スキップしてメイン コンテンツに移動

家族も救われる(2023年1月15日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 7番 ほめたたえよ力強き主に
奏楽・長井志保乃さん 動画・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます


「家族も救われる」

使徒言行録16章25~34節

「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます』」

今日の聖書の箇所は使徒言行録16章25節から34節までです。この箇所に大勢の人が登場します。主役は使徒パウロと同行者シラスです。この二人以外の「ほかの囚人たち」(25節)もいます。「看守」(27節)もいます。そして最後に「看守とその家の人たち全部」(32節)が登場します。

囚人や看守がいるのは刑務所です。つまり、この物語に描かれているのはパウロとシラスが刑務所の牢に入れられ、そこから解放されるまでの出来事です。場所はマケドニア州のフィリピ(16章12節)。パウロの第二回宣教旅行の最中でした。

使徒言行録でパウロが刑務所に収監されるのは、この箇所だけです。ローマ兵に縄で「縛られ」たり(22章22節)、「鎖」をかけられたり(22章30節参照)、「留置」されたり(23章35節)しましたが、「牢に入れられた」とまでは記されていません。しかし、刑務所は人生一度でもごめんです。

パウロとシラスがなぜこのような目に遭ったかを知るためには16章16節から読む必要があります。発端はフィリピにいた「占いの霊に取りつかれている女奴隷」(16節)との出会いです。「占いの霊」(プニューマ・ピュトナ)の意味は「ピュトンの霊」です。ピュトン(英語「パイソン」)はギリシア神話に登場する蛇です。アポロンの神託を守り、アポロンによって殺された蛇です。

そして「ピュトンの霊に憑依された人」というその言葉自体が「腹話術師」を意味します。そして、それが「占い師」です。つまり、この女性(おそらく少女)は、腹話術を使って占いをする人でした。蛇を体に巻き付けて、脇の下から蛇の頭を出して、腹話術で占いの言葉を話して、蛇がしゃべったように見せ、お客さんから受け取った占いの料金を雇用主に渡すために働かされていた奴隷でした。

しかし、それは聖書の教えとは全く異質です。使徒言行録には、キリスト教の伝道者が異教的な魔術的宗教に立ち向かう場面が何度か出てきます。この箇所はそのひとつです。他にも、魔術師シモンVSフィリポ (8章9節以下)、魔術師エリマ VSサウロ(後の使徒パウロ)(13章8節以下)、エフェソでアルテミス神殿の模型を作っていた銀細工師デメトリオVSパウロ(19章23節以下) などがあります。

今日の箇所の女性は、パウロたちにつきまとって幾日も同じことを叫び続けました。それでパウロがたまりかねて、その霊に「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言ったら、「霊が彼女から出て行った」(18節)というのが、パウロとシラスが刑務所に収監された理由です。

「たまりかねて」(ディアポネーセイス)の意味は「不快、不機嫌、憤慨、激怒、当惑」などです。パウロが感情むき出しで腹を立て、おそらく大声で怒鳴りつけたことを表しています。パウロのこういうところは直すほうがよいかもしれません。伝道者の粗暴な性格はつまずきの元です。しかし問題は、パウロがなぜ、または「何」に激怒したかです。ふたつ考えられます。ひとつは、この女性が毎日付きまとい、大声で騒ぎ続けたその迷惑行為そのものです。しかし、それだけではありません。パウロはこの女性の背後にある悪魔信仰と占いの世界そのものにも反対しています。

後者に対する不快感が、付きまとい行為に対してよりも比重が大きいと言えます。「悪を憎んで人を憎まず」は孔子の言葉ですが、パウロにも当てはまります。だからこそパウロは、「イエス・キリストの名によって」この女性に、ではなく「霊」に向かって、この女性から「出て行け」と命じたのです。

すると、この女性から「占いの霊」が出て行き、正気に戻りました。二度と占いができなくなったという意味です。それで激怒したのがこの女性の雇用主です。「悪を憎んで人を憎まず」だと言いました。「占いが悪なのか」と疑問を感じた方がおられるかもしれません。難しい問題です。しかし、明らかに悪いのは、奴隷を脅して働かせて、その奴隷が稼いだ金を巻き上げて生きている悪党どもです。パウロがしたことには、悪党集団からひとりの少女を助け出した面があります。

「金もうけの望みがなくなってしまった」(19節)主人たちは、パウロのしたことが原因だと知って激怒し、捕まえて高官(法務官)のもとに連れて行き、でたらめな理由を並べて、パウロたちを告発しました。群衆も一緒に騒ぎ出したため(22節)、高官たちはパウロたちを裸にし、鞭で打つように命じ、いちばん奥の牢に投げ込み(文字通り「投げた」)、足に木の足枷をはめて看守に見張らせました。

