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不思議な出会い(2023年1月29日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 289番 みどりもふかき
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん


「不思議な出会い」

ヨハネによる福音書4章1~26節

秋場治憲

今日のテキストはヨハネ福音書4章ですが、「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちであるーユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかしサマリアを通らねばならなかった。」という文章で始まっています。冒頭から非常に緊迫した空気が伝わってきます。主イエスと弟子たち一行がファリサイ派の手を逃れて、ユダヤからガリラヤに向かって逃げた時の状況が記されています。ヨハネ福音書は1章で弟子たちの召命、そして2章でガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えるという奇跡の後、舞台をエルサレムに移します。過ぎ越しの祭りのために世界各地からユダヤ人たちがエルサレムにやってきていました。そこで主イエスは縄で鞭を作り、「私の父の家を商売の家とするな。」と言って、神殿にいた両替人たちのテーブルをひっくり返し、羊や牛を境内から追い出した。怒ったユダヤ人たちが、何の権威によってこんなことをするのか、どんなしるしを私たちに見せるつもりか、と食ってかかります。それに対して「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と豪語したのですから、大変です。ただでは済みません。3章ではイエスを訪ねてきたファリサイ派の議員の一人でニコデモと語り合っています。そして今日のテキストである4章は、エルサレムからガリラヤへ逃げなければならなくなったと記しています。イエスがバプテスマのヨハネよりも大きな影響力をもって活動しているということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。バプテスマのヨハネはファリサイ派の人たちを「蝮(まむし)の子らよ[1]」と言って、非難していましたから、常々ヨハネの言動を疎ましく思っていました。そこへヨハネよりも更に大きな影響力をもったイエスが登場したのですから、大変です。主イエス一行はガリラヤへ逃げるのですが、ここで福音書は「しかし、サマリアを通らねばならなかった」と記しています。

このイエス一行の逃避行が、バプテスマのヨハネが捕らえられる前だったのかどうかということについては、ヨハネ福音書は何も語ってはいません。しかしマタイ福音書4:12には、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」と記しています。またマルコ福音書1:14には、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を述べ伝えた。」と記されていることからも、バプテスマのヨハネは既に、捕らえられていたと思われます。この時の状況がいかに緊迫したものであったかということが伝わってきます。主イエスは身の危険を察知したのです、

当時のユダ人たちはガリラヤへ向かうのにサマリアを通りませんでした。サマリアを通過してガリラヤへ向かうのが最短コース(徒歩で三日の道のり)だったのですが、ユダヤ人たちは倍以上の日数を要するヨルダン川の東側の道を通っていました。この通常のルートを取ったのでは、ファリサイ派に捕らえられてしまうと考えたのだと思います。ただヨハネ福音書はイエスたち一行が身の危険さえあるこの地を通らなければならなかったほどに、その時の状況が緊迫したものであったことを伝えています。前にはサマリアの危険、後ろにはファリサイ派の魔の手が一行に差し迫っていたのです。ユダヤ人とサマリア人たちは、憎しみ会っていましたから、サマリア人の地に入ればファリサイ派の手を逃れることができると考えたのかもしれません。

そして一行はサマリアのシカルという町に到着しました。そこにヤコブの井戸があった。主イエスは疲れてこの井戸端に腰をおろして、休んでおられた。この時の主イエスはどれくらい疲れていたのか、考えてみたことがおありでしょうか。エルサレムからシカルの町まで、直線距離で50㎞、実際の道のりは60㎞と言われています。60㎞というのは、直線距離で東京駅から三浦半島の突端三崎港までの距離です。通常人の歩く速度は時速4㎞と言われていますが、この時は逃避行ですから時速5㎞としても、60㎞の道のりを踏破するためには、12時間歩き続けなければならない。シカルの町に到着したのが昼の12時であれば、エルサレムを出立したのは真夜中の12時ということになる。このとおりではなかったとしても、この6節の「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。」という言葉を理解する手掛かりにはなると思います。


私たちの救い主として来られた方は、決して疲れを知らないスーパーマンではなかった。炎天下ファリサイ人の手を逃れて60㎞もの道のりを、汗まみれになりながら、足を引きずるようにして歩かれた。そして疲れ、一杯の水を所望する。彼は私たちと同じように歩まれ、疲れ、井戸端に腰をおろして休まれたのです。

