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山上の説教(2022年10月16日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 504 主よみ手もて
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「山上の説教」

マタイによる福音書5章1~12節

関口 康

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

今日の聖書の箇所はマタイによる福音書5章1節から12節までです。イエスさまが山の上から説教されたという意味で「山上の説教」と呼ばれてきた箇所の最初の部分です。

「山上の説教」は5章から7章まであります。一度にすべてをお話しすることはできません。今日取り上げますのは新共同訳聖書が「幸い」という小見出しを付けている段落だけです。

しかし、この今日取り上げる「幸い」という部分こそが、5章から7章まで続く「山上の説教」全体の焦点です。法律でいえば憲法に当たる、最も基本的なことが語られている部分です。

「何々な人々は幸いである」と9つ出てきますが、最後の11節と12節は10節の「義のために迫害される人々」に含まれると考えることができるので、この箇所が「8つの幸い」や「八福(はちふく)」などと呼ばれることがあります。カトリック教会は「真福八端(しんぷくはったん)」と言うそうです。

また、8つの幸いが無秩序に並んでいるのではなく、3つのグループに分けることができます。第1グループは、3節から6節までの4つの幸いです。第2グループは、7節から10節までの4つの幸いです。そして第3グループは11節と12節ですが、先ほど申し上げたことから言えば第2グループに含めるほうがよいとも考えられますが、11節と12節に出てくるのは「わたし(イエスさま)のために迫害される人々」に限定されていますので、別グループのほうがよいとも考えられます。

第1グループと第2グループの差は、わたしたちの常識的な感覚や判断に逆らっているという意味で、逆説性が強いか弱いかです。

逆説性が強いのは第1グループです。「心の貧しい人々」(3節)、「悲しむ人々」(4節)、「柔和な人々」(5節)、「義に飢え渇く人々」(6節)が「幸いである」(?!)と言われているのですから驚きです。多くの人々は「正反対ではないか。それは不幸なことに決まっている」と感じるに違いありません。

「柔和な人々」(5節)が「幸いである」と言われているのは逆説ではないのではないかとお考えになる方がおられるかもしれません。しかし、これは逆説です。

このマタイ5章5節は詩編37編11節(旧約聖書869ページ)に基づいています。またヘブライ語とイエスさまがお用いになったアラム語とで「柔和な人々」は、第1グループ最初の「心の貧しい人々」と語源が同じです。つまりそれは否定的な意味を持つ言葉であるということです。

言葉の意味は「温和な性格で、短気でなく、すぐに腹を立てたりしない」など良いこと尽くめのようですが、裏返せば「何をされても反撃しない、あきらめて黙って忍耐する」という意味です。それは「飼い慣らされた、家畜のような」という意味です。それを肯定的な意味だととらえるのは、そういう人々を迫害し、支配したい側の人々の発想です。イエスさまは、そちら側の立場にはおられません。

しかし問題は、なぜイエスさまは、あえて常識に逆らうようなことを言われたのかということです。「幸いである」と訳されているギリシア語(マカリオス)は、長生きしている人々、財産や家族や地位や名誉に恵まれている人々を指して用いられる言葉でした。それは古代ギリシア・ローマの価値観に基づいていますが、西暦1世紀のユダヤ人たちもその影響を強く受けていましたので、言葉の用い方は同じです。イエスさまがその価値観と正反対のことを、意図的・対立的に言われたのです。

しかも、逆説性が強い第1グループの中で、イエスさまが明らかに最も中心に置かれているのは、最初の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えです。「心の豊かな」人々ではなく「心の貧しい」人々が「幸いである」とイエスさまが言われました。

この件に関しては、ルカによる福音書の並行記事(ルカ6章20節)に「心の」がつかない「貧しい人々」が「幸いである」と記されていますので、どちらのほうがイエスさまの真正のお言葉であるかについて議論があります。元々のイエスさまの言葉に「心の」があったのをルカが省略したのでしょうか、それとも、元々無かった「心の」をマタイが追加したのでしょうか。その議論に立ち入るつもりはありませんが、ルカのほうも経済的社会的貧困だけを意味していないということを指摘しておきます。

イエスさまが言われた「心の貧しい人々」に近い旧約聖書の言葉があります。それはすべてイザヤ書の中に出てくる(57章15節、61章1節、66章1節)「打ち砕かれた心の人」という言葉です。イザヤ書の場合は、経済的社会的な意味での貧困経験の中で、差別や偏見や冷笑や罵倒などを受けて心理的・精神的・霊的に疲れ果ててしまい、心が完全に折れてしまった人たちです。

「私がこんなに苦しんでいるのに、神は何もしてくれないし、何も言ってくれない。そんな神は要らないし、神など存在しないと言うほかない。生きる意味も分からないので死ぬしかない」と人生と世界と神に完全に絶望した人たちです。

そうである人たちは、いつも固定しているある一定の社会的貧困層に属する人たちに限りません。いつでもだれでも、その立場に置かれうる可能性があります。油断も隙も無い競争社会の中で、何かの拍子に足を滑らして、あっという間に生活だけでなく精神的に打ちのめされてしまうことがあります。

いま申し上げていることを私はまるで他人事のように言っていますが、全くそうではありません。しかし、今は私の話をする時間ではありません。私のことなどよりもはるかに大事なことがあります。

それは、マタイが記しているように「心の貧しい人々」であれ、ルカが記しているように「心の」がついていない「貧しい人々」であれ、そうなることは、いつでもだれでも起こりうることではありますが、実際に自分がそうなったということを自覚するのは実際にそうなった瞬間であるということです。実際に自分が経済的にも精神的にも空っぽの無一文になるまで、人は自分が「貧しい人間」であることを受け容れることができないし、自覚もできないということです。

わたしたちは、すべてを失う最後の最後まで、まだチャンスがあるかもしれないと期待し続けています。そうなるかもしれないといくら予測していても、すべてを完全に失うまであきらめていません。だからこそ、完全に失ったときの絶望が恐ろしいのです。いま自分が立っている地面か床の板が突然抜けて、真っ逆さまに落ちる感覚を味わうのです。

しかし、わたしたちは、まだすべてを失っていないし、すべてを失うことはありません。床が抜けて真っ逆さまに落ちても、そこで受け止めてくださり、しっかりと支えてくださる「神」がおられます。イエスさまがおっしゃっているのはそのことです。すべてを失って絶望している人々のために天の国があります。神はその人々に永遠の命と居場所を用意してくださる方です。それは死後の世界という意味だけではありません。イエス・キリストの十字架の愛を信じる信仰に基づく交わりを意味します。

「心の貧しい人々」とは「神に来ていただく場所が心にある人」のことです(ファン・ルーラー)。熱心な信仰の持ち主という意味ではありません。むしろ空洞です。むしろ完全に空しい心です。むしろ絶望です。その空洞の中に神が入ってくださいます。喜びと希望と力を与えてくださいます。

(2022年10月16日 聖日礼拝)

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