
ここで少しピリポという人について、思いを巡らしてみようと思います。ピリポ[4]というのはギリシャ名です。彼はアンデレ、ペテロの兄弟と同じベトサイダの出身です[5]。別にユダヤ名があったと思われますが、記されていません。イスラエルという国はローマに征服される前は、アレクサンダー大王によって、また彼の死後はその子孫たちによって支配されていました。ピリポというのはこのアレクサンダー大王のお父さんの名前です。ピリピという町の名前も、アレクサンダー大王のお父さんを記念して名づけられたものです。その他にもイスラエルにはセフォリス(ナザレとカナの間にある町)、デカポリス[6]、ピリポ・カイザリア[7]などギリシャ文化の影響が、色濃く残っている町です。そもそも新約聖書がギリシャ語で書かれたということが、そのことを物語っています。またヨハネ福音書19:19~22には、「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。」と記されています。ヘブライ語はユダヤ人の言葉であり、ラテン語はローマ帝国の公用語です、そしてギリシャ語はアレクサンダー大王の支配以来、当時の世界の共通語として使われていました。当時のイスラエルにおける複雑な言語、文化の状況が伝わってきます。使徒言行録六章には発足間もないエルサレム教会がその信徒数が増えてきた時、ギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して、日々の分配のことで仲間のやもめたちが軽んじられているという苦情が出た際、七人の執事が選ばれてその人たちにその仕事を任せることになりました。この時ステファノの次にフィリポ[8]という人が出てきます。もちろん十二弟子の一人であるフィリポとは別人ですが、ギリシャの文化が当時のイスラエル全体を覆っていたことが分かります。この後間もなくステファノは石打の刑に処せられています。この時青年サウロ(後のパウロ)が、このステファノの石打の刑に賛成し、証人たちの上着の番をしていたと使徒言行録7:58に記されています。この時のステファノの大演説が水面下で、パウロの回心に大きな影響を与えたということが推測されます。
聖書本文に戻りますが、ガリラヤ湖がティベリアス湖と呼ばれたのはギリシャ支配の後、初代ローマ皇帝アウグストゥスの養子となり、第2代ローマ皇帝となったティベリウスに敬意を表して名づけられた名称です。ローマは軍事力ではギリシャを征服したが、文化的にはギリシャに征服された、と言われています。元老院の議員や裕福なローマ人は、競って有能なギリシャ人を奴隷として自分の家に迎えています。時には彼らに家の財産の管理を任せ、子供たちの教育を託しています。ピリポという名前を付けたピリポのお父さんもギリシャの文化に触れ、その文化、考え方に心酔していたのではないかと思われます。「ギリシャ人は知恵を求め、ユダヤ人はしるしを請う。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える[9]」というパウロの言葉を思い出します。ソクラテスやプラトンに代表されるように、その考え方は極めて理性的であり、観念的です。ピリポのお父さんもそのような傾向があったのでしょう、そのお父さんに育てられたピリポという人も、十二弟子の中では最も理性的で合理的な考え方をする人でした。他の福音書では、ピリポという名前しか出てきませんが、ヨハネ福音書では度々言及されています。このピリポを主イエスは弟子の一人として選び出しています。主イエスの方から「私に従いなさい。[10]」と彼に声をかけています。ピリポはイエスに従います。そしてナタナエル[11]に出会い、主イエスとの出会いについて伝えています。その伝え方がふるっています。「私たちは、モーセが律法にしるし、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。[12]」というのです。アンデレが自分の兄弟であるペテロに言った言葉は、「私たちはメシアに出会った[13]」と言っただけですが、ピリポは厳密であり、そして正確です。モーセが律法にしるし、そして預言者たちも書いている方、しかもそれは具体的にナザレの人で、ヨセフの子で、名前はイエスという人である、と言うのです。これ以上の紹介の言葉があるでしょうか。厳密で正確でそれでいて、私たちが長い間待ちわびていた方に(いま出会った(口語訳)現在完了形)という感激が伝わってきます。ピリポは決してやみくもにイエスの呼びかけに応じたのではなかったのです。イエスについて調査をし、吟味をした上でイエスの呼びかけに応じたのです。主イエスをこのように表した弟子は、他にはいません。