そこへサマリアの女が水を汲みに来た。弟子たちは食べ物を買うために町へ行っていた。主イエスはこの女に「水を飲ませてください」と言われた。エルサレムからシカルの町まで60㎞の道のりを歩き詰めできた主イエス、しかもこのルートの途中には井戸はないということです。そう考えるとこの主イエスの「水を飲ませてください」という言葉も、一層深い意味をもって私たちに迫ってくるのではないでしょうか。こういう背景のもとに今日の本題であるサマリアの女と主イエスの会話に入るわけです。

一杯の水を所望したイエスに対して「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」という言葉が返されます。ユダヤ人とサマリア人の歴史的な関係を理解していなければ、この言葉に含まれている意味合いを理解することはできないでしょう。言葉を変えればどうして敵同士である私に、「水を飲ませてください」とあなたは頼むのかというのです。9節の「交際しない」という言葉は、「容器を共用しない」という意味もある言葉です。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている
[2]」という言葉もあります。更に言えば、この当時は、男性は公の場所で女性に声をかけてはならないという習慣があったということです。イエスはそれも無視して炎天下に水を汲みにきたサマリアの女に一杯の水を所望される。しかしユダヤ人を敵とみなしている彼女は、容易に一杯の水を主イエスに差し出そうとはしません。

それに対して「もし、あなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませて下さい』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

この女性には神の子としての、世の救い主としての主イエスの姿は、今はまだ隠されています。主イエスの姿は、低くされた者の姿、乙女マリアより生まれ、十字架につけられ、死して葬られた者の姿です。主イエスの真の姿は、この低くされた姿の陰に隠されてサマリアの女にはまだ見えていません。それでも私たちは彼女の「主よ、」という言葉に驚かされる。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。
(研究者の報告によれば、この井戸の深さは3mと言われています)どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」彼女の頭の中にある水は、あくまでも井戸から汲み上げる水である。「あなたは私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。」彼女はイエスを理解できないでいます。目の前に座っている一人のユダヤ人が誰であるか分かってはいません。しかし分からないながらも、その確信に満ちた言葉の背後に、立場が逆転してしまっているような言葉の背後に、何かを感じ始めたのです。しかしその発言はあくまでも自分の理解した範囲からの発言であり、イエスの言葉が意味するところとかみあってはいません。

これは3章の主イエスとニコデモの話し合いと同じです。主イエスの「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」というのに対して、ニコデモは年をとった者が、もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか、と返しています。ニコデモもサマリアの女も目の前にいる方が、誰であるか分かるには今少し時間が必要です。私はこの滑稽ともいうべき議論を読んでいて、これはついこの間までの自分の姿ではないかと思ったことがあります。私たちが求道の途上にある時、また信仰者になった後でも、何か困難なことに遭遇したり、深い悲しみに見舞われた時に、いつしか救い主としての主イエスの姿が見えなくなり、自分の理性の限界の中から神を捉えようとし、そして捉えきれずに苦悩しているのではないでしょうか。主イエスはニコデモに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言いつつも、議論を打ち切ることなく、実に忍耐強くニコデモを教え諭しています。このニコデモとのかみ合わない会話の最後に、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
[3]」「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命をえるためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。[4]」という有名な言葉が語られます。私たちはここでニコデモに蒔かれた種が、主イエスの十字架の後、葬りに際して開花したことを知っています。それまでユダヤ人たちを恐れて、主イエスへの信仰を隠していたアリマタヤのヨセフとニコデモは、このユダヤ人の世界から出てくるのです。

主イエスはこのサマリアの女に対しても、実に忍耐強く教え諭されます。そして彼女の心の中へ入り込む入り口を探られる。私たちは自分で神に至る道を捜そうとする。主イエスが私たちの心の中深くまでその賜物を、すでに届けて下さっているのに、それに気づかない。それが目に入らない。

しかし遂に主イエスの次の言葉が彼女の心の琴線に触れる。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし私が与える水を飲む者は、決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。
「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

「渇かない」「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」という言葉が、彼女の心の琴線に触れたのです。「主よ、」彼女の口から出た二度目の「主よ、」である。「私が渇くことがないように、また、ここに汲みにこなくてもいいように、その水をください。」