「鞭で打つ」(23節「ラブディゾー」)は、ローマ人のやり方では木の棒または杖(ラボス)で叩くことを意味します。ユダヤ人の鞭打ちは、ひもで叩きます。「杖」は職権のしるしであり、「杖を持つ人」は職権を有する人です。つまり、ローマの「鞭打ち」はローマ帝国の権力を背後に持つ屈辱極まりない刑罰です。パウロがコリント教会に宛てた書簡に「鞭で打たれたことが三度」(Ⅱコリント11章25節)と書いているのも「棒で叩かれた」(ラブディゾー)です。

状況説明が長くなりました。パウロとシラスが刑務所に収監されるまでの経緯の概略は以上です。想像するだけでぞっとする、全く堪えがたい仕打ちだと私には思えます。

ところが、様子が変です。体も心も傷ついたパウロたちが沈み込んでうずくまっていたかというと、正反対でした。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(25節)(?!)。

キリスト者には、大なり小なりこういう面があります。状況から考えれば苦痛のどん底にいるはずなのに、どこかしらひょうひょうとしていて、明るい性格のようだけれども、世間離れしているようでもあり、とらえどころがない。刑務所のいちばん奥の牢に厳重な足枷までかけられて閉じ込められているのに、讃美歌を歌ったりお祈りしたり。それを他の囚人たちが聞き入っていたというのです。笑いごとではありませんが、笑いがこみあげて来て、なごめるものがあります。

すると、次に起こったことが大地震です。刑務所の土台が揺れ、ドアが開き、鎖が緩みました。そのことを神が介入してくださって起こった出来事だという意味で使徒言行録は記しています。

しかし、驚くべき記述がまだ続きます。大地震ですべてのドアが開いた刑務所からすべての囚人が脱走したかといえば、そうではありませんでした。他の囚人も全員いたかどうかまでは分かりません。しかし、パウロとシラスは逃げませんでした。囚人脱走の責任をとらされると思い込み、自害しようとした看守に「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(28節)と呼びかけ、食い止めました。

すっかり驚き、恐怖すら抱いた看守が、パウロに魂の救いを求めました。「先生がた、救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)。「すべき」の意味は、神の御心にかなう道は何かです。パウロとシラスの答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)でした。

なぜ「家族も救われる」のかについての詳しい説明はありません。しかし理由は分かります。パウロとシラスの賛美と祈りの声を他の囚人たちが聞き入っていたというあたりにヒントがあります。

ひとりの人が救われると、家庭内にひとり「異次元」に立つ人が生まれます。それが嫌われる原因になるかもしれません。しかし、破局の防波堤になる場合があります。家族みんなが一蓮托生で絶望して破滅の道を突き進むのではなく、たったひとりでも神に期待し、讃美を歌い、祈る人がいれば、常識や社会通念とは異なる、全く別次元からの問題解決の道が生まれ、必ず出口が見つかります。

(2023年1月15日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

十字架のキリスト(2023年4月2日 棕櫚の主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 300番 十字架のもとに 週報ダウンロード 宣教ダウンロード 「十字架のキリスト」 ルカによる福音書23章32~49節 関口 康 「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」 今日の聖書箇所についての説教は、 昨年11月20日の主日礼拝 でしたばかりです。4か月しか経っていません。「また同じ箇所か」と思われる方がおられるかもしれません。 私はそのことを忘れて、今日この箇所を選んだわけではありません。受難節と復活節が毎年巡って来ることは分かっていますので、そのとき改めて取り上げようと考え、 昨年11月20日の礼拝 では、深く立ち入らないで残した箇所があります。 それはゴルゴタの丘にイエスさまと2人の犯罪人がはりつけにされた「3本の十字架」が立てられたことについてです。そのことをすべての福音書が記しています。「犯罪人たち」(κακούργοι)と記しているのは、ルカ(23章32節、33節、39節)だけです。マタイ(27章38節)とマルコ(15章27節)は「強盗たち」(λησταί, ληστάς)。ヨハネ(19章18節)は「二人」(δύο)と記しているだけです。 そして、ルカによる福音書には3人とも十字架にはりつけにされた状態のままの、イエスさまと2人の犯罪人の対話が記されていますが、他の福音書にはそのようなことは何も記されていません。その対話の内容を知ることができるのは、今日開いている箇所だけです。 対話の内容はわたしたちが繰り返し学んできたとおりです。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』」(39節)。 「自分を救え」は英語でセーブ・ユアセルフです。今日の箇所に3回繰り返されます。最初はユダヤ最高法院の議員たち(35節)。2度目はローマ軍の兵士たち(37節)。3度目がこの犯罪人です(39節)。 「世界を救え」はセーブ・ザ・ワールド、「子どもたちを救え」をセーブ・ザ・チルドレン。それと同じ言い方ですが、イエスさまに向けられた言葉は罵倒と嘲笑です。 あなたは自称メシアだろう。それなのに惨めだね。あなたは世界を救えない。ユダヤ人も救えない。異邦人も救えない。せめて自分ぐらい救

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で