スキップしてメイン コンテンツに移動

生命を重んじる(2023年7月9日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌 532番 ひとたびはしにしみも



「生命を重んじる」

使徒言行録20章7~12節

関口 康

「人々は生き返った青年を連れ帰り、大いに慰められた。」

今日の聖書箇所について私が最初に申し上げたいのは、あくまで私個人の感想です。それは、この箇所の物語は、使徒言行録の中でだけでなく、新約聖書全体の中でだけでもなく、旧約聖書を含む聖書全体の中で見ても、違和感がある箇所だ、ということです。

今申し上げた点については、あとで再び取り上げます。その前に、もう少し大きな視野から、使徒言行録という書物を読む人が必ず引っかかる、ひとつの大きな問題を取り上げます。

それは、たとえば今日の箇所の7節に「わたしたち」という表現が出てきますが、これです。この「わたしたち」とは誰のことなのかが必ず問題になります。

もう少し詳しく申し上げますと、わたしたちが使徒言行録の最初の1章から最後の28章までを前から順々に読んでいきますと、最初のほうには出て来ない「わたしたち」を主語とする文章が16章10節から突然出てきます。「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(16章10節)。

その後も、すべての文章が必ずそうであるわけではありませんが、かなり頻繁に「わたしたち」を主語とする文章が出てきます。共通しているのは、パウロを団長とする伝道旅行団のメンバーを指していると思われる点です。しかし、だからといって、使徒言行録の著者がパウロではないことは明白ですので、団長パウロが自分を含めた団員全員を指して「わたしたち」と書いているわけではありません。

使徒言行録の著者は、ルカによる福音書の著者ルカです。使徒言行録1章1節に「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して」とあります。また、ルカによる福音書1章3節にも「敬愛するテオフィオさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」と記されていて、ルカによる福音書と使徒言行録が同一の著者によって記された2巻本の書物だったことを明らかにしています。

しかし、いま申し上げたことと、だからといって使徒言行録16章10節から出てくる「わたしたち」の中に、必ずルカが含まれていると考えることができるかどうかは別問題です。

パウロ団長率いる伝道旅行団の行き先を挙げていきますと、マケドニア、アカイア、エフェソ、ミレトス、そしていったんエルサレムに戻ります。そのあいだは繰り返し「わたしたち」を主語とする文章が出てきます。しかし、その後パウロが逮捕されて捕虜としてローマに連行されます。そのパウロが逮捕され尋問を受けている場面では「わたしたち」文はストップしますが、ローマに連行される最中と到着してからの部分で、再び「わたしたち」文が出てくると言った次第です。

それでは、それらすべての「わたしたち」文が出てくる箇所のすべての場面に必ずルカが同行していたと考えなければならないかというと、そうとは言えません。すべての箇所にルカが同行していたと考える論理的可能性が全くないわけではありませんが、そのように考えると矛盾する箇所がいくつも出てきます。

いまここで詳細な議論を説明することはできませんので、現時点で最良の結論を申し上げます。使徒言行録16章10節以降の「わたしたち」は、読者を物語の中に引き込むための文章表現上の工夫ないし技巧です。ドイツの新約聖書学者エルンスト・ヘンヒェン(Prof. Dr. Ernst Haenchen [1894–1975] )がそのように主張したと、私は別の資料で読みました。私もその線で納得します。

さて今日の箇所の内容です。ここに書かれているのは要するに、使徒パウロの説教が長すぎて、「ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった」青年エウティコが死んだので、パウロは説教をいったんやめて、エウティコのもとに駆けつけて抱きかかえましたが、そのときエウティコが息を吹き返したので「騒ぐな。まだ生きている」とパウロがそこにいた人々を制し、そのパウロがまた元の位置に戻り、さらに夜明けまで説教を続けてから出発したという物語です。

最後の12節に「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」と記されているので、物語自体はハッピーエンドであると言えば言えなくありません。しかし、このとき何が起こったのかを、それこそ「わたしたち」がこの物語の中に引き込まれて、パウロが延々と説教を続けて、死ぬほど眠くて、実際に死んでしまった人がいるほど人々を退屈させている場所に、わたしたち自身が居合わせていることを想像してみたとき、パウロがとった態度や言動に問題が全く無いと思えるかどうかを、ぜひ皆さんに考えてみていただきたいと私は思いました。

最大限にパウロの立場を擁護する方向で考えるとすれば、礼拝説教は最も大切なことであり、いかなる理由でも中断されるべきではないが、死者が出たのでいわばやむを得なく短時間の中断を余儀なくされたものの、エウティコがなんとか息を吹き返したので、その場にいた他のだれかにエウティコを任せたうえで、礼拝説教を続行したパウロは、神の言葉の説教者としての責任を果たすことにどこまでも忠実だったのだ、というふうに理解することも不可能ではないでしょう。

しかし、本当にそういう理解で大丈夫だろうかと私はどうしても気になります。パウロは説教者であるのと同時に牧会者でもあったはずです。一度は生命活動を停止した人が息を吹き返したからと言って、まるでそれはすでに終わったことであるかのように、そこにいた人に「騒ぐな」(黙れ)と一喝までして、エウティコを人任せにして、礼拝説教を続行するというのは、牧会者としてどうなのだろうと、疑問を抱く人がいてもおかしくないと、私には思えてなりません。

12節の「人々は大いに慰められた」というのも、一度は死んだエウティコを奇跡的によみがえらせたパウロの力に慰められた、という意味で書かれてはいません。あくまでも、エウティコが息を吹き返したことを神に感謝し、慰めを受け、喜んでいるだけです。

最初に申し上げた、この箇所に対して私が覚える「違和感」は、まさに今申し上げている点についてです。私にはこの箇所を書いているときの著者の心の中に、パウロがとった態度や言動に対する厳しい批判が含まれているように感じられます。著者ルカがこのときの事態について自分の意見を交えず、事実のみをたんたんと記していることが、かえって気になります。このときのパウロを皆さんはどう思いますかと、すべての読者に問いかけていると考えることが可能です。

今日の説教題を「生命を重んじる」としたのも、この点にかかわります。ひとりの人がわたしたちの目の前で突然亡くなった、緊急事態が発生した。それでも、なにがなんでも、礼拝と説教を続行することが、わたしたちのなすべきことかどうかは、わたしたち自身がよく考えるべきことです。私もいま「わたしたち」という言葉を繰り返して、みなさんを巻き込もうとしています。

「教会にとっていちばん大切なこと/ものは何なのか」を根本的に考え直す必要すら感じます。杓子定規は禁物です。柔軟で臨機応変な姿勢と対応が、わたしたちに求められています。

(2023年7月9日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「主は必ず来てくださる」 ルカによる福音書8章40~56節 関口 康 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」 今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。 なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。 出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。 たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。 しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだ

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 280番 馬槽の中に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 「栄光は主にあれ」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 (2023年8月27日 聖日礼拝)

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 494番 ガリラヤの風 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「悔い改めと赦し」 使徒言行録2章37~42節 関口 康 「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」 先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。 キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。 しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。 それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。 昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。 教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆で