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すべての人の神(2023年1月8日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 211番 あさかぜしずかに
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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「すべての人の神」

使徒言行録10章34~43節

関口 康

「預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

今日の聖書の箇所は使徒言行録10章34節から43節です。この箇所に記されているのは使徒ペトロの言葉です。

この言葉が「いつ、どこで、だれに、なぜ」語られたのかを学ぶことは、とても大事です。「文脈」を無視すべきではありません。しかし、今日は踏み込みません。別にお話ししたいことがあります。

文脈に踏み込まなくても分かることがあります。それは、使徒ペトロは初代教会の代表者だったということです。代表者の発言は初代教会の信仰告白の基本線を表していると言える、ということです。

それではこのペトロの言葉の核心部分はどこでしょうか。それを見抜く必要があります。34節から43節のすべてが核心部分であるとも言えますが、長いです。たとえば「20字以内で要約してください」と問われたとき、どう答えればよいだろうかと考えてみることも大事です。

私なりの答えは「イエス・キリストこそ、すべての人の主です」(20字以内)です。「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう」(36節)。

しかし、これだけでは意味不明です。やはり「文脈」が大事です。「神は人を分け隔てなさらない」(34節)、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(35節)、「イエスは方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」(38節)、「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」。

注目すべき言葉は「どんな国の人でも」「すべて」「だれでも」「神は人を分け隔てなさらない」です。間違えてはなりません。これはイエス・キリストの弟子であるわたしたち教会の問題です。教会はだれに伝道するか、だれの悩みや苦しみに寄り添い、助けるかの問題です。そのことについて、教会が差別してはいけないということです。「イエス・キリストはすべての人の主」だからです。

しかも、イエスさまと神さまが区別されてはいますが、36節の「この方こそ、すべての人の主です」の「主」(ギリシア語「キュリオス」)は、神ご自身、あるいは神と等しい存在を指します。したがって、「すべての人の〝主〟」を「すべての人の〝神〟」と言い換えても趣旨に変更は生じません。イエス・キリストにおいてご自身を啓示された神は、人を分け隔てなさいません。

しかも、「イエス・キリストはすべての人の主である」と言われる場合の「すべての人」はキリスト者に限らず、という意味を含んでいます。これも教会の宣教にかかわる問題であることをわたしたちは忘れてはなりません。教会はキリスト者の専有物ではありません。わたしたちは信じているから(because)教会に通うのではなく、信じるために(in order to)教会に通うからです。信仰に至っていない人や、疑いだらけで信じきれない人に居場所がないようなところは「教会」ではありません。

ここまでが今日の聖書箇所の説明です。これから申し上げるのは一冊の本の紹介です。日本語版は2014年10月に発売されましたので、すでにお読みになった方がおられるかもしれません。

昨年亡くなられましたが、アメリカの宗教社会学者ロドニー・スターク教授(Prof. Dr. Rodney Stark [1934-2022])の『キリスト教とローマ帝国』(穐田信子訳、新教出版社、2014年)です。本書の主題は、西暦1世紀にパレスチナの片田舎で産声を上げたキリスト教が西暦4世紀(392年)にローマ帝国の「国教」になった理由は何か、です。その問題をスターク教授は統計学を駆使して解明しました。

それを今日取り上げるのは、特に年頭に際し、わたしたちの「これからの」宣教にとって大いに参考になると思うからです。

スターク教授によると、紀元40年のキリスト者人口はわずか1000人でした。ちょうど今日の聖書の箇所の頃です。ローマ帝国の総人口における比率は0.002パーセント。

しかし、紀元100年に7,530人(0.0013%)、紀元150年には40,496人(0.07%)、紀元200年に217,795人(0.36%)、紀元250年に1,171,356人(1.9%)、紀元300年には6,299,832人(10.5%)、そして「国教化」目前の紀元350年には33,882,008人(56.5%)になりました。

大事なことは、数字そのものよりも「なぜ増えたのか」です。その理由としてスターク教授が挙げているのが、紀元165年を発端として西暦2世紀のローマ帝国に襲い掛かった「ガレン(ガレノス)の疫病」です。死者総数に諸説ありますが、スターク教授は「ローマ帝国の人口の4分の1から3分の1が死滅した」という説に説得力があるとします。この疫病の流行のピーク時には、ローマだけで1日に5千人死んだという報告があるほどの大惨事でした。

その悲惨な状況の中でキリスト者による病者の看護が目覚ましかった、というのが本書の結論です。キリスト者は「死を恐れない」信仰を持っていたので、自分が疫病に感染する危険をいとわず、果敢に病者に近づき、病者がキリスト者であろうとなかろうと分け隔てせず、その人の口に忍耐強くスープを運び、とりなしの祈りをささげたので、その手厚い看護によってキリスト者生存率が高まり、また配偶者を疫病で失った異教徒が手厚い看護をしてくれたキリスト者に愛情を抱き、再婚したり、新しい配偶者が信じているキリスト教へ改宗したりしたため、キリスト者の人口が増えたという結論です。特に、キリスト者女性の働きは目覚ましいものでした。

キリスト者が「増えた」理由はまだあります。キリスト者は「子だくさん」でした。そのことがなぜ異教徒との差になるのかといえば、この時代のギリシア・ローマ世界において生まれた子どもの選別(間引きや中絶)をするのが当たり前だったからです。特に、女の子と障がいを持って生まれた子どもが対象とされました。しかし、キリスト者はそれを断固として禁じ、拒否し、生まれた子どもはすべて受け入れて育てたので、異教徒よりも人口が増えた、という結論です。

もうひとつの大事な点は、「キリスト者はユダヤ人伝道に成功した」という分析です(67頁以下)。キリスト者はユダヤ人への宣教を断念しなかったし、ユダヤ人の中からキリスト教へ改宗する人々が大勢いたことも「増えた」理由であるとします。ユダヤ人は西暦2世紀に国土を完全に失い、世界各地への離散の民(ディアスポラ)になりますが、長い伝統に基づくユダヤ人ネットワークがありました。そのユダヤ人ネットワークの中で、旧約聖書を捨てなくてよく、新約聖書を加えればよいキリスト教への改宗の動きが拡大した、というのです。(以上、関口による要約)

今のわたしたちにとって大いに参考になるではありませんか。神が人を分け隔てしないのですから、わたしたちも人を分け隔てすべきではありません。今はコロナ、戦争、不況の時代です。キリスト者であろうとなかろうと、手厚くもてなし、看護し、性別や障がいの差別などは断固拒否し、命を大切にし、互いに愛し合い、多種多様なネットワークを用いて広く深く永続的なかかわりを築いていくこと。

それこそがわたしたちの「これからの」宣教の目標です。古代教会の歩みから学ぶことは多いです。

(2023年1月8日 聖日礼拝)

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