それに対してナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えています。これは当時の律法に従う人々の間では常識的な理解でした。例えば「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると書いてあるではないか。[14]」とか、またファリサイ派から訴えられているイエスを弁護しようとしたニコデモが「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」と発言したところ、ファリサイ派の人々は、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。[15]」という反撃に合っています。因みにこのニコデモ[16]という名前も、ニコデーモスというギリシャ名です。ピリポに似て考え方は厳密で合理的です。それ故に、彼が夜ひそかにイエスを訪問して初めて主イエスと会話した時には、議論はすれちがい禅問答の様相を呈しています。エルサレムから見ればガリラヤは辺境の地、異邦人の住む所、そんなところから預言者は出ないということが律法にその生活の基盤を置くユダヤ人の間では常識となっていました。これに対してピリポは先入観、偏見にとらわれないで、「来て、見なさい」と言うのです。来て、自分の目で確かめなさい、と言うのです。先にイエスを紹介したピリポの言葉からして、このピリポの言葉には説得力があったことでしょう。ナタナエルは半信半疑ではあってもピリポの説得力のある言葉に従って、イエスのもとに向かいます。そして主イエスから「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」という言葉をいただいています。疑いを持たないのが信仰者なのではなく、疑いを持ちつつも主イエスを求める者が信仰者なのです。「主よ、信じます。信仰のない私をお助け下さい。[17]」と祈る者が、まことのイスラエル人、偽りのない人なのです。
話をピリポに戻しますが、この厳密にして正確で、論理的で合理的なピリポに対して、主イエスは彼を試そうとして「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたのです。ここで恐らくは主イエスが予想した通り、ピリポの論理的で合理的な頭脳は、即座に明快な結論を導き出しています。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と即答しています。この時弟子の一人でシモン・ペトロの兄弟アンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と申し出た。
ここで話は元に戻っています。この時ピリポは、このアンデレの申し出を皮肉を込めて冷笑したことでしょう。それはアンデレ自身が言うように、確かに足りない。何の役にも立たない。五千人を前にして、五つのパンと魚二匹。まったく無きに等しい。ピリポにとってはまったく無駄なこと。ナンセンスなこと。ところが主イエスはそれで十分だと言わんばかりに人々を座らせなさい、と言われた。このアンデレとピリポの違いは何でしょうか。ピリポがやったことは即座に計算し、不可能だという結論を出しただけです。しかしアンデレは何とかお役に立ちたいという子供の心を、主イエスの前に差し出します。何とかしたいという気持ちはあるが、今、手元にあるのはこれがすべてです、と言って差し出します。アンデレはこの状況を憂えながらも、今、手元にある大麦のパン五つと魚二匹を差し出しました。主イエスは、パンを手に取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい。」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
五つのパンと魚二匹が五千人を養って、なお余りがあった、というのです。このような聖書の記事は、現在の私たちにどのような意味をもつのだろうか。私たちが忘れていることは、無きに等しきものを主イエスの前に差し出すということ。私たちに当てはめて考えてみると、礼拝に出席するだけで精一杯です。まことにそうだと思う。あるいは自分はキリスト者であるということを、自分自身に納得させる努力で精一杯であるかもしれない。もしそうなら、それ以上一体何ができるというのか?