彼女は今風に言うならば、閉じこもりだったのです。他の婦人たちは朝夕の涼しい時間帯に、他の婦人たちとの会話を楽しみながら水をくみにくる。しかしこのサマリアの女は真昼の炎天下に、人影がなくなったころを見計らって水をくみに来たのです。彼女は明らかに人目を避けています。自分の世界に閉じこもって、心を開こうとはしません。交わりを求めようとはしません。これには原因がありました。彼女は重荷を負っていました。その重荷が彼女をして閉鎖的にしていたのです。彼女は亀がその堅い甲羅の中に手足をひっこめるようにして生活していました。しかし、神は彼女のこの問題を恵みの時とする出会いを用意された。私たちが問題に直面する時、試練にあう時、それは恵み深き方に出会う場となるというのです。

主イエスとこの婦人との会話を読んでいて気づいたことは、主イエスが彼女の閉ざされた道を一生懸命開こうとされている姿です。固い結び目を忍耐強く解きほぐそうとされていることです。主イエスは理屈を並べて、この婦人を説得しにかかっておられるのではありません。私に水を一杯飲ませて欲しい。あなたが飲んでいる水を、私も飲みたいというのです。あなたが飲んでいるその水を、私も共に飲もうではないかというのです。そして永遠の命に至る水があることを教えられる。しかし彼女が井戸からくみ上げる水以外には想像することもできないでいるのを見て、主は彼女の裏口に回られるのです。それが、主イエスの唐突とも思われる「あなたの夫をここに呼んできなさい。」という言葉です。彼女は「私には夫はいません。」と答えました。この答えは嘘ではありません。確かに彼女には夫はいないのです。しかしこの答えには隠された部分がありました。彼女は過去に5人の夫を持ちましたが、いずれも破綻し、今は6人目の男と同棲中です。私たちも誰かの質問に答えなければならない時、触れられたくない部分は隠そうとします。またはオブラートに包んで答えるものです。彼女もその部分を隠して答えたのです。しかし主は「そのとおりである」とその答えを全面的に肯定するのです。そしてその上で、隠されている部分を明らかにされるのです。主の眼差しは突然彼女のすべてを見通す鋭い光となります。五回もの結婚に失敗したということは、それだけで彼女のそれまでの人生が悲惨なものだったことが分かります。「この言葉によって、彼女がこれまで歩んできた何十年かの生涯が、丁度サーチライトで照らされたように照らし出されるわけです。恥と恥辱にみちた生涯、心も体もすりへらしてきた生涯、人々の非難とあざけりの眼の下に生きてきた生涯、しかも何の喜びも慰めも平安もない生涯―そういう彼女の現実の一切が、彼女の目の前に展開されたに違いありません。
[5]」恵みの言葉は同時に、私たちに悔い改めを求める審きの言葉でもあります。主イエス・キリストの恵みは、確かに無代価で私たちに提供されています。しかしこの恵みは安価な恵みではないのです。この恵みは父なる神がその独り子を十字架の上で犠牲にして、私たちにもたらされたもの。非常に高価な恵みなのです。

私たちも自らを十字架につけること、悔い改めることが求められます。

彼女は自分の一切がさらけだされて、なおそれを受け止めて下さっている主の眼差しを感じたのです。私たちを責めて不利におとしいれる証書は、その規定もろとも塗り消され、十字架につけて取り除かれたのです。彼女は精一杯の敬意と信頼を表します。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」この女の口から出た三度目の「主よ、」という呼びかけの言葉である。その意味するところは、徐々に、回を重ねるたびに「主よ、」という言葉が本来意味している所へ近づいてきます。

次に彼女にとって切実な問題となることは、礼拝する場所である。ユダヤ人とサマリア人の間に横たわる大きな懸案事項、それが礼拝する場所である。「私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなた方は、礼拝する場所はエルサレムにあると言っています。」「婦人よ、私を信じなさい。あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」

