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神は耐えられない試練を与えない(1月22日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 351番 聖なる聖なる
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きになれます


「神は耐えられない試練を与えない」

コリントの信徒への手紙一10章1~13節

関口 康

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」

今日の聖書の箇所は、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一10章1節から13節までです。ひとつの段落であるこの箇所の最後の13節にとても印象的な言葉が記されています。短くすれば「神は耐えられない試練を与えない」という意味になる言葉をパウロが記しています。

私は昭島に来てからテレビを観なくなりました。「忙しいので」を理由にしておきます。それで私に不足している知識はテレビドラマや情報番組の内容です。ニュースはインターネットで把握しています。それで感じるのは、聖書やキリスト教とは無関係な場面で「神は耐えられない試練を与えない」という言葉を頻繁に見かけるようになったことです。

とても慰められる言葉ですので、愛唱聖句にしておられる方がきっといらっしゃるでしょう。私も同じです。とても慰められます。しかし、この言葉が嫌いだとおっしゃる方がおられることも知っています。

いま味わっているこの過酷な現実を、神が与えた試練だと信じること自体はやぶさかでない。しかし、だからといって、これ以上の苦しみはないと思えるほどの苦しみを味わっている最中にこの言葉に接すると、「つまりそれは、私が味わっている苦しみは耐えられる程度の軽いものなので耐えなさいという意味でしょうか」とどうしても聞こえ、反発心を抱くきっかけになります。その気持ちもよく分かります。

いま私が申し上げていることで大事なことは三つです。

第一は、これは聖書の言葉であるということです。パウロの言葉です。テレビドラマや有名人に由来する言葉ではありません。

第二は、この言葉には文脈があるということです。文脈から離れたところで用いてはいけないという意味ではありません。言葉が独り歩きするのは当然です。しかし、元々の文脈の中でどういう意味で言われたかも大事です。別の意味で用いるべきではないという意味でもありません。しかし、気を付けなくてはならないことがあります。

それが第三の大事な点です。たとえ慰めに満ちた聖書の言葉であっても、使い方次第で相手を深く傷つける場合があります。取り扱いに細心の注意が必要です。

しかし、今申し上げた点を踏まえたうえで、もう一歩先のこととして申し上げたいのは、この段落にパウロが記している内容は解釈がとても難しいということです。分かるのはごく大づかみなことだけです。

この段落に記されているのは旧約聖書の出エジプト記の物語です。モーセに率いられたユダヤ人が奴隷の地エジプトから脱出して約束の地カナンをめざすあの物語です。

しかし、解釈が難しい言葉が、いきなり出てきます。「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属する洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」(1~4節)。

なぜここで「雲」の話になるかといえば、モーセたちが出エジプトの旅の中で「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」(出エジプト記13章21節)からです。

彼らにとって「雲」は保護のしるしです。「海を通り抜け」は背後に迫るエジプト軍からユダヤ人が逃れるためにモーセが葦の海を杖で割った奇跡物語(出エジプト記14章)を指しています。つまり「海」は解放のしるしです。

そして「雲」と「海」はどちらも「水」でできているというのがパウロにとって大事な点です。雲と海という「水」でユダヤ人の先祖は、モーセから洗礼を受けたのだとパウロは言っています。この解釈は私が参考にしているオランダ語の註解書(F. J. Pop, De eerste brief van Paulus aan de Corinthiers, De prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1965)の立場です。

これ以外にもこの段落には解釈が難しい言葉が次々に出てきます。見落としてはならないのが5節と6節です。「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです」。

これでパウロが言いたいことは、「洗礼」を受けたすべての人が、「海」と「雲」で表わされた神の保護と解放のみわざの中にとどまったとは言えないということです。もっとはっきり言えば、洗礼を受けて信者になった人が、その後に何をしでかそうと、深く人を傷つけるようなことをしようと、すべて神が見逃してくださるので罪を犯し続けても構わないという教えは成り立たないということです。パウロこそ信仰義認の教えを強調した人ですが、それとこれとは矛盾しません。

この段落でパウロが禁じている「悪事」は、はっきり分かるのが三つです。「四つある」という説明を見かけましたが、意味がよく分かりませんでした。第一は「偶像礼拝」(7節)です。第二は「みだらなこと」すなわち淫行(8節)です。第三は「不平を言うこと」すなわち短気(10節)です。これらの悪事を繰り返している人があなたがたコリント教会の中にいる、それはいけないことだと、パウロは強く警告しています。

以上の内容が「神は耐えられない試練を与えない」という言葉の文脈です。どうつながるかが分かりにくいとお感じになる方が多くないでしょうか。つながりにくさの原因は「試練」という訳語にあるかもしれません。誤訳であるとは言えません。しかし、文脈とつながりにくいです。

パウロとコリント教会の関係という文脈という観点から最もふさわしい訳語は「誘惑」です。「神は耐えられない誘惑を与えない」です。誘惑の具体的な内容は、上に述べた偶像礼拝、淫行、短気、そしてそれ以外にも多くあります。

誘惑の共通点は、逃げ道を奪われることです。それが罠です。入ったら出られなくされます。客がいなければ商売は成立しません。しかし、神は罠の網を引き破ってくださって「逃れる道」、しつこく付きまとう悪の誘惑からの「出口」を作ってくださいます。その「出口」こそ、ユダヤ人の先祖が体験した出エジプトの出来事であり、キリスト教信仰にも当てはまるということです。

まるで神御自身が罪の作者(the creator of Sin)であるかのように、すなわち、神が人間を「罪を犯さないことができない」(non posse non peccare)存在に創造されたかのように考えるのは間違いです。自分の罪を神のせいにしてはいけません。堕落の責任は人間の側にあります。罪を犯すことに必然性(Necessity)はありません。罠の網を神が引き破り、逃げ道を作ってくださいます。わたしたちは罪を犯し続けることをやめることができるし、やめなければなりません。これが「神は耐えられない試練を与えない」という使徒パウロの言葉の元々の意味です。

(2023年1月22日 聖日礼拝)

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