自分の財布は軽い、能力は少ない、ふらふらしている信仰をもってこの多くの人々を養うなどと言うことは、ピリポが出した結論を聞くまでもなく、日々我らが直面している現実であり、不可能なことではないか。その時主イエスがしたことは、そのパンを手に取り、感謝した、と言うのです。感謝などできるはずもない状況の中で、今、与えられているものに感謝したというのです。マルコ福音書では主イエスは弟子たちに「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」と言われる。「私たちが・・・ですか」と絶句する弟子たちに主イエスは「パンはいくつあるのか。見てきなさい。[18]」と言っておられる。ルカ福音書では弟子たちは「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません。[19]」と答えている。恐らく誰しも主イエスにこう言われたら、弟子たちと同じように答えるでしょう。しかし「パンはいくつあるのか」、私は主イエスのこの言葉が好きです。今あなたに与えられているものを数えてみなさい、と言うのです。そう言われて自分の周りに目をやると、思いのほか多くのものが与えられていることに気づかされる。ここがあなた方の出発点である、と言うのです。信仰者の、キリスト者の、そして教会の出発点である、というのです。
パウロも多くのものを持っていなかった。彼自身、自分のことを「土の器[20]」だと言っています。体が弱く、弁舌は下手で、到底神の器としてその任務を果たすことは出来ないと感じていた。生活のためにはテント職人として働きながらの伝道でした。彼が持っていたものは、五つのパンと二匹の魚に過ぎなかった。これはパウロだけでなく、多くの人々にあてはまる。教会の牧師、教会員、教会学校の先生も多くのものをもってはいない。アンデレは五つのパンと二匹の魚を差し出しながら、何の役にも立たないでしょう、と言っている。私たちも今更の如くこれを感じる。しかしこれが私たちの現実。しかし、アンデレのように私たちが受けている最小限度のものを主イエスに返すとき、主イエスはそれを手に取り、測り知ることのできない力をもって豊かにして私たちに返したもう、というのです。これはキリスト教の歴史を貫いている大きな原理であり、事実です。
ある時人々は主イエスに、一枚の貨幣を与えた。しかし、それはイエスを通して神と人間、キリスト者と国家との関係をあらわすものとして私たちに帰って来た。(マルコ福音書12:13~17)
ガリラヤの貧しい、無学な漁夫たちが、「われに従え」という主イエスの言葉に従って、いと小さきものを捧げた時に、それは人類の歴史にとって、まことに実り多い大きな可能性をはらんだ出来事として、私たちに帰って来た。
私たちが裁こうと思って、イエスの前に突き出した姦淫の女は、逆に私たちを裁くものとして、私たちに帰って来た。(ヨハネ福音書8:1~11)
また人々は主イエスに十字架を負わせた。しかしそれは、主イエスによって深められ、拡大され、もはや恥ずべきもの、惨めなものではなく、あがないの愛のシンボルとして私たちに帰って来た。
この転換が福音のエネルギー
弟子たちが持っていたわずかのもの、取るに足りないもの、何の役にも立たないと思われるものを、主イエスの御前に捧げることによって彼らが多くの人々を養ったというのは、このような点に関係してくる。
教会もそれに連なるキリスト者も、このような仕方においてのみ、その使命を達成していくのだということは、深く慰めに満ちたことであり、福音独自の領域であるということが出来る。私たちの持っている小さなもの、わずかなもの、何の役にも立たないと思われるものは、私たちのつまずきでもなければ、失望の原因でもなく、まったく、その逆であるというのです。パウロはこれを「神の力は弱いところに完全にあらわれる。[21]」と言っている。あなたは最小のものであっても、今既に神に与えられているものがある。これを数えなさい。これを確認して感謝し、そこから出発しなさい、と言うのです。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを任せよう。主人と一緒に喜んでくれ、という主人の言葉をかみしめたいと思います。
時間的に言うならば、あなたが行動を開始するのは、明日ではなく、今日なのだ、と言うのです。時が経てばどうにかなって、≪その時は≫というのではない。放蕩息子は着のみ着のまま、破れた、そのままの姿で父のもとに帰った。服を着せ、履物をはかせ、食事を用意してくれるのは父なのです。