「この山」というのはヤコブの井戸からも見えたゲリジム山ですが、この時、この山に神殿はありませんでした。紀元前128年大祭司ヨハネ・ヒルカノスによって破壊され、サマリア人とエルサレムを中心とするユダヤ人との対立は、頂点に達していました。イエスが登場するわずかに、百年ほど前のこと。それ以来サマリア人たちは廃墟で礼拝を続けていたのです。この女は主イエスは当然、礼拝すべき場所はエルサレムだと答えると思っていたでしょう。それがエルサレムでもゲリジム山でもないと言う。そして父を礼拝するまったく新しい基準、土台を示される。「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」というのです。そして父が求めておられるのは、このような者たちである、というのです。「神は霊である」とは、神は一つの場所に限定されるような存在ではないということです。神はどこにでも存在し、いつでも、どこでも礼拝することができるというのです。「あなた方は神の宮であって、神の御霊が自分の内に宿っていることを知らないのか[6]」という言葉もあります。大切なのはどこで礼拝するかではなく、どのように礼拝するかである。あなたの礼拝は、心から真実なものであるかということが問われているというのです。

ここに至って彼女はユダヤ人とサマリア人という長年の憎しみ、敵意、という隔ての中垣が取り払われ、まったく新しい世界へ、新しい地平へと移されていることを感じたことでしょう。そして、自分のそれまでの恥辱、屈辱、憎しみ、怒りが消えていくような新しい世界への導きを感じたことでしょう。その時「キリスト」という言葉が、彼女の脳裏をかすめました。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」これに対してイエスは、「それは、あなたと話をしているこの私である。」と答えられた。もう証明も何もいらない。主イエス御自身の言葉です。人格そのものの力、権威、温もりがこの婦人を包み込み、圧倒するのです。「この私」は高いところから、遠いところからあなたを観察しているものではなく、井戸端であなたと話をしている者なのです。ここでこの婦人に不思議なことが起こった。28~30節には「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」とあります。

それまで人々の目を避け閉じこもっていた人が、水がめをそこに置き、町に行き、人々に証しする者となるのです。人々の中に入っていく者となるのです。主イエスに出合った者の変化がここにあります。教会とは、そういう人たちの集まりであり、一人一人が輝いている。彼女は自分の過去から解放され、人々との交わりを求め、人の中に入っていく者にかえられたのです。「粒が立つ」という言葉がある。どこで読んだ言葉か思い出せませんが、次のようなことを言っていたと思う。炊きあがったご飯を上からのぞいて、米粒が上を向いていることです。それはみんなが同じではない。一粒一粒に顔がある。それぞれに心があり、信仰がある。その一人一人に神の霊が住み、神の恵みが宿るというのです。

最後に私の注意を引いた言葉があります。35節「あなた方は『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」刈り入れまで四か月もあるなら、畑が色づいているはずはないのです。神の言葉が、真に福音が語られる時には、不毛地帯はないと主イエスは言っているのです。伝道ができない時はないと言っているのです。主イエスは不毛と思われたサマリアに、肥沃な伝道の土壌を見ておられる。そしてイエス亡き後、この地の伝道を開始したのは、あのピリポ
[7]です。


最後の最後に今一つ私の注意を引いた言葉があります。40節以下「そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。」ヨハネの著者はここで「二日間」と具体的に記している。ここでそんなに大事なことなのだろうか。この二日間というのは記す必要があったのだろうかと思った時、私はイエスの言葉を思い出した。エルサレム神殿内で両替や、牛、羊、鳩を売って商売をしていた人たちのテーブルをひっくり返した時、「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と食ってかかったとき、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる。」と言った言葉を思い出した。実際主イエスは不毛と思われたサマリアで、二日で本来の霊とまこととをもって父を礼拝する神殿を築き上げたのです。そして、そのことを実現したのは、一人の閉じこもりだった女性への主イエスの忍耐強い対応であった。そしてそのことは昭島教会が、昭島幼稚園が長年にわたって実践してきたことであり、その労苦の上に今の教会が、幼稚園が存在していることを思う時、新しい年への指針が与えられてと考えさせられた次第です。


[1] マタイ福音書3:7

[2] ヨハネ福音書8:48 旧約聖書続編シラ書50:26「シケムに住む愚かな者ども」という言葉があります。

[3] ヨハネ福音書3:14・15

[4] ヨハネ福音書3:16

[5] 井上良雄著「ヨハネ福音書を読む」新教出版社 p.77

[6] 1コリント3:16

[7] 使徒言行録8:4~8 ヨハネ福音書1:45

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