このことを主イエスはピリポに示して、何も言いません。しかしピリポは敏感にこのことを察知します。このことがあってからピリポは、アンデレに一目置くようになります。そして何かとアンデレに相談するようになります。彼は自分にはないものがアンデレにはあることを率直に認め、アンデレに学ぼうとする謙虚さを有していました。私たちはこのピリポの謙虚さに学びたいものです。そのことを示す箇所を引用しておきます。「さて、祭りのとき、礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。」(ヨハネ福音書12:20~22)とあります。これらのギリシャ人たちは、ユダヤ教への改宗者たちではないかと思われます。彼らがピリポの所へ来たのは、彼がユダヤ人であったがギリシャ名を有していたからだと思われます。彼らの申し出を受けたピリポは、直接イエスのもとへ行くのではなくまずアンデレに相談に行っています。それから二人でイエスのもとへ向かっています。ピリポは頭で考えるだけの人から、心で考える人に変わろうとしています。主イエスがピリポを試したのは、この合理的なものの考え方の問題点を示そうとされたのです。そして「この人たちに 食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問われたのです。
このピリポには更に後日談があります。ヨハネ福音書14章に記されています。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば私たちは満足できます。」といって主イエスに迫るところです。これは次回と致します。
昭島教会は来週永眠者記念礼拝を持ち、次の週には創立七十周年を迎えます。本多弥蔵さんと石黒ㇳヨさんによって「この地に教会が与えられるように、」という熱き祈りが捧げられ、そこに石川先生が加わり、以来七十年の歳月が経過しました。昭島教会はその間多くの兄弟姉妹、先生たちによって主イエスに捧げられた五つのパンと二匹の魚が、主イエスによって祝福され、多くの人たちに分け与えられ今日の昭島教会を造り上げてきました。私たちは創立70周年を前にして、人知では測り知ることのできない奇跡とも言うべき神の御計画とその力を、今、目の当たりにしているのです。私たちは誇りと確信をもって五つのパンと魚二匹を、主イエスに捧げたいと思います。そのことが続く限り昭島教会は百周年、二百周年、主イエスが再び来られる時まで、恵みの内に守られることでしょう。我らは既に召された方々と共に、天上からその歩みにエールをおくりたいと思います。
[1] このお話の原型は、列王記下4:42~44にあると言われています。
[2] マルコ6:37 マタイ14:16 ルカ9:13
[3] RSVではthis(このことを) he(イエスは)
said to test (試みるために言った)him(ピリポを) となっています。
[4] φιλιππος(英語―philip)
[5] ヨハネ福音書1:44 ベトサイダはガリラヤ湖の北の端。マルコ福音書1:16
[6] ヨルダン川東岸の町々で、アレクサンダー大王とその配下の将軍たちによって建てられた。
(その一つベテシャンは川西)プリニウスによると。それらはベテシャン(=スクトポリス)、ベラ、ディオン、カナタ、ラフィナ、ヒッポス、ガダラ、フィラデルフィア(ラバテ・アンモン)、ダマスコ、ゲラサである。イエスはその中の幾つかを訪れ、またこの地方からもおびただしい群衆がイエスに従った(マタイ4:25、マルコ5:20 7:31)聖書辞典より。
[7] ガリラヤ湖の北40㎞、ヘルモン山の南麓にあった異邦人の町。ローマの神パンの礼拝所があった。(聖書辞典より)
[8] 使徒言行録6:1~7ここに登場する7人は、いずれもギリシャ語を話すユダヤ人。
[9] コリント人への手紙第1 1:22
[10] ヨハネ福音書1:43
[11] ガリラヤのカナ出身 ヨハネ福音書21:2
[12] ヨハネ福音書1:45
[13] ヨハネ福音書1:41「私たちはメシア(訳せばキリスト)にいま出会った。」(口語訳)
[14] ヨハネ福音書7:41、42 旧約聖書ではイザヤ書9:1~7参照。ゼブルン、ナフタリというのは、十二部族の二つの部族でガリラヤ地方に配置されています。
[15] ヨハネ福音書7:50以下
[16] ヨハネ福音書3章にニコデモが夜ひそかにイエスを訪ねた時の様子が記されています。また十字架に架けられたイエスを十字架から降ろし、没薬と沈香とをまぜたもの100斤ほどを持って、アリマタヤのヨセフを手伝っています。(ヨハネ福音書19:39参照)
[17] マルコ福音書9:14~29
[18] マルコ福音書6:38
[19] ルカ福音書9:13
[20] コリント人への手紙 第2 4:1~15 土の器は4:7「しかし私たちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、私たちから出たものでないことが、あらわれるためである。」
[21] コリント人への手紙第2 